ハンナ・アーレントが「生身のナチス」をこの目で見たいと志願して傍聴したという、1961年イエルサレムで開かれたアイヒマン裁判には、膨大な実写記録があるらしい。
アメリカの報道番組「Democracy Today」のインタビューで映画「ハンナ・アーレント」のMargarethe von Trotta監督が指摘しているように、その裁判記録をハンナ・アーレントの視点に沿って編集した記録映画が、1999年のエイアル・シヴァン監督によるドキュメンタリー映画「スペシャリスト~自覚なき殺戮者」だそうだ。
監督がイスラエル出身の映画であることに意味があると思う。
裁判では、からくもホロコーストを生き残った人々の生々しい証言に圧倒される。人間が人間に対して、ここまで残虐に振る舞えるということを、しかと心に刻んだ。あらためて、人道にもとる大殺戮であったことを思い知った。
ナチスの同盟国であり、アジア太平洋で侵略戦争を起こした日本。関係がないなどとは言えない。今も世界はそうシビアに見ていることを認識すべきだ。ただし、アメリカとの戦争にはまた別の意味も加わるように思う。有体に言って日米の中国における「利権争い」の側面もあったのではないだろうか。いずれにせよ、外交に暗い日本の愚かな指導者と、それを情緒的に支持した国民が招いた厄災であったことは否定出来ないと思う。
しかし今、冷厳な歴史の事実を、安っぽい「政治ゲーム」に利用するあざとさには与するべきではないのではないだろうか。
つまらない思惑を排除して、本当に真心からなる追悼が必要だと思った。
そして、二度と起こさないための闘いが必要だろう。
イエルサレムのアイヒマン裁判のとき、戦後すでに16年あまり経っていたが、証言者の心の傷はまったく癒えていない。それどころか、なかには記憶が蘇った興奮のあまり気絶してしまうような被害者もあって、心が塞ぐ。
ナチによって刻印された、ユダヤ人であることを示す入れ墨のあるスタッフの腕も映されていて、尚更に臨場感を高めている。
映画「ハンナ・アーレント」でも、イスラエル全土が裁判のラジオ傍聴に釘付けになっている様子が描かれていた。初めて露わな事実を知りショックを受けた人もいたことだろう。
これほど大規模な戦争犯罪を目の当たりにさせられると、ユダヤ人でなくともナチスの蛮行に対する怒りを持つのは当然の感情だと思う。
ところが、その怒りにすべて身を任せてしまうと、今度は足を掬われ政治的に「利用」されかねない、というのがこの世の恐ろしさ。民衆の感情のうねりを細目に見ながら、裏で算盤をはじいている曲者がいるのだ。特に、昨今の「ポピュリスト」といわれる質(タチ)の悪い政治屋、情報屋の意図的な操作には油断がならない。
そしていずこであれ、政治的に「創作」された「建国神話」などという話には、あざといトリックが多いのでくれぐれも用心するに越したことはない。損をするのは結局は民衆なのだから。こっちが賢明に見抜かないと騙されるのが、これまでの歴史だったと言っても過言ではないようにすら思える。だいたい、「国家や民族」と自分自身を興奮状態のなかで「不可分」「一体」などと感じさせるような装置が危ない。「罠」である場合のいかに多かったことか。それこそ「眉唾」して疑うべきだろう。
それは「民主主義」が広く普及した今も同じであって、むしろよく指摘されるように、理想的な「ワイマール民主主義」からナチズムが産まれた。
アーレントが容赦なく指摘したように、表向き裁判には登場しないベン・グリオン首相(当時)の政治的な思惑が見事に達成された裁判だった。
私は、ホロコーストを経験した民族がなぜパレスティナ人を残虐に圧迫できるのか、かねがね不審に思っていた。しかし、「ハンナ・ハーレント」を見て、私が素朴に考えていたような単純な話ではないことが分かってきたようにも思った。全き「善」や「悪」があるのではない。「被害」と「加害」の二元論にも真相を見落とす落し穴がある。
ドイツ語、ヘブライ語をまったく解さないので、字幕を見ながら映像で眺める限りだが、この特別法廷でのアイヒマンの様子は比較的わかりやすく読み取れると思う。
すなわち、こんな見世物裁判に登場させるため、はるばるアルゼンチンから拉致され、一方的に断罪される不条理さへの反感がその表情にありありと出ているように見える。茶番だと言っているのだろう。
劇場を臨時改装したという裁判所のなか、特設防弾ガラスの中にいる、かごの鳥のようなアイヒマン自身は、自分がどういう状況の只中にあるのか、十分自覚していたと思われる。映画「ハンナ・アーレント」でも、「私は生きたまま焼かれているようなものだ」と陳述している。つまり、ユダヤ人の復讐のための、みせしめに供された囚われの身。
だからアイヒマンに悔悛の風情はまったくない。政治的な意図を帯した検事の追求には徹底抗戦にこれ務めた。罪を断固認めないのだ。
思い余って裁判官の一人がアイヒマンにあの当時「市民の良心」を発揮する可能性はなかったのかと尋問している。いかにも人間アイヒマンを慮った助け舟のように見えるが、ないものねだりにも見える。
映画「戦場のピアニスト」に登場した実在のドイツ軍将校、ホーゼンフェルトのような奇跡的な人道の士とはまったく対極の行為に邁進したアイヒマンだったが、素顔は決して鬼畜などではなくて、ごく普通の平凡人に過ぎなかったのだ。彼はナチスという組織の中で全力で働いていた頃、それが人道にもとる行為であるのかどうか、自問するような「人間」ではなかった。そして、実は誰しもがアイヒマンになり得る。
アーレントが指摘する「悪の凡庸さ」(the Bnality of Evil)とはそういう意味なのだろう。
ナチス全体主義のなかでSSのいち官僚(最終階級は中佐)として職務に精励したアイヒマン。国家が存亡の際にあった戦時体制のなかで、1個の「人間」としての良心を発揮することなど無理な相談だというべきだろう。旧大日本帝国のほとんどの将官の惨めな姿を思い出せば頷ける。
アイヒマンはナチが誇るSSの軍人であり、上官の命令に絶対忠実を誓った技術将校として、ユダヤ人を絶滅収容所に送る、もっとも効率の良い移送計画を立案実施した。任務遂行に高い能力を発揮した将校だったからこそ、逃亡先まで追及され捕縛されたのだ。虐殺された側から考えてみれば、許しがたい悪魔的罪人であるに決まっている。
しかし戦時体制の独裁国家組織にあって、その一歯車に過ぎなかった自分が、ことの善悪是非を問えるような立場にはなかったのだとひたすら抗弁している。これも当然の反論に思える。ほとんどの人が同じように「凡庸」な人だろう。審理は完全にすれ違いだ。
アイヒマンはまた、ユダヤ人問題の最終解決としてその絶滅政策を決した「ヴィンゼー会議」の書記であったときの役割と責任性も問われている。検察側はアイヒマンをホロコースの主犯格の一人に仕立てたい。大袈裟な振り付けの施された裁判は、はじめから結論の決まった出来レース・ショーであるかのようだ。
しかし、ところどころに綻びも垣間見える。これはイスラエル政府にとっては手痛い計算外だったのだろうか。特にナチ占領下の「ユダヤ人協会」の証言は衝撃的だ。ナチに協力するほかなかったと弁解するのだ。
要するに、単純に白黒を付けて性急な断罪を下すことではない、としか言えないと思った。
「裁判ショー」で政治効果は得たものの、人間の罪を裁く作業としては決して成功したとはいえないだろう。今も議論は続いているようだ。かといって、ナチスの人道にもとる犯罪性が免責されることは永遠にない。
そして確かなことは、当のイスラエル出身の監督がこうした映画を作る時代に、我々は生きているということだろう。
この視点はしっかり押さえて、現代世界を考えるべきなのだと痛感した。
あの時代にあって、ごうごうたる同胞の非難を覚悟した、ハンナ・アーレントの勇気ある主張・・・・その真実を見極めようという信念が、やっと冷静に議論される段階に入ってきたのだろう。
パレスチナ問題も含めて、現代を考える一つのヒントにもなるのではないだろうか。