美濃の宝暦治水悲話との比較( 河内平野の近世史2)

 大和川付け替えの事績で私が思い出したのは、木曽三川(木曽川、長良川、揖斐川)の「宝暦治水」と「薩摩義士」の悲話。

史実をきちんと検証したわけではないが、子供のころ岐阜で何回か大人から聞いた印象で言えば、地元住民の薩摩武士への感謝の思いが今も伝えられていることは間違いないだろう。さらに、この物語の背景には様々な感情が働いていると感じた。

主家を護持するという封建道徳に殉じた薩摩武士への敬意とともに、尾張に対する遺恨、いわば徳川(家)幕藩体制の強権への怨嗟も潜んでいるように思えた。

すなわち尾張に比べて、政治的に弱い立場にあった美濃側の反感、恨みが流れているような感触もあったのかもしれない。

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木曽三川の航空写真(国土交通省提供)

時は18世紀中盤で、大和川付け替えの約半世紀後になる。

大和川に負けず劣らず、濃尾平野南西部の木曽三大河川(木曽川、長良川、揖斐川)合流域の低地に住む農民もまた、例年の水害に苦しめられていた。大雨のたびに三川が増水、互いに混流し溢れるため深刻な水害が起きていた。

濃尾平野が全体として西側のほうに傾いているので、西方に水流が集まって増水、そこから堤防がしばしば決壊した。その防護のための、この地方独特の「輪中」という、集落そのものを堤で囲む庶民の工夫を小学校で学んだ記憶がある。
しかし、零細な村落ごとの備えだけでは、やはり限界があった。

ところが対岸の尾張側はなんといっても「御三家筆頭」の徳川藩なので、立派な「御囲堤」という堤防が川岸にできていて、氾濫した濁流はもっぱら現在の岐阜県・三重県側に溢れ出たそうだ。

伝承かもしれないが、「尾張徳川藩側のほうが堤防が高かった」からだ、という話だった。美濃側の弱い立場が透けて見える。
美濃側は小藩ばかりで利害の調整ができないため、この三つの大河を統一的に治水灌漑する有効な体制が整わない。
結局、幕府の登場をあおぐしかなかった。

出典:岐阜の地学:よもやま話

そして幕府から三川分流の治水工事を指名されたのがなんと、はるか遠国の薩摩藩。美濃とはなんの利害もない。
そこには底意地の悪い幕府の思惑があった。
関ヶ原合戦以来の「仮想敵」である外様の雄藩・島津を弱体化させる意図があったのだろう。江戸幕府の冷徹な統治論理が透けて見える。尾張藩の支藩である高須藩(現海津市)を救う意図もあったのだろう。

しかし当時の薩摩藩は台所事情がとても苦しく、すでに多額の借金(66万両という)があった。にも拘わらず、そこに有無を言わさぬ幕命が下ったのだ。

ここからが見どころなのだが、 さすがに島津家中では縁もゆかりもない美濃の治水事業を受諾するかどうかで大いにもめた。藩論の大勢は「徳川と一戦を交えてでも断れ」という主戦論に傾いた。頼朝恩顧の伝統を誇る薩摩隼人が、三河の成り上がりモノに馬鹿にされてなるものか、という感情論が沸騰したことだろう。

藩内だけで意見を交わせば、それは情緒的な反対論が勢いづくだけだ。しかし、冷静に考えてみて、圧倒的な中央権力の意向に逆らっても勝算のない場合、地方の中心者は身内からの非難を浴びながらも現実的な妥協案を選択せざるを得ない。
 時の薩摩藩勘定方家老・平田靭負(ひらたゆきえ)が、ここは島津家存続のため、忍びがたきを忍び耐え難きを耐えようと家臣を説得して幕命を受け入れた。そして自ら大坂商人に莫大な借金をしたうえ現地工事の総奉行の任務にあたった。
この場合、責任を全うすることは、まことに不人気で損な仕事なのだと思う。
しかし平田は若い藩主(当時26歳)を護り、敢然と藩論を押さえ自ら責任を全うした。

大和川とは違って、木曽三川の場合は「御手伝普請」といってあらかじめ策定された幕府の計画と厳しい監視下で、様々な制約を受けながら、金も人も全て薩摩藩が供出しなくてはならない。いわば一方的な持ち出しの労働奉仕だったのだろう。しかも、土地勘も乏しい現地で工事人足や資材を調達しなくてはならない。
遠国薩摩の武士にとって、美濃の治水工事は前代未聞の過酷な労役だったに違いない。

 言葉も文化も違う現地で、雇人夫(2000人と伝えられる)とともに、戦国武士の伝統を誇る薩摩藩士約950人が刀を捨てて、土木工具を手に約1年半の難工事だったというが、 さぞかし惨憺たる苦労をしたことだろう。

平田像
平田靭負像

工事が実際に始まってみると、幕府側の陰湿な嫌がらせへの義憤や、理不尽な処遇などへの抗議で合計55名もの薩摩藩士が無念の割腹自決。しかも、その事実が表沙汰にならぬよう、平田の指示であえて「事故死」扱いの処分をした。ことが表になれば、その実家はお家断絶の処分が待っていた。さらに累は島津家に及ぶ。
そしてなんと、この事実ははるか明治時代以降になるまで伏せられていたという。

更に赤痢の発生などで30名余りの藩士が工事途中で病死したらしい。21世紀の今とは、まったく衛生状態も生活環境も違う。奴隷労働ではなくて藩としてまとまって労役につけたことを、むしろ不幸中の幸いとするべきかもしれないが、誇りある武士にとっては屈辱に違いない。名分を重んじる武家文化の時代だった。

 言うに言われぬ苦闘のすえ、やっと分流工事が完了、厳しい幕府の検分も終った。
江戸表と国元への報告を万端滞りなく済ませた翌早朝、平田靭負は部下を多数失ったことや、当初の予想をはるかに超えた出費など、すべての「不始末」の責任をとって割腹自決、という悲惨な結末であったと伝えられる。
その胸の内には、精一杯の抗議の意もあったろう。しかし一言の繰り言も残していない。

(病死説もあるようだが、幕府による工事検分直後の翌朝だったということから、自決説がささやかれたのだろう。)
いずれにせよ、平田はすべてを飲み込んで、黙して語らず、責任を全うし慫慂として運命に殉じた。辞世の歌をみるとそう思える。

『住みなれし 里も今更(いまさら) 名残(なごり)にて
立ちぞわずらふ 美濃の大牧』

 あらゆる不条理を一身に背負い、脇目も振らず主家を護るという勤めに殉じた。武士の本分を全うしたといえる。

おそらく国を出る時から覚悟していたのだろうか。ここを死に場所と定めた潔さが胸を打つ。
現代人のように、四の五のと小さな自我の迷いを言葉にしない潔さに感服する。平田にとっては至極当たり前の「武士道」であったことだろう。

17世紀の封建道徳の是非を、今日の視点からさかしらに論じても始まらない。人は、その生まれ合わせた時代の制約を免れることはできないのだから。

 一方、工事にかかった総費用を大和川と比べるとその過重さが推し量れる。
大和川付け替えの場合が71500両、一日当たり13000人くらいの作業規模だったと推定されるのに対して、木曽三川分流工事の方では、当初予想(幕府は10万両とみていた)を大幅に超過して、薩摩藩は40万両もの財政負担をせざるを得なかったらしい。
こちらのほうが、はるかに莫大な負担だ。しかも薩摩一藩がすべて被った。

自然環境や工事の難易度の違いなど、専門的な分析をしないと客観的な比較はできないが、それにしても薩摩藩にはあまりに過酷な負担だったと思う。
しかも、当時の土木技術では完全な分流は達成されず、明治期に入って「御雇外国人技師」の指揮のもと、もういちど分流工事をしなければならないほどであった。

このときの薩摩武士たちの無念の思いを大久保や西郷は知っていただろうか。
時流に乗ることはむしろ易い。誰に称賛されることもなく、誰が見ていようが見ていまいが、ひたすら己の道を全うした「武士(もののふ)の心」を称賛したい。
一部に伝えられてきた「薩摩義士の秘話」が公然と語られるようになったのは、明治維新を経てからだという。
参勤交代の途次で立ち寄った藩主が、惨憺たる苦闘にあった藩士を激励する場面などを想像すると、歌舞伎にでもなりそうな主従の絵柄が思い浮かぶ。
日本人の心情に響く。

宝暦治水工事
3か所の宝暦治水工事(長良川河口堰事務所ホームページより)

 

 この薩摩藩士の悲話は、地元美濃地方の人々には尊い「義士の美談」として、秘かに語り伝えられた。記念公園もあるし、命を落した藩士のお墓も大切に保存されている。私たちが子供の頃でさえ「薩摩のお侍さんには恩がある」という話を、実際に大人から聞いたことがある。

平田靭負銅像
平田靭負銅像

 

(ただし、これはこの時の美濃側から見た「薩摩」の一断面だろうと思う。その薩摩藩が大坂の市場で高い値で売れる「奄美の黒糖」で借金を返済するために、琉球・奄美群島に課したサトウキビ栽培の苛烈な収奪も見逃せない史実だと思う。また、戊辰戦争で陥落した会津での乱暴狼藉の史実もある。歴史は複眼の視点でみるべきだろう。)

 いずれにせよ、ほぼ同じ時代の幕府主導による治水工事だが、大和川の付け替え工事とは、だいぶ趣の違いがあることは興味深い。
一つの大きな理由は、河内が「幕府直轄領」だったことだろう。当時の大坂町奉行所(市内東西にあった)は大坂城代の下部組織ではなくて、幕府・老中の直轄下にあったらしい。

幕府の立場としては、できれば大和川流域の洪水被害をなくして年貢を安定的に確保したかったのだろうが、付け替えで農地を失う新川側農民の激しい抵抗も懸念材料だったようだ。その分、二の足を踏んだ。

 改修工事で事態をおさめたいが、川村瑞賢に託した淀川河口を含む大掛かりな掘削工事の後でも、河内平野の治水効果は期待したほどではなく、ますます洪水被害は拡大した。もう、これ以上の改修工事費が嵩むのをなんとか抑えたい。
それに川が付け替えられると、旧川筋や湖沼で新田開発が期待されるというのも魅力ある話だ。幕府が従来の方針を一転変更して、根強い反対論を押し切った理由も、新田開発で年貢が増やせるという経済効果に期待したからでもあるらしい。

実際、新田開発や農業技術の発展で、江戸時代に日本全国の米の生産は倍加したらしい。
甚兵衛たちの嘆願趣旨も、そこに着目した戦略を立てていた。

甚兵衛が19歳の若さで江戸に上り陳情を始めてから、こうした様々な曲折を経ながら幕府の許可を得るのに、なんと都合46年もかかっていた。

中甚兵衛画像
中甚兵衛画像(出家した晩年のもの)

 

その間に16年間も江戸に滞在した。しかしそこはしたたかな「河内人」、これを機会に江戸では土木技術などを学び、周到な準備を怠らなかったらしい。
それにしても、不思議な経歴の人だ。ただものとは思えない。

そして付け替え工事が終ってからも、さらに92歳まで長寿を全うしたというのだから、その強靭な生命力は凄い。庄屋の次男であったことなども、運動に専念できた条件なのだろう。それに、天領であったから、農民の甚兵衛でも大坂町奉行所を経由して江戸に上がることが比較的容易にできたのだろう。
これがどこかの藩内であれば、この封建時代、農民は領地に強く縛り付けられていたのではないだろうか。

その点、美濃は小藩の分立で損をした。
河内の場合は、元禄期に頂点を迎えた大坂商人の経済力が背景にあったのも好条件だと思う。

ただ、江戸表に甚兵衛が長期に滞在して陳情活動を継続しなければならなかったという事実には、何かしら今日の「東京一極集中」弊害の江戸時代版に見える。この時代の幕政のルールや執行システムに疎いので、断言はできないが。

 余談になるが、70年代後半に東京の大学を出て、本社があるというだけで、個人的にはまったく縁の薄い大阪で社会人生活を始めた自分の経験から言っても、中央と地方にはまことに不平等な格差があると思う。これはとても不合理、不経済だと思う。
だから東京を含む首都圏に人が集中して、そこはますます住みにくい、ぎすぎすした街になるのではないだろうか。

一方、おいてけぼりの地方に長年いると、なんとなく「時代に遅れた」「取り残された」みたいな感覚に陥るときがある。
もちろん、考え方しだい。時代や社会への最終責任もないから、地方のほうが「お気楽」で、のんびりした面もあるのだけど。

日本の「中央官僚」の許認可権による専断・専横は、なにも明治に始まったのではなくて、もともとこの島国の根っこに巣食う「宿痾」ではないか、とさえ思ってしまう。
その弊害は今日、限界に達していると思う。

そこで興味深いことは、6回目の検分当時の大坂東町奉行所代官・萬年長十郎と、ともに現地検分を行った役人の一人、勘定奉行・荻原近江守重秀(老中首座の柳沢吉保の側近で、新井白石がその腐敗ぶりを厳しく批判しているらしい)とは、かつて同期任官の幕府・御勘定役だったこと。
この繋がりが付け替え実現の道筋をスムーズにしたのではないか、という分析がある。つまり、いわば同期の財務官僚仲間の連携プレーが、付け替え事業の推進に効奏したのではないかという。

表向きの、きれいごとばかりではなさそうな気配も滲む。
この経過も、何かしら今日的だ。

もちろん、封建時代だからこそ幕府という「御上」の専断が流域住民の深刻な利害対立を、問答無用で押し切れたのだろう。
勝った側の記録は残るが、歴史の常として、負けた側の記録は少ない。「勝ち組」の「正史」だけ見ていると、実像を公平に認識できないのではないか。

 ともあれ、こうして新大和川のために潰れた耕地の4倍に相当する新田が旧川床や池床に開発された。これで新しい年貢収入が期待できる。旧川筋の新田開発の入札代金は約3万7千両だったらしく、幕府にとって付け替え事業そのものは収支とんとんだった。あるいは官僚的に「帳尻合わせ」をした上っ面なのか。
残った「正史」だけではわからないと思う。

そしてこの新田経営に大坂商人が参画して、のちの近代大阪の経済発展にも繋がっていった。

小藩寒村ばかりの美濃との違いで、もうひとつ見逃せない大きな要素、それはこの時代に圧倒的な経済力を蓄えた「大坂商人」の台頭だ。

(続く)

治水神社の薩摩藩士像

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