私は
兼好ほど徒然ではないので
日暮しパソコンの前に座っているわけではないけれど
時として 心に映りゆく、あれこれを
漠然と書き連ねていくと
気持ちの整理もついて
こころも落ち着く
やがて、優しい睡魔が訪れる
高校生の頃は、「徒然草」のような作品には違和感がありました。
根本的には受験科目の「古典」が嫌いだった(笑い)こともありますが、あの上から目線、傍観的冷笑的な態度(と私には感じられた)が、気に食わなかったのです。
偉そうに、わざわざひと捻りしているだけじゃないか、と。
「安全地帯」にいて、お気楽な能書きを垂れているように思えたのです。
もちろん、実在の兼好法師がそういうキャラだったかどうかは知りません。専門家にお任せします。
学校で習った「古典」には清々しい「青春論」があまり見当たらないでしたね。
人々の寿命が短かったからでしょうか。
それに、「不条理」への怒りが足りない。嘆いているだけじゃないか。
あるいは、
安全地帯にいて、満足げな様子でいられた人々の「自己正当化」の言説だけが「歴史の表」に残っただけなのだろうと思いました。
これを拾い集めたものが「古典」か、と。
そんな「歴史」を刷り込む装置が「受験勉強」なら、
その意味不明の競争で消耗する青春。
これでは本当の友達なんてできそうもない。
そう感じていました。
あれから半世紀以上が経ちました。
では今、振り返ってみて、私自身が果たして立派な生き方ができたかのかと自問すると、はなはだ心許ない有様であることを告白します。
そうは言うものの、このまま諦めるのもしゃくなので、まずは落ち着いて身辺整理から始めることにしました。
死ぬときの「後悔」をなるべく減らすために。