鴻池新田会所・・・・・河内平野の近世史3

中甚兵衛らの辛抱強い努力が実ってやっと大和川の付け替え工事が終わり、さっそく旧大和川の河床や池床などが耕作地として新田開発された。
新田は町人請負、寺院請負、農民寄合請負などの形態があった。
中甚兵衛も川中新田を、娘夫婦が河内屋新田(中新田)を開発した。

こうした新田のうち最大のものが「鴻池新田」で、大坂の豪商「鴻池家」が支配人を派遣して経営にあたった(町人請負新田)。その拠点が「新田会所」施設で、1707年に設置された。

河内平野で開発された新田は、18世紀末にはおよそ1170町歩、総石高11000石にのぼる。鴻池新田は260町歩に達し文字通り日本最大の新田になった。

 町人寺請の新田には,新田会所が設けられ,現在までに鴻池新田をはじめ深野南新田,深野新田,菱屋中新田,吉松新田,諸福新田,新喜多新田の7箇所で確認されている。
これらの新田開発による田畑での生産が江戸期の大阪の農業生産に貢献した。
なかでも天保(1830-44)年間には河内の田畑全耕地の46%で綿花が作られていたと言う。それは「河内木綿」と呼ばれ,全国に販路を広げ、大坂農業の主要産物のひとつとなっていたらしい。

鴻池家は、もともとは伊丹の出身で、酒造りから始まり(清酒を江戸に回漕して成功した)、その後大坂市内・今橋(現在の市内北区)に居を定めて海運業、大名貸し、両替商などで家業を拡大して財を築いた。幕府も経済を統制するために寛文9年(1669)、乱立する両替商を整理して「十人両替」を定めた。そのなかに鴻池屋2代、善右衛門之宗(ゆきむね)が選ばれ、公的にも立場を固めた。

今橋跡の碑文

幕末には「日本の富の七分は大坂にあり、大坂の富の八分は今橋(鴻池本邸の所在地)」と言われたほど栄えた豪商だったそうだ。

その鴻池が事業の一つとして、大和川付け替え直後の1704年に3代目鴻池善衛門宗利と息子宗貞のときに権利を買い取り(総額1万9千700両余り。幕府への上納金は1万2千733両)、新田開発に着手したのだった。
その後はるか第2次大戦後の農地改革まで、実に240年もの長きにわたって鴻池家が経営権を維持した。この間に新田会所も何回か改修工事が行われたらしく、現在は幕末・嘉永期の姿を再現しているという。
私の曾祖父が生まれた頃だ。

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鴻池新田会所の全景

くだんの河内生まれの友人が「せっかく大阪に来たのだから、あれは見ておけ」と、会所を案内してくれたのは、もう30年以上前のことだろうか。

そのときの私は、大阪の歴史にはさほど関心もなかったので、何か古い木造建築だったような記憶くらいしか残らなかった。

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鴻池新田会所正面

最近になって、近くまで行く用事もあったので、もういちど見ておこうかと思い立ち、見学してみた。
新大阪駅からだと、車で一時間以内というところだろうか。JR学研都市線・鴻池新田駅のすぐ南側に隣接していた。

河内平野では、これだけまとまった形で残っている会所は、ここと八尾市の安中新田会所(旧植田家)くらいらしい。国の指定史跡・重要文化財とされている。

なるほど広壮な会所施設だ。

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本屋の土間

本屋裏側

友人の言うとおり、河内平野の近世を知るためには、ここは確かに必須のホットスポットだった。

窓口でもらったパンフレットによると、平安時代の「和名類従抄」(10世紀)の記録では、当時の全国の耕作地は103万町歩。
秀吉の太閤検知(16世紀末)では約206万町歩、明治の改正反別では約413万町歩になっていたというから、江戸時代に耕地面積が倍加したことになる。その一環として幕府も諸藩も新田開発に力を入れたことが伺われる。

大和川付け替えも、河内の農民を洪水被害から救済するというよりは、幕府にとっての損得勘定から、年貢収入の安定化のためであり、新田経営を町人に請負させて年貢増収をはかった、というのがより真相かもしれない。

『 柴田善臣日記』には、天保3年(1832)11月大坂城代一行が巡見の途中で会所に立ち寄った感想として、
「紅葉多く、泉水も有り。落葉多しと雖も、紅葉の残り有りて見事也。橋も有りて、その趣閑静にして心を楽しむ。垣外東方、田野遠く開け、村落も見へ渡り、生駒山遠からず見ゆ。( 中略) 此会所台所広く時計等かけ有りて、大坂第一の豪富の所持せる趣も見ゆ」
と記されている。開発120年後の鴻池新田の姿だ。

他の新田の多くは、天候不順による不作や小作人との争議などによって経営者が次々と変わったらしい。さまざまな紆余曲折はあっただろうが、ともかく鴻池家自身の経営は第2次大戦直後まで続いた。

当初は会所では鴻池本邸から派遣された支配人のもとに、小作人からの年貢・肥料代の徴集、耕作地や道路・水路、家屋の維持・管理、人別帳・宗門改帳の作成などの業務を行っていた。天領だから、幕府⇒大坂町奉行⇒新田⇒農民へと下る封建的支配構造だった。
禁制のキリシタンを取り締まるために始まった宗門改帳まで会所が請け負ったのだから、小作人の精神生活まで徹底して管理したのだ。幕府御用達「両替商」たる鴻池家の新田で粗相があってはならないという自主規制も働いたのだろう。

もともと大和川の川床やこれにつながる池床は、粘土と砂の混じったやせた土地が多くて水田耕作には不向きだったので、開発当初より綿作が奨励された。鴻池新田では、だいたい耕地の7割が畑であったらしい。

また、鴻池新田ではないが、もともと湖沼の湿地帯であった北河内(旧深野池)では菜種の栽培が広がった。

綿の実(八尾市立歴史民俗資料館)
綿の実  (八尾市立歴史民俗資料館)

私は知らなかったが「河内木綿」は「菜種油」とともに農民にとって大切な商品作物で、当時は広く名の知れたブランドだった。

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明治以降に大阪で紡績工業が発達してゆく下地が、このころにできたのだろう。ただし、鴻池家が綿取引に直接かかわった記録はない。むしろ、鴻池では家訓で大名貸し、両替商などの金融に専念したらしい。その伝統が明治以降に銀行業に発展したのだろう。

大坂近郊で採れた木綿は、菱垣廻船などで江戸にも届いたという。ここでも海運が大切な輸送ルートだったことがわかるが、新田の北玄関(裏長屋門)には船着き場跡があって、「井路川舟」が展示されていた。

井路川船

「井路」とは水路のことで、農業用水路であると同時に米や作物を会所に運ぶ水上ルートでもあった。
もうひとつ大きいサイズの「剣先舟」は、大和川などの水運に使用されたらしく、最盛期には500艘もあったそうだ。流域の農家の多くが、大阪市内の天満青物市場まで、船で作物を出荷する水路も整備されていたらしい。今日の様に車や鉄道のない時代だから、水運は重要な輸送手段だった。

広大な河内平野に大小さまざまな水路が複雑に通い、「井路川舟(全長約8m)」や「剣先舟」(約13m)が行き来したのであろう。

例えば、私が独身時代に一時その周辺に住んだ近鉄線・河内永和駅近くの長瀬川などは、何の変哲もない幅5メートルほどの薄汚いドブ川だと思っていたが、なんとれっきとした旧大和川の本筋の一つで、戦前までは河川敷も含めて幅が30mもあったという。

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剣先舟

今は、住宅地や工場が無秩序に密集した地域なので想像もしがたいが、かつて河内平野全体には大小さまざまな水路が網の目のように張り巡らされた「水郷」のような景観だったのだろうか。のどかな平野部の生活風景が眼に浮かぶ。

この新田の様子を、もうちょっと詳しく知りたいと思った。

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