映画「戦場のピアニスト」の脚本を読んだ。
(ロナルド・ハーウッド 富永和子訳 新潮文庫平成15年発行)
魂を揺さぶるような良い映画には、やはり奥深い背景があるものなのだと、改めて感心させられる。
脚本を読んでいると、手に取るように映画の場面が浮かんでくる。
見開きに「ウワディスワフ・シュピルマン著の回想録に基づく」と記されている通り、作品はポランスキー監督と脚本家ロナルド・ハーウッドによる。(いずれもユダヤ人で戦争体験者)
ハーウッドはインタビューにこう応えている
「・・・・・僕もポランスキー監督も、原作を読んで感銘を受けたことの一つに、一人称で書かれていたにもかかわらず、第三者のことを書いても、とても客観的に描かれているなという点があげられるんだ。そうした原作者の思いを尊重すれば、いきおい、意図的にドラマチックに仕立てるなんて行為は愚劣だってことになるだろう。典型的なハリウッド映画ではなく、僕らの映画を作りたかったからね。ポランスキーも、もちろんそういう意向を持っていたし。・・・・・どうやってストーリーを語っていくべきかってね。だから、スタイルとしては、原作に忠実にという感じになったと思う。・・・・」(同書245ページ)
いまどきのハリウッド映画の欠点を、ずばり衝いている。
つまり、ウワディスワフの回想に基づき、その体験に敬意を払いながら、真実を忠実に再現するための「創作、脚色」を施したのだ、ということだろう。従って、この映画が発表された当時、それこそ目糞ハナクソで
「あの瓦礫の廃屋でのピアノ演奏は不自然だ、調律されていないのに立派な音がでるはずはない」
などという批判があったそうだが、まったく的外れというほかないことになる。
映画の意図に無理解な、雑音に過ぎない。
「・・・・こうして今、事実を歪曲することなく映画化できたのは、僕らにとっても、関係者にとっても、良かったことだったと言えるだろう。・・・・僕自身ユダヤ人で。シュピルマン家ほど悲惨ではないにしても、あの時代に起きたナチのホロコーストに翻弄されなかったユダヤ人なんて皆無だ。・・・・・
・・・・でも、ユダヤ人迫害の実体験を積んでいる僕には痛いほど身にしみるストーリーなわけで・・・・、こうして脚本を書かせてもらって本当に良かったと、今では思っているよ。」(247ページ)
「事実を歪曲しなかった」とハーウッドは胸を張っているのだ。歴史を正しく記憶する作業のヒントになると思った。
当時ワルシャワは人口350万。そこに36万人いたはずのユダヤ人が、ドイツ軍が撤退したあとには、わずかに20人しか残っていなかったという徹底的な抹殺だった。その生き残りの一人が主人公シュピルマンだったのだ。
ポランスキー監督自身も
「・・・・私はポーランドの歴史におけるこの痛ましい一章を、いつかきっと映画化する時が来ると思っていました。(今まで撮らなかったのは)しっかりした題材が必要だったということもありますが、私自身がしっかりしたヴィジョンを持つ必要があったからです。いずれにせよ、自伝的な作品にはしたくありませんでした。なぜこの原作に出会って心躍る思いだったかと言うと、私の個人的体験に近すぎるということがなかったからです。勿論そこに描かれているのは私のよく知っていること、とてもよく覚えていることでした。そしてこれなら私自身のことを語らずに、当時の出来事を再現することができると思ったのです。」(20ページ)
と述べている。
事実を再現するための、いわば「パラドックス」というものがあるのだろう。二人ともホロコーストは他人事ではなかったが、個人史にはしたくなかったのだと思う。体験者として、自分の主観をなるべく排除して真相を表現する、ひとつの方法なのだ。
自分個人や家族の体験に左右されて、かえって視野が狭まり、全体像が偏ったり歪んだりすることを回避したかったのだろう。
この監督と脚本家の、「真実」への強いこだわりが映画に強烈なリアリティーを生む秘訣だったのだと思った。
私が感銘を受けたのも、まさにこの「リアリティー」なのだ。
また、翻訳者富永和子氏の解説によると主人公シュピルマンを演じたエイドリアン・ブロディも
「・・・・この映画に出るため、ぼくはアパートと車を売り払って、つまりすべてを捨ててヨーロッパに渡った。そしてピアノの訓練やアクセントの練習、61キロまで体重を落とす激しいダイエットを行なった。苦しくて辛い作業だったが一度も後悔はしなかった。それだけの価値がある作品だと思ったし、そうすることで彼らが受けた苦痛の1パーセントでも共有できるなら、という気持ちでいっぱいだったんだ・・・」(ページ)
すごい思い入れだ。
今、日本と中国や韓国で感情的な争いになっている、いわゆる「歴史認識」について、いったい何が真実でどれが虚偽なのか、わからないと感じている日本人は多いだろう。しかし、思考停止に陥ってはいけないと思う。もっと真相に迫ることは必ずできると思った。
それでは、今の混乱のもとは何か。
安っぽい政治家(屋)が国内向けに「宣伝利用」する。
感情に凝り固まった不毛な議論に固執する。
意図的な扇動家が世論誘導を図る。
だから、未だに冷静な共通認識もできそうにない。
そのうちに、また新しい「戦前」がやって来ないと誰が断言できるだろうか。
たとえば手塚治虫は、これを最後まで心配していた。
映画「戦場のピアニスト」を「創作」した人々の精神と手法には、そうした行き詰まりに突破口を開く示唆があるのではないだろうか。
マクナマラも、二度と愚行を繰り返さないために、敢えて証言と提言を残した。
歴史の真実への旺盛な探究心があると思う。
見開き18ページには、この映画の俳優やスタッフが集まって仲良く撮った集合写真が掲載されている。
ナチス・ドイツの軍服を着た俳優、ゲットーのユダヤ人を演じた人、それにスタッフたち。皆が仕事を終えて笑顔で映っているのだろうか。
あれほどに深刻なシーンを演出演技した人々だからだろうか、見ていてホットするというか、しみじみとした安堵感が湧いてくる。
「惨劇」は終わった。
改めて「平和」の尊さを噛み締める思いだ。