たぶん、小学校の5､6年生の頃だったか、我が家のすぐ裏隣に、初老の不思議な男性がひとりで住んでいた。
そこは大きな鳩小屋のような外見の住居で、外向きの大きな窓には金網のようなものが張り巡らされていて、戸外と室内とを分けていた。その人は金網の内側から、日がな一日じっと外を凝視して座っていることが多かったように思う。
白髪交じりで伸び放題の長髪を後ろに束ね、からだは小太り、眼は猛禽類のように炯々として鋭かった。
部屋は日中でもうす暗く、汗臭いすえた匂いがした。
そのヒゲもじゃの相貌は忘れられない。
印象として誰かに似ているのだが、思い出せないでいた。
最近になってそれは写真で見たカール・マルクスに似ていたと気がついた。伸び放題の髭の有様がよく似ていたように記憶している。あくまで印象に過ぎないが。
ともあれ、この「変なおじさん」が語る奇怪な話を聞くのが面白いので、学校が終わった後よく遊びに行ったものだ。子供らしい怖いもの見たさだったのだろう。
正確な話の内容は忘れてしまったが、なんでもこのおじさんは山奥で修行に励んで神通力のようなものを得たのだという。今から思えば、いわゆる山岳宗教の「修験者」(行者)だったのかもしれない。
その話によると、人の病の原因は悪霊(悪い「気」か)のしわざで、その悪霊を取り除く術を身につけたのだという。
見ていると、人の病気を治すため患部に掌をあて、半眼で一心になにかを念じる。呪文を唱えていたかもしれない。すると反対側の手を肘からすっぽり包んでいるビニール袋が次第に膨らんでゆくのだ。病人の患部にあてている掌から悪霊が吸い取られて反対側のビニール袋に移動するのだ。
悪霊が患部に当てている掌からおじさんの腕を通り肩から背中を経由して、反対側の手を包むビニール袋のなかに移るのだという。不思議なことに、確かにその黒いビニール袋が、時間をかけてゆっくり膨らんでいくのだ。
これは何回も実際に見た。
このとき悪霊が冷気となって おじさんの背中を通過するので、本人はその冷たさでぞくぞくすると言っていた。私の目には何もみえないのだが、おじさんは、ありありと感じているようだった。何回観察しても、子供だましのトリックなのか、本当に起きていることなのか、判断はつかない。子供心にも「インチキ」ではないかと疑ったが、どうしてもごまかしは発見できなかった。膨らんだビニール袋は「悪霊」を閉じ込めたからだという。
部屋の中には、 膨らんだビニール袋がひもで縛られ無造作にいくつか転がっていた。
あの袋がその後どう処理されたのか、記憶にない。
不思議な光景だった。
この人は近くの銭湯でもよく見かけたが、その場で出会った見知らぬ他人にいきなり言葉をかける癖があった。そして、その相手の人の状態をぱっと言い当てるのだ。いま何を考えているのか、あるいは何に心を奪われているのか、何か困ったことがあるのか、好きな食べ物、来歴など、その場でずばり言い当てるので、皆から気持悪がられているような様子だった。
私も脱衣場で親子でいたとき、「あんたのお父さんは頭がいい人だなぁ」と言われて、父はまんざらでもないような様子だったことが、今思い出しても微笑ましい。お世辞を言うようなおじさんではないが、なにの根拠もなくいきなり断言する。
面白いので、同級生の友達を連れて遊びに行った。
会ったとたんに
「お前はふだん食べ物に好き嫌いが激しいだろう。嫌いなものはまったく口にせん。そのくせ好きなものはいくらでも食べよる。」と指摘されて驚いていた。
友達は素直にうなずいていたが、私はそのくらいなら誰にでも当てはまる話ではないかとも感じた。内容は忘れたが、そのあと友達に何かまじないみたいなことを施していた。私は最後まで何の施術も受けなかった。
ある日また遊びに行くと、見知らぬ白髪老齢の女性が、くだんのおじさんが住む「鳩小屋」の前の、小さな家庭菜園風の庭を箒で掃除していた。
見かけぬご老人なので、何をしているのかと思って見ていたからだろう、子どもの私に向かって
「・・・お陰で病気を治してもらったから、せめてものお礼に掃除をさせてもらっているのよ」
というようなことを話しかけてきた。和服姿で、品の良い老婆だったことを記憶している。
おじさんの「鳩小屋」の隣は、キリスト教の教会で、そこの牧師の娘は中学校の同級生だった。それにしては大人びたお姉さんに見えたのだが、肺結核を患って留年したらしいので、私よりも少し年上のようだった。
この「修験者」(行者か)のおじさんはある時、自分はいずれ東京の国会議事堂に出席して国民向けに大演説することになっているのだと、真顔で私たち子どもに語っていた。
あれから半世紀以上は経たから、もうその「修験者」もこの世にはいまい。(あるいは神通力で、今もどこかに生存しているのだろうか）
もちろん、国会で演説などはしていないに違いない。
もちろん、このおじさんとマルクスとでは「他人の空似」にもならないのだろう。
科学的社会主義と呪術とでは思想的にはおよそ対局的だと思うが、なぜか私の中ではぴたりとイメージが連結した。
