三車火宅の譬(1)


 「法華経」というお経は、基本的に主人公・お釈迦様(釈尊)の説く説法物語。読者の想像力を刺激するスケールの大きな構成だと思う。そのなかに七つの譬え話が説かれているが、第三章「譬喩品」では有名な「三車火宅の譬え」がみえる。(上図は敦煌莫高窟10世紀)

弟子の中で「知恵第一」と称えられる舎利弗尊者が、直前の第二章「方便品」の説法があまりに難しい(舎利弗にしかわからなかった)ので、他の弟子たちにも理解できるように説いて欲しいと釈尊に要請にした。そこでこの譬え話が披露されたという。
 精密に読解できる能力もないので、仏教学的な解釈は専門家に譲るとして、むしろ芥川龍之介の小説「蜘蛛の糸」との比較を念頭に味わいたい。
 原文は読みにくい漢文で反復も多いので、ここでは我見にまかせて思い切った意訳をさせてもらう。 

> むかしむかしのお話です。
あるところに年老いた大長者がいました。
長者は裕福で多くの田畑を持っていて、大きな邸宅に住んでいます。そこでは多数の召使を雇っていました。その大邸宅には、たったひとつの門がありました。
そして、長者には多くの子どもたちがいたのです。

しかし、家はかなり古くなったのでところどころ壁は崩れ落ち、腐りかかっている柱もあるほどでした。梁や棟には危険なまでに傾いたものもあったのです。

 ある日、その邸宅の一角から突然出火、瞬く間にメラメラと燃え広がり始めました。
火事です!
危険を察知した長者自身は家から無事逃げ出せましたが、多くの子供たちが家に取り残されてしまいました。外から見ていますと、紅蓮の炎が四方から子供たちに迫ってくる有様で、長者は子供の安否を思い大いに恐れました。

 長者は外から子供たちによびかけました。
「早く逃げ出なさい!恐ろしい炎が迫っている。火に焼き殺されないうちに、さあ、出なさい!」
と必死に叫ぶのですが、遊びに夢中になっているこどもたちは時々長者の方をチラと見るだけです。父がいつものように小言でも言っていると思ったのでしょうか。
長者は思いました。
ーーーー子供たちは火事がどれほど危険かを知らない。だから驚こうともせず恐れもしない。いくら「逃げなさい」と言っても、耳を貸そうとはしないーーーー
 子供たちは広い邸内を無邪気に東へ西へと走り回り、遊び惚けています。
 そこで、長者は一計を案じました

父は子供たちがいつも、いろいろ楽しそうなものに心を動かされることを知っています。こう言いました。
「じゃあ、珍しい玩具をあげよう。お前たちが日頃から欲しがっていた羊や鹿や牛が引く車(三車)をあげよう。さあ、門の外に置いたので急いで取りに来なさい!」
それを聞いた子供たちは一転大喜びで、競って邸宅の門(一つしかありません)から我先にと走り出てきたのでした。
こうして子供たちは「火宅」を逃れることができました。やれやれ。

そしてすぐに
「お父さん、さっき言っていた玩具の車を下さい」とせがんだところ、長者はなんと玩具ではなくて、本物の立派な牛の車を一人一人に平等に与えました。
 その車は高くて大きく、豪華な宝石で飾られ、美しい花房が垂れています。周囲には黄金の手すりがめぐらしてあり、四隅には鈴もかけられています。上は天蓋を張り、そこから四方へ美しい縄も渡されていました。そして、その車を引くのは雪のように純白の大きな牛でした。皮膚のツヤが清らかで美しく、筋骨たくましい牛でした。
 しかも、この豪華な車には多くの召使がお供していました。

 長者はどうしてこんなに豪華な車を子供たち全員に等しく与えたのでしょうか。
それは、彼の蔵には財宝が無尽蔵にあったので、最愛の子供たちに惜しみなく与えることができたのでした。
 こうして、子供たちは、はじめにもらうつもりであった玩具の車とはくらべものにならないほんものの「大白牛車」に乗って、おおはしゃぎしました。 
めでたしめでたし。

>おしまい

 芥川の「蜘蛛の糸」とは比べようもない駄文だが、私の関心はむしろ、「救い」をめぐるお釈迦様の姿や振る舞いの大きな違いにあった。このお話で長者はお釈迦様、こどもたちは、「衆生」(専門的には修行者)にあたる。ここではカンダタの場合で問われたような「罪」の問題ではなくて、もっと普遍的な「救い」をテーマとしている。だから、芥川の「蜘蛛の糸」との落差が気になっていた。
 あくまでおとぎ話なのだから、例えばお母さんはどこに行ったのか、なぜ大邸宅に門がひとつしかないのか、これほど邸宅が劣化する前に改築しておけば良かったのになどと、すぐに心に浮かぶような「合理的な不審」はここでは意味がないだろう。そこは「蜘蛛の糸」と同じく仏教説話なのだと思う。むしろ、設定の仕方に作者の意図がある。
すなわち、イメージしやすいように敢えておとぎ話として象徴化したのだろう。だから、そこにどんなメッセージを伝えようとしたのか、お釈迦様の意図を探らねばならないのだろうと思う。

 初めてこの譬え話を読んだ若いころから、このストーリーは印象深く私の心に残っていて、よく思い出された。確かに私たちは炎のなかにあると思う。
 そろそろ「終活」を意識する年齢にさしかかってみて、この現状認識がいっそう鮮明になってきた。
 年老いてわが身を素直に振り返ってみれば、そこにまったく「罪深さ」や「後悔」がないと断言できる人は多くないだろう。
誰にとっても、人生の清算は厳しい。これに直面することを避けている人の方が多いかもしれないし、そもそも、忘れてしまっている場合もあるだろう。人生、全て覚えていてはその重荷に耐えられないかもしれない。
だが、他人の眼は誤魔化せても、自分の心の奥の眼はかっと見開いているに違いない。普段忘れていることも、死ぬ瞬間に、まるで走馬灯のようにすべてわが身に還ってくるという話も多い。
 そのうえ、眼を外に向けると、戦争、内乱、飢餓、難民、殺人、気候変動など、世界はまさに「紅蓮の炎」に満ちている。
 「火宅」のイメージが、感染症の猛威や核兵器の使用すら危惧される現今の世界をよく言い表していると思える。
にもかかわらず、私たちはその日その日を眼の前のことのみに囚われ、まるで遊び戯れているこどものようにも見える。
救いはどこにあるのだろう。

 だから、教科書で読んだ「蜘蛛の糸」には、何か強い欠乏感が残った。
それは、お釈迦様から酷薄なまでに「救い」を拒絶されたと感じたからだった。

※本サイト『ワクチン争奪戦と「蜘蛛の糸」』(2021年2月12日~)

 法華経「三車火宅の譬え」「蜘蛛の糸」ではかなり異なった仏様のイメージを提示している。長者はなんとか子供たちを救おうと智慧をめぐらした。
 場面設定が違うので、両者を比べてみて、その優劣を安易に判じることはできない。それにしても、同じ仏教説話でも落差が大きいと思うが、いかがだろうか。
私はそこに芥川龍之介の絶望感の深さを感じる。

仏教観の違いだろうか。