熊野古道中辺路を歩いてみた

この春、熊野古道の事情を知らなかった私は、案内もなく古道に分け入り、少し無謀なことをしたものだった。
紀伊田辺から路線バスでたどり着いた、熊野神域の入り口という「滝尻王子」で「熊野古道館」を見学するだけの予定だった。だが、古道館の受付の女性から栗栖川バス停までなら古道を歩いても、帰りのバスには間に合うと聞いて、思わず欲をだして歩いてみた。咄嗟の思いつきだった。

それが、あれほど急峻な登り坂ばかりが続くとは想像もしていなかった。高原熊野神社にたどり着くまで2時間余りだったか、大いに疲弊して、帰りの「栗栖川バス停」から這々の体でやっと帰ったのだった。
その晩はさすがに足腰が痛くて、宿舎の階段の登り下りがとてもきつかった。

以来、こんな体たらくでは「熊野古道を歩いた」などとは胸を張って言えないと心残りに思っていた。それでこの秋に入ったある日、僅かの間隙を縫ってもういちど熊野古道の中辺路を半日歩いた。
今度は古道の中でも最もポピュラーで初心者向けという中辺路の、「牛馬童子口」から「継桜王子」までを歩いてみることとした。

しかし田辺駅前の早朝のバス停。
空模様を見ると厚い雲が垂れ込め、どうもあいにく天気がよくない。午後からは所によっては雨だという。
しかし、この日しかないので、中止せずそのまま出発してみた。
天候が悪くなったら、途中で引き返せば良いくらいに考えた。

田辺駅前の早朝の空模様

ところで、今年はかつてない異常な暑さと大雨禍、その後は猛烈な大型台風の度重なる襲来に長雨続きだった。この自然現象の変調ぶりは、どうやら地球環境にかなり大きな狂いが生じて来ているのではないかと誰もが感じるのではないだろうか。夏の猛暑ぶりは、明らかに年々増している。
そしてそれは、CO2をはじめ自然との共生感覚を無視した人間自身の傲慢な生活スタイルに根本的な原因があるのではないだろうか。

素人なりに思うのだが、例えば、「環境負荷」を考慮しないような人間中心の「経済学」や「経済政策」など、もはや有害と言っても良いのではないだろうか。
そんなことを漠然と思いながら、熊野古道を一人で歩くことが楽しい。
人混みを避けて平日を選んでやって来たので、今回もほとんど独り歩きだ。

歩きながらふと気づくと、道端に10センチは超えるような大きな「ムカデ」が私と並走している。

かと思えば、小さなサワガニが眼の前を横切る。草葉に我が身を隠しながら、さっと横向きで歩くのはご愛嬌だ。

牛馬童子の標識

鬱蒼たる樹林がしばらく続いた後、少し小高い丘のようなところに「牛馬童子」の像があった。

牛馬童子

古拙な表情が有名だが、意外に新しくて明治時代のものだという。後ろには役行者像。これも同時代らしい。


むしろ、最後尾にある「宝筺印塔」のほうがはるか鎌倉時代のもので文化的な価値も高いそうだ。礼拝の対象だったのだろうか。

やがて、石畳の坂道を降りると、「近露の里」が開けた。
入り口は桜の名所だという。里じたいは盆地だと思う。

近露王子の碑

碑の近くには足湯があって無料だが、足を入れてみると温かくはなくて、生ぬるい温泉だった。午前中だったからか、人通りはまったくない。

近露の足湯

近露はかつて宿場町だったそうで、今も民宿や温泉、喫茶店とか土産物店などが点在する。
ここからは古道も舗装された車道に重なり起伏も緩やか。
山道というよりは、ピクニック気分で歩ける歩道。沿道には郵便局や伝馬所跡もあった。散在する民家ではよく手入れされている立派なナンテンの実が美しかった。

隣の黄色のナンテンも見事なもので初めて見た。

舗装された車道を歩いていると、脇道に咲く花に大きなアゲハが止まっている。思わず近づいて撮ってみた。逃げようとしない。

やがてポツポツと雨が振り始めた。どこか最寄りのバス停で帰路のバスを捜そうかと考え始めたが、ともかく継桜王子「野中の一方杉」まで歩いてそこからバスに乗って帰ろう。地図を見ると、あと一時間もすれば到着しそうだ。

歩きながら面白い姿の木の根を発見した。


枯木の根から新しい木の芽が吹き出てきている。
この光景は面白いと思った。

そうこうするうちに「継桜王子(野中の一方杉)」に差し掛かった。だいぶ曇り空で時折雨粒がポツポツ落ちる。幸い小さなビニール傘を持参している。

継桜王子(野中の一方杉)

熊野古道といってもこのルートは車道と重なる箇所も多く、歩くのにはほとんど苦労がない。しかし、よく考えてみるとやはり舗装道に大型トラックが行き来するのでは「古道」の風情としては少し興ざめかもしれない。

「野中の一方杉」には立派な古農家風の休憩所(とがの木茶屋)があって、無料でお茶を接待してくれた。近在の人がボランティアで古道歩きの客を親切に迎えてくれているのだそうだ。
入ってみると立派な囲炉裏もあって、かつては民宿として使われていたそうだ。

断続的に小雨が降るので、そろそろ帰り方を考えていたが、聞くとここから「小広峠(こびろとうげ)」まで40分~50分の道のりだという。そこから国道311線の路線バスに乗れば田辺駅に戻れるということだった。手書きの地図までくれて丁寧に説明していただいた。初心者にはありがたい親切心。ここに記して謝意を表したい。

まだ雨は小降りだし、せっかくここまで来たのだから、もう少し歩こうとすぐに出発した。別れ際に小さな手作りの折紙のお土産を無料で頂いた。人の温もりを感じる。

小広峠までは舗装道が多いが、時々古道らしい風情の道もある。

小広峠のバス停でたった一人で雨傘をさして空を見上げると、霧雨けぶる高い連峰づたいに這うようにして雲がゆったり動く大きな景観も、それはそれでなかなか風情があった。
ひっそりとした山中だが、バスは予定通り来た。やはり外国人客が数人。

こうして近露の里で一時間ほど休憩したことを含めて、牛馬童子口から4時間ほどの行程だったが、出会ったのはたった一組、千葉県からはるばる熊野古道にやってきたという6~7人の中年男女のグループだけだった。

結局、午後には田辺市内に戻っていた。
できれば、桜や紅葉の時期にチャンスを見つけて歩くべきなのだろう。とがの木茶屋で見た11月末の紅葉の写真は、素晴らしい絶景だった。