キトラ古墳壁画 飛鳥人の宇宙感覚 (4 )

昨年10月、1250年前の奈良平城京に役人として働くペルシャ人がいたらしいという興味深いニュースがあった。その根拠となったのは、木簡に書かれた「破斯」という二文字が解読されたことだった。木簡は長さ268mm、幅32mm、厚さは最も厚みがある箇所で3mm。赤外線を照射した結果、「大学寮解 申宿直官人事 員外大属破斯清通 天平神護元年」と全文読み取れたという。書かれていた「天平神護元年」は西暦765年にあたるらしい。
文字記録がいかに貴重かよくわかる。年代まで特定できる。

その解説文によると、8世紀の歴史をまとめた政府篇さんの「続日本記」には「波斯」と書いて「ペルシア」の意味を表したのだという。偏が入れ替わっても音さえ同じであれば古代日本語では通用させてしまう傾向があったそうで、ようするに「破斯」と「波斯」とは同じことらしい。つまり、大陸からの輸入文字である「漢字」を当初は日本語の音を表すために用いたのだという。いわゆる表音文字なのだろう。木簡には、日本の言葉を漢字という外国の文字でどう表記するか、苦労した跡が伺えると説明してあった。
なるほど後世の鎌倉時代の歴史文書などでも、けっこう漢字の「当て字」が散見される。同じ人の名前ですら複数の当て字表記がある。なぜだろうと気になっていた。漢字の「音」を借りる習慣がはるか後世まで残っていたからだろう。漢字は「表音文字」として長く使用されたのだった。
また政府などの正規文書は漢文で書かれることが多かったようだ。これは日本が漢字文化圏の周辺後進国であったからだろう。今日の英文など国連公用語に相当するのだろうか。

ところで、この「破斯清道」なるペルシャ人(あるいはその子孫)は、天平時代に来日して平城京の役人として朝廷に使えたということだから、古代日本にすでにこんな国際交流のあったことがとても興味深い。

写真「破斯」と書かれた木簡(奈良文化財研究所提供)
「破斯」の文字が読み取れる木簡の拡大図

キトラ古墳は、その半世紀くらい前の遺跡だと考えられている。

私が天文図を飛鳥の空だと早合点したのは、飛鳥、奈良時代を日本(倭)という狭い地勢感覚だけで見ていたからのようだ。考えてみると、現在のように「国境線」でくっきりと分断された北東アジアを想像するような見方は、古代日本をイメージするには正確さを欠きやすい。
日本海も大陸側からみれば「内海」と見え得る。「列島国家」とは限らない。

そう思ったきっかけは「NHK生活人新書 キトラ古墳は語る 2005年 来村多加史」を読んで。
その結論部分にはこうある。

「長々とお伝えしてきました内容のほとんどは、中国の考古学や歴史学の領域に収まるものとなりましたが、これは自然の成り行きと申せましょう。なぜなら、キトラ古墳の壁画には中国で育った宇宙観や世界観の真髄が描きこまれているからです。私にはそれらを語らずして、キトラ古墳の壁画を語ることはできませんでした。高松塚古墳の壁画に描かれた16人の男女貴族は、飛鳥人の宮廷生活の香りを振りまいています。そのため、話題を古代のロマンに向けることもできるのです。一方、キトラ古墳の壁画には日本的な香りがあまりしません。そこには象徴的な壁画が並ぶだけです。・・・・・仰向けになった被葬者が棺を通して間近に見るであろう天文図はコンパクトながらも、そのリアリティーをもって天体を感じさせます。室内の天井に星座を映し出すインテリアグッズのように、たとえスケールは小さくとも、無限の宇宙を感じさせることができるのです。・・・・・天体・日月・四神・十二支のいずれも(陰陽五行説で)正しい方位にあることは、天地の秩序が保たれてていることの表象に他ならず、乱れのない秩序のうちに、被葬者の魂は首尾よく天からの使者に誘われ、安らかに天門をくぐることができるのでしょう。これこそ陰陽五行説に則った理想的な昇天であり、整然とした四角い箱型の石室であればこそできる演出です。キトラ古墳の壁画世界を構想した画家は、大陸の墓室に比べて圧倒的に見劣りのする石室の狭さを逆手にとって、大陸の画家たちがなしえなかった完璧な天地世界を描ききったのです。」(192-4ページ)
と、説得力のある解説を施している。


同じ時代の中国の巨大墓室を広範に渉猟し研究してきた著者からみて、キトラ古墳のスケールはまことに小さな規模だという。しかし古代の中国思想をコンパクトに濃縮したことが確実なのだと説く。これは印象深い見解だ。
なるほど、先進技術を小さくまとめあげるのはいかにも日本(倭)的な「伝統」なのかもしれない。

私は、日本人が技術開発に貢献したという「トランジスター・ラジオ」のエピソードを思い出した。
虚実のほどは知らないが、60年代はじめ、池田勇人首相が訪仏したとき、かのド・ゴール大統領は「アジアからトラジスター・ラジオのセールスマンが売り込みに来た」と酷評したとか。あの頃の日本の国際評価はまだその程度だったのかもしれない。

著者はもともと中国考古学の専門家だが、キトラ古墳には浅からぬ縁があった。「はじめに」を引用してみよう。

「・・・・1982年に、大学院生であった私は元気溢れる後輩たちを引き連れ、鬼軍曹のような気迫をもってキトラ古墳を測量しておりました。上から命じられるまま測量調査に参加したものですから、そのときの調査がどういう経緯をもって始まったんかさえわかりませんが、とにかく目下話題のキトラ古墳をがむしゃらに測量したことだけは、思い出となっております。」(同11ページ)
この頃、まだ石室内部の撮影が始まっておらず、壁画や天井図の存在は知られていなかった。
ところが著者はその後北京大学に留学し、本格的な中国古代史の研究に没頭して「・・・・・キトラ古墳はもとより、日本の考古学さえも振り返ることはありませんでした・・・・・ところが、運命の悪戯というものでしょうか、(帰国後)大学から依頼される講義は日本史の内容一点張りとなり、『専門は中国なのに教えるのは日本のことばかり』という不自然な状況のもと、私はしがみつく手足をほどかれるように中国から離され、日本に引き戻されました。・・・・・」(同12ページ)
という経過なのだが、私のような素人からみて、むしろそのことが結果的にはキトラ古墳の秘密を解き明かすことに効奏したに違いないと思える。

著者のいうように、人の運命とは不思議なものだ。人生、後になってはじめて意味のわかることって結構あるようだ。
「・・・・・そもそも大学に進学する以前から日本の文化を東アジアの範囲で語ろうという希望を抱いていたのですから、運命が本来の路線に戻してくれたと感謝すべきなのでしょうか。」(12ページ)

本書は天井図だけでなく、四神や十二支像など古墳石室を飾る壁画全体の相関関係を中国考古学の該博な知識で読み解かせてくれている。
やっと私にはキトラ古墳を築造した飛鳥人たちの歴史的文化的な立ち位置が見えてきたように思った。

天文図だけを切り離すのではなく、石室壁画を全体として構造的にみれば、はるか紀元前から8世紀に至る古代中華文明の成果を列島に招来し、見事にミニチュア化した「作品世界」だったのだ。
ただし、高松塚の場合にも指摘したことだが、キトラ古墳もまた仏教の匂いがほとんどしないのはなぜだろうか。

ここからは私の想像だが、古代日本でひとつ残念なことは文字文化の発達が大きく遅れたことではないだろうか。日本の場合は中国にあったような「墓誌」がないため、古墳の造成年や被葬者が今もなかなか確定ができないのだろう。大陸の場合、紀元前にまで王侯貴族の墳墓の年代が正確に遡れるのは、文字文明がその昔から立派に発展していたからだ。
一方、日本の場合は奈良盆地や河内平野はもとより列島全体に散在する大小様々の古墳には墓誌がないため・・・・・つまりは文字記録がないために・・・・・未だにいつ頃の墳墓なのか、被葬者が誰なのか、その確定作業に立ちはだかる大きな障害となっているのだと思う。モノを分析して推定してゆくしかない。この文化落差は大きい。
木簡を赤外線照射することで、平城京にペルシャ人(あるいはその子孫)が公務員として働いていた事実が、年代まで正確にわかったことも「文字」のお陰だ。

この視点をはずして、大仙古墳(私達が子供の頃は『仁徳天皇陵』だと学んだ)とエジプトピラミッドの規模だけを単純比較して「日本も負けてはいない」などと単純に主張したがるのは、まったく説得力を欠く感情論としかいいようがない。
まさに「おらが村は世界一」の類だと思う。

今日までも脈々と続く「漢字」の伝統を挙げるまでもなく、私達にとって中華文明はまさに「文字文化」のお手本なのだった。
それだけではない。キトラ天文図も、紀元前からの中国人の営々として積み上げてきた精緻な天体観測の賜物だった。
農耕を生業とする古代人にとって天体観測はそのまま「暦」の作成という、現実的で切実な要請が動機だったようだ。なんと日本は江戸時代まで中国の暦を使っていた。自力で正確な天体観測をする能力がなかったからだ。このことは致命的な文化的「後進性」を表すのだと思う。実は「日本文化」といっても多くを江戸時代に負うらしいが、とても暗示的だ。このことはまた別途考えてみたい。

最近「日本」の伝統をやけに鼓吹し隣国を貶めたがる感情論には、歴史を歪める陥穽がある。
むしろ東アジア大陸や海洋からのルートからの恩恵など、もっと大きな視野でバランス良く日本史を眺める視野がとても大事だし、大いに学びたいところだ。
それがまた、今を生きる私たちにもっと大きな示唆を与えるだろうと思った。