自宅の集合マンションの庭に、二本だけ植えられている小さな梅の樹に今年も花が咲いた。
毎朝その横を通って出勤するので、なじみがわいてくる。
二種類の梅の木がそれぞれ一本づつ。
ピンク色と濃い紅色の花。
そういえば確か、大阪城にも梅園があったなと思い出して、ある日、見に行ってみた。
高い青空だが、まだ風が冷たい。森之宮口から公園内途中の噴水を横切って城内に入る。
好天に恵まれて人通りが多いが、にぎやかに話されている言葉のほとんどが中国語だ。大阪観光の定番コースに大阪城公園が入っているのだろう。抑揚のある大声なのであたりによく響く。
梅園には多くの人が集まっていた。
よく見ると、高級一眼レフカメラをさげた高齢者が目立つ。若くて元気な世代が多い中国人観光客とは好対照。
犬を連れて散歩している人もいる。
売店が一軒だけあって、けっこう繁盛している様子だ。
華麗な桜に比べると、梅はやや暗い色合いだが、桜よりは開花期間がはるかに長い。2月上旬から一ヶ月は咲き続けているようだ。
ふと、高校生の頃に学んだ菅原道真の歌を思い出した。
「東風(こち)吹かば匂い起こせよ梅の花 主なしとて春な忘れそ」
拾遺和歌集
と習ったように記憶するのだが、
「東風(こち)吹かば匂ひおこせよ梅の花 主なしとて春を忘るな」
というヴァージョンもあるらしい。
道真は学問に秀でた優秀な役人で、ときの宇多天皇に見込まれておおいに昇格したものの、それが藤原氏に妬まれて讒言され失脚。大宰府に左遷されて不遇のうちに死去した、という話だった。
10世紀初頭のことなので、真相は専門家にお任せして、なぜこの道真の物語が長く伝えられたか、ということのほうに関心がわく。
道真の無念の思いが災いとなって御所に雷が落ちたり、皇族が病で若死にしたりしたという。その魂を鎮めるために天満宮ができたらしい。夏の花火で有名な「天神さん」のお祭りは、江戸時代からの大坂の風物詩なのだそうだ。
美しい梅の花に託された人間の怨念、というストーリーがなかなか印象深い。
外国人にどう説明するのだろうか。確か中国にも恨みを飲んで自死した詩人がいたが、西欧ではどうだろうか。
・・・・・・ところで、嫉妬や陰謀は貴族社会だけの「専売特許」ではなくて、恨みを飲んで死んだ人の話はけっこう多い。
同じように「怨念」・・・・というか、「無念の思い」を後世に伝えた物語のひとつ。今から260年前の木曽三川の「宝暦治水秘話」で、今日に伝えられる薩摩藩賄い方家老の平田靱負(ひらたゆきえ)の辞世の歌は、なかなか味わい深い。
住みなれし 里も今更 名残りにて 立ちぞわづらふ 美濃の大牧
と詠まれている。
歌の背景について、伝承も混じるだろうが、子供の頃に聞いた私の記憶をたどると・・・・・・。
・・・・縁もゆかりもない遠国美濃の治水工事を命じた幕府の狙いは、最終的には薩摩藩の弱体化、できれば「取り潰し」であったらしい。何しろ関が原合戦以来の敵性外様大名だ。それが琉球を配下に置いて特産品の砂糖栽培で着々と蓄財し武力を拡張しているらしい。幕府の蛇のように執念深い猜疑心があったのだという。
関が原合戦からすでに100年以上も後の事なのに。
当然のことながら、この下命に薩摩藩の藩論は沸騰した。
おそらく権威ぶった公儀の嫌がらせは、日常茶飯事だったのだろう。積もり積もった江戸幕府への反感。
実はこのころ66万両もの借財があって、薩摩藩の財政は非常に逼迫していたらしい。しかも藩主は26歳の若さで病弱。
このままおめおめと徳川の下風に甘んじるよりは、乾坤一擲、薩摩隼人の意地を見せる一戦も辞せず、という感情論が盛り上がったらしい。頷ける。
しかし年若い藩主を支え、島津家の浮沈を背負うときの賄い方家老平田靱負(ひらたゆきえ)は、彼我の差を冷静に見極めていた。藩士の激情に流されればむしろ幕府の思うつぼ。敢然これを制して、主家存続のために、粛々と幕命を請け入れたのだった。
そして、平田自らが木曽三川工事の「総奉行」として、はるばる美濃に赴くこととなった。従う家来は九百五十人。平田は別途大坂に立ち寄って大坂商人に「砂糖」を担保に借財を申し込んだ。
平田靱負の苦心孤忠が始まった。
しかし執拗に薩摩を狙う幕府側は、工事(御手伝普請)に様々な無理難題を押し付けたらしい。たとえば美濃の住民を現地調達させ、その人夫の賃金を高めに設定。「御手伝普請」とは、資金はすべて薩摩藩拠出なので幕府の腹は少しも痛まない。
、江戸時代初期の美濃は風土、言葉も違う。戦国武将の誇り高い薩摩藩士が、刀や槍を捨てて鋤、鍬、もっこを担いで難工事にあたったのだった。
慣れない治水事業は大いに難儀を極め、自然の悪条件のなかしばしばトラブルもあった。その度ごとに薩摩藩士の責任を幕府役人から厳しく問われた。憤懣やるかたなく、これに抗して50人前後もの薩摩藩士が、そのつど無念の思いを飲んで自決したという。しかしそれが「抗議」の切腹であると判明すれば当人はお家断絶、必然的に薩摩藩に「謀反」ありととられ、せっかくここまで隠忍自重してきた苦労も水泡に帰する恐れがある。平田の指示で、すべて内密に「事故」として処理された。同僚や遺族への口止めもあったろう。
苦難を分かつ藩士の憤死を、平田はすべて胸一つに飲みこんでひたすら忍んだ。
これ以外に30名以上の病死者も出た。伝染病だったという。
激しい肉体労働なのに、幕命で食事も「一汁一菜」という過酷さ。故国を遠く離れて、重労働と栄養不足のなか、薩摩藩士の言うに言われぬ苦闘が一年半も続いた。
参勤交代の途次で、若い藩主が現地を慰問したときの、主従の悲痛な出会いの絵柄が眼に浮かぶ。誇り高き薩摩武士として、どれほど辛かっただろう。
かくしてやっと難工事が終わったものの、嵩んだ費用は最終的には40万両にも達した。当初幕府の見積もりは10数万両だったという。
しかし、とにもかくにも「お手伝い普請」は終った。
威張り腐った幕府の役人が検分して、やっと工事完了を認めた、まさにその翌早朝。タイミングを合わせたかのように平田は病死したことになっている。
そのときの辞世の歌を、もういちど詠んでみたい。
住みなれし 里も今更 名残りにて 立ちぞわづらふ 美濃の大牧
後は遺髪が残ったのみ。墓は京都の寺にあるという。平田は生きて故郷に帰還できなかった。
しかし、平田の赤誠が主家島津を救った。
「美濃の大牧」には薩摩の現場拠点があった。平田は総奉行としてここに起居したのだろう。疑い深い幕府役人の監視下だった。
思えば、まことに耐え難い一年半だった。
いよいよ立ち去ることとなったが、今更ながら心名残がわく。非業のうちに自刃、病没した股肱の藩士を思えば、後ろ髪を引かれる思いに足も重い、といったところだろうか。
今更、自分だけがおめおめと帰郷できようか。
彼らの骨を拾うのは自分しかいない・・・・。
美濃では、平田の死は実は「自決」であったのだと後世まで秘かに伝えられてきた。
その可能性はあると思う。恩義を感じた無名の住民たちによって、薩摩藩士の悲話が後世まで秘かに語り継がれた。
幕府のお咎めを恐れたからだ。
だから真相が再検討されていくのは明治以降、それも大正から昭和初期まで待たねばならなかったという。
これは勝手な想像だが、自刃だったとしたら、「たちぞわづらう」には「立つ」(旅立つだろうか)よりも、「太刀」の「煩い」が掛けられているかもしれない。そう考えたほうが、物語として美しい。
それはそれとして、私は平田の偉さは激情に駆られた藩論を見事に押さえたことだと思う。そして頭を下げて自ら工事資金をかき集め、忍び難きを忍び、耐えがたきを耐えて工事を指揮した。こうした苦難の果てに、ひと言の繰言も残さず(残せば謀反になる。それは主家に禍を招く)自刃したのなら、その責任の取り方はまさに「武士道の鑑」だと思う。
美濃に旅立つはじめから「武士道とは戦場で死ぬこと」と、決然覚悟していたふしが伺われる。
私には、そう思える。
・・・・それにしても、「大牧」にはどんな梅の木があったのだろうか。
伝えられる平安貴族のひ弱な私怨よりは、よほど清清しいのではないだろうか。
平田の苦心孤忠の壮烈が主家を救い、やがて幕末維新回天の大業に繋がったのかもしれない。大久保や西郷も、先輩の偉業を知らなかったのだろうか。通俗的な歴史小説にはあまり出てこない。
案外、華々しく表に出ている史実(自己都合の「官製」が多い)ばかりが歴史の全てではないだろう。
そんなことを思いめぐらしながら、梅の花をあらためて観た。
ただし、戊辰戦争のときの、会津での薩摩の狼藉も見逃せない。「勝てば官軍」とは、卑しい自己正当化の言い分に使われやすい。
歴史は多角的に見るべきだろう。維新政府が自らを正当化するために、意図的に江戸時代を貶めた歴史観が有力だが、私は、昭和の亡国にまでいたった遠因のひとつが「明治維新」体制にあったのではないか、と疑っている。あの未曽有の敗戦を日本人としてとても無念に思う。
最近流行りの、幕末維新を面白おかしく美化する物語には、どうも素直になれない。