思い出は狩の角笛  風の間に間に声は死にゆく

職場の事務所前に、ある朝、くっきりと虹が出た。

出勤前に出会った偶然。
立ち止まって見ている間に色あせていった。
雨上がりの、わずかな間の出来事だった。

そのとき、ふとわれに帰った気がした。

いつも、時間に追われてうつむき加減にせかせか歩いていたからだろう。
空なんてゆっくり見たことなかった。

確か、ハックルベリー・フィンにとって虹は「希望」だったらしいことを思い出した。

思わぬ「綻び」を虹が差し込んでくれた・・・・・。

 

・・・・思えば、 かなり他律的に始まった「人生ゲーム」

予め承知した覚えもないルールに投げ込まれ、後ろから押されてここまで来ただけのような気もする。

ときに自分が疎外されているような違和感も浮かんだけど、立ち止まって考えるほどの余裕はなかった。すでにがっちり組み込まれていて身動きできなかった。

それは取り敢えず後回しにして、
なんとかここまで生き延びた。

つまり、正直に告白すれば、
「如才なく世渡りしてきた。」
その場その場の役柄をわきまえて振る舞い、演じ、生きながらえ
そして「現役」が終わった。

どうやら、「戦力外」になりつつある。
あっけないものだが、こういう「部分解放」があったのだ。

しかし、このほうが居心地はいい。
何と言っても、放っておいてもらうのが一番気楽。
Leave me alone.

もう、他人に合わせて「演じる」ことが減ってきたお陰だ。

演じただけ

そもそも、就職活動を控えた大学4年のとき、どうやって飯を食っていくのか、まったく考えていなかった。
自分が何をしたいのか、よくわからなかった。

結局、出たとこ勝負で決まった会社に入っただけだった。
その業種すらまともに考えてはいなかった。

案の定、会社は窮屈でブルーだった。
何よりも、仕事に興味が持てなかった。
上司や同僚には申し訳なかったなと思う。

ただし欠勤などはしなかった。ともかく溢れる雑用をこなしただけ。

毎日空しかったが
自分を棚に上げて会社に文句は言えまい。

 


48年ぶりの中学校同窓会に出てみた
なんと、クラスですでに
5人も亡くなっていた。

とりあえずはぎこちない懐旧談
営業活動の延長線よろしく名刺配りに勤しむヤツには呆れる。

座り心地が落ち着かない。
懐かしさよりもむしろ他所行き感覚。

つまりは
「ここに来れる今」を語れる人だけの集まり。
思い出話も途切れがち。
むしろ、ここにいないヤツのことが気になる。
どうしているのだろう。

そういえば、今年春、世田谷の小学校の頃の同級生T君宅を訪ねてみた
大きな屋敷だったはずだが、跡形すら無かった。
近所の古老の話では、すでに死去したとのことだった。

夕闇の自由が丘駅前の雑踏の中、探偵ごっこをしたあのT君
もう、薄明のなかに消えかかっている
クリスチャン・ボルタンスキーの作品を思い出した。
イメージが響き合う。

あれはいったい何だったんだろう。

 

普通は、さっさと忘れてしまうから生きてゆけるのだろう。

そうしていずれ自分もこの世から消滅するのだろうか

なにかで見たが、「無」と大書された小津安二郎の墓石を思い出す。

そろそろ自分も店じまいを考えなくちゃ。

 

若いときに知ったフランス詩人の美しい言葉が思い浮かぶ・・・・・・・・・・・

「思い出は狩りの角笛 風のまにまに声は死にゆく」

アポリネール

深い意味はわからないが、なぜかずっと心に残っていた

“思い出は狩の角笛  風の間に間に声は死にゆく” への2件の返信

  1. それは、過ぎ去った青春への、限りない、郷愁では、ないでしょうか。
    自分の中だけにある、幻の想いでは、ないでしょうか。

    1. そうです。
      それは、けっして、他者と共有し得ない、他者には分かり得ない、已れひとりの孤独な想いである。

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