世間やマスコミの誤解に晒されたというカラスについて、もう少し詳しい背景を知りたいと思って資料を捜していたところ、文春文庫『滅びのチター師 「第三の男」とアントン・カラス 軍司貞則1995年』を発見した。
そして、この格調高く物悲しいメロディーの源泉に触れることができたように思う。
このノンフィクション作品は、カラスが生きた当時のオーストリア、ウイーンの社会事情をよく捉えている。前回紹介した「激動のウイーン 『第三の男』誕生秘話 チター奏者アントン・カラスの生涯」では、あまり触れられていない側面を知ることが出来る。前著とあわせて読んで、映画とカラスの成功がもたらした、現地での意外な反響を知った。これを通して、中欧の歴史的社会的な事情を知るひとつの視点を得たように思う。
ウイーン郊外の、とあるホイリゲでカラスを発見したキャロル・リード監督は、さっそくロンドンの自宅にカラスを迎えた。映画のテーマメロディーをチターで創作するためだった。
しかし、慣れない外国生活と作曲(それも映画音楽)作業に直面して、実直なカラスは大いに難儀した。
「・・・・・前夜良いメロディだと思っても、一晩眠って新鮮な頭で聴いてみると陳腐に感じられることもあり、リードの要求にこたえられる曲がなかなかできなかった。『それでも多い日は十六時間もチターの前に座った』とカラスは述懐する。」(滅びのチター師 「第三の男」とアントン・カラス 文春文庫60ページ)
リード夫人の回顧によると
「一日十六時間もチターの前に座ると、セメントのようになった指もボロボロになった。『カラスの指をみたらびっくりしてしまいました。指の肉が裂けて、そこから血が流れているんです。それがチターの弦について赤くなっている。気味が悪くなってしまって、痛いでしょう、そんなに根をつめてやらなくても少し休んだらどうですか、って言ったんです。しかしカラスは、まだこのシーンのメロディが出来ていないから休めないって、チターを弾き続けていました。』・・・・カラスは必死だった。ホイリゲの演奏とは比較にならない程、精神的にも肉体的にも疲れていた。・・・・」(同61ページ )
この様子は凄惨ですらある。
そして1949年3月下旬のある夜、リードはついに廊下で大の字になって『オレは死んだ!死んだんだ! 死んだ人間を蘇らせることができるのはお前のチターだけだ。カラス、チターを弾いてくれ!そして素晴らしい音楽で死んだオレを蘇らせてくれ !』と、叫び声をあげてカラスに作曲を迫ったという。
カラスは、切羽詰ったところに追いつめられた。
「そのとき、カラスがあの二、三小節を弾いたのである。世界にセンセーショナルを起したあの二、三小節を・・・・・。それはたった十秒間の出来事だった。」(同80ページ)
こうしてこのわずか十秒ほどのメロディーが、死んだはずのハリー・ライムが親友マーチンスの前に登場する、あの有名なシーンに初めて響いた。暗がりからポッと飛び出たオーソン・ウエルズの微笑みを、誰しもいちどは観たことがあるだろう。
このわずか七音の原型を、リズムを変え、メロディをわずかに変化させて5分に延ばし、それを更に6通りか7通りにチターで弾くようにリードは命じたらしい。こうしてやっと歴史的な映画音楽が完成したのだった。六ヶ月の苦闘のすえだった。
改めてキャロル・リード監督とカラスの運命的な出会いと情熱が、いかに映画の成功の因になったかがわかる。カラスの能力を信じ、粘り強く導いたC・リードの慧眼。同じ歳だがいわば「師弟」の絆を感じる。
リードは、チターという伝統楽器と奏者カラスを、自ら広く世界に紹介した。生まれ育ったウイーンと6年の兵役体験がすべてだった、世間知らずのカラスには、まったく予想外の人生展開だった。
映画は第3回カンヌ映画祭グランプリを受賞し、チターとアントン・カラスの名声は瞬時に世界を席巻した。文化領域に占める映画の比重が、今日よりもはるかに大きかった事情もあるだろう。
カラス自身が「ミスター・シンデレラ」とニック・ネームを付けられるほどの、あっという間の身辺の大変化だった。
それまで、ウイーンの場末のワイン酒場で生活のために細々と演奏していた貧しい姿からは、想像もつかない展開だった。その演奏旅行は世界各地で大歓迎を受け、とうとう英国、オランダの王室やローマ法王の御前でチターを実演するというステージにまで上り詰めた。
しかし世界的な名声を得た後のカラスには、思わぬ厳しい試練が待ちうけていた。意外にも故郷ウイーンの人々にはあまり歓迎されなかったようだ。大成功で得た金で、カラスは自らホイリゲを経営した。
しかし開店後わずか4ヶ月で営業差し止めという処分まで受けた。背景は複雑だ。
「・・・・カラスはもともとシーべりングのホイリゲでチターを弾き、そこで育った。ところが、有名になるとみな、カラスを使わなくなった。それでカラスも孤立して、自分で店を持ったのだろう」(同143ページ)
「カラスは人気者、有名人である故にホイリゲの同業者から妬まれていた。それは、カラスが『第三の男』という、ハプスブルグ朝の栄華ではなく荒廃したウイーンを舞台にした映画で世に出、しかもたった一曲で富と名誉を築いてしまったことに由来する。それに反撥する感情が、カラスが帰国してホイリゲを開き、同業者の分までまた稼いでしまったことで、一気に爆発した。・・・」(同143ページ)
映画自体も著者の調査によると
「・・・映画『第三の男』がウイーンで封切られたのは1950年3月10日。4月16日まで5週間、市内6区にある”アポロ劇場”で公開されたが、当時ウイーンに182軒の映画館があったにもかかわらず、『第三の男』を上映したのは、たった一軒だけである。」(同147㌻)
これは以外な事実だ。
更に、カラス自身への「民族差別」も見逃せない。
「・・・・ヨーロッパの名前は、・・・・『姓』にも『名前』にも歴史ときまりがあるのだ。それだけにカラスの出自に関して姓名が占めるウエイトは高いといえよう。
カラスファミリーの名前を検討したかぎりでは、スラブ系とマジャール系が渾然となっていることがわかった。そして明白なのは、ゲルマン系ではないということである。・・・・」(同171ページ)
「・・・カラスのチターの腕、父カールと長男カール2世の金属細工師という特殊職業、ハンガリー系の姓、そして、”バルーン”のメロディ(チゴイネル風)。・・・・・カラスの祖先がハンガリーの地で、チゴイネル集団あるいは彼らと、絶えず交渉を持っていたのではないかと想像される。その血と雰囲気のなかから”バルーン”のメロディは生まれたと推測される・・・・」(同186ページ)
「バルーンのメロディ」とは、映画のなかで風船売りの老人が登場する場面で演奏される曲調で、カラス自身は「私の感情が湧くままに作ったメロディです」とインタビューに応えている部分。著者の軍司貞則氏は方々を取材して、これをハンガリーのチゴイネルのメロディだろうと推定している。
カラス自身は「私はウイーンで生まれたオーストラリア人だ」という言い分を変えることはなかった。
ちなみに「チゴイネル」とはかつての流浪の民「ジプシー」のことで、北部インドを原郷とする少数民族だという。ヨーロッパを中心に世界各地に散在していた。現在では定住するものが多いらしい。ロマ (roma)と自称するという。そういえば、サラサーテの「チゴイネルワイゼン」も、彼らの悲しみを激しく華麗に表現しているように思う。
更に、チターという楽器についても
「・・・チターはオーケストラ楽器にはいっていません。オーケストラ楽器ならば大学で専門の科があって社会的にも認められ、それを学んで教授になる人も増え、楽器自体も盛んになるのですが、チターはそうした楽器ではないので、致命的な弱みでしょう」(208ページ)
という専門家の指摘も紹介されている。
「・・・カラスは(音楽の都と称されるウイーン)の音楽環境を理解していたが、生活のためにチターを弾かねばならなかったのである。」(同211ページ)
「・・・・このような風土のなかで、音楽学校は出たものの、非ゲルマン系で、酒場のチター弾きが前身であるカラスが、音楽関係者から‘‘仲間‘‘として認められるはずがない。
・・・・一段も二段も低い存在と見られる酒場芸人では、外国で人気者になればなるほど反撥が強まり、それは気位が人一倍高いウイーン人のジェラシーとなって一気に爆発していった。」(同213ページ)
確かに、日本の中世でも芸能文化に大きな貢献をした「被差別民」の歴史がある。醜い差別意識は、人間の世界に遍く存在するのだろう。
「・・・・嫉妬が生まれる背景には、第2次世界大戦の4カ国に占領されたウイーンの<飢餓>と、かつてのハプスブルグ王朝の都であった<気位>が微妙にからんでいた」(同215ページ)
そもそもこの映画は、ウイーンの社会事情に疎いイギリス映画であった。C・リード夫妻もチターやカラスには差別意識も偏見もなかった。むしろ彼らが求めていた映画のテーマにもっとも相応しい楽器であり、音楽として受け入れたのだった。
それにリード夫妻はカラスを映画音楽の製作に「使った」が、決して「使い捨て」などにはしなかった。生涯にわたって公私共にアントン・カラスを、まごころから支援したようだ。
「・・・リードだけは、いつも変わらぬやさしい思いやりを持ってカラスを包んでくれた。」(同222ページ)
カラスにとって、言葉もまったく通じない外国人の自分を見出し、一介のチター弾きから世界に飛躍するチャンスと、そのための粘り強い励ましを与えてくれたC・リードは同じ歳とはいえ、「生涯の師」であったことがよくわかった。
同著でもっとも感動的な部分は
「・・・そうしたリード夫妻との、日常を忘れさせてくれる一瞬が消える日が突然やってきた。ロンドンからカラスのもとへ電話がかかってきたのは1976年4月25日の夜だった・・・」(223-4ページ)
心臓発作で敬愛するC.リードが急死したのだった。
次のカラスの含蓄深い言葉が胸に刺さる
「・・・リードと私は、人生のなかでたった42日間しか一緒にいませんでした。70年間の人生で42日間はんほんのわずかです。しかし、私にとってそれが人生のすべてだったといっても言いすぎではないでしょう。」(同228ページ)
カラスは深い悲しみの中で、改めてリードとの不思議な縁を噛みしめたことだろう。こうした人生の出会いを持てたことが、何物にも代えがたい「宝」だということが良くわかる。
ウイーンから、はるばるロンドンの葬儀に駆けつけたカラス。
参列者の前で一瞬の瞑想のあと、チターに手をかけ、リードの棺に向って厳かに「ハリー・ライムのテーマ」を爪弾きはじめた。ここは映画を凌ぐ名場面だと思う。
ヨーロッパの底流を生きてきた様々な人々の悲しみ、苦しみを癒して来たチターの音色は、この映画を機縁に飛躍したのだった。
キャロル・リードとアントン・カラスの魂の共鳴(二人は、互いに言葉もほとんど通じなかったという!)が、見事に昇華した証と言えるだろう。