河内平野の近世史1  大和川付け替え

「河内」

大阪湾とその東側生駒山地に挟まれた平野部を、一般に「河内(かわち)」と呼称するのだが、地元ではこの地名の響きは必ずしも芳しいとは言えないようだ。

東京から転入して、最初はこの河内国分(かわちこくぶ)周辺に数か月住んだ。まじかに奈良県との県境になる、生駒山地が見えていた。
ずいぶん郊外に来たものだと思っていた。

「河内生まれやから、言葉がどぎついかもしれまへんが」
とかいって、軽妙な抑揚の語りで自己卑下(と私には思えた)しながら笑いをとる地元の人の話しかたを聞いても、よそ者の自分にはその事情がよくわからなかった。
大坂商人の伝統というのか、まず自分が下手に出て相手を持ち上げて、ちゃっかり自分の実利は確保する。体面を大事にする、プライドの高い武家の文化とは違うな、と感心した。

しかし、「河内」という呼称には、それなりの由緒があったようだ。

かつてこの平野には大きな湖沼があった
しかも、「河内」は古代日本にとっては重要な地理的位置を占めていたのではないだろうか。

<河内湖の形成>

国土交通省近畿地方整備局などの説明によると、古代の大阪湾は、大阪平野の奥深くまで入り込んでいた。東は生駒山西麓にいたる広大な(河内)湾が広がり、西隣は上町台地が半島のように突き出ていて、現在とは大きく趣の異なる地形であった。
この上町台地北側の砂州はその後も北へ伸び、縄文時代中期には淡水化が進んで、弥生時代には大きな湖ができあがった。
これが「河内湖」で、以下のイメージ図が参考になる。
つまり、もともとは大阪湾が現在よりもだいぶ内陸部に入り込んでいたようだ。これが次第に淡水化して、弥生後期から河内湖になった。そして江戸時代くらいまでは湿地帯が多かったようだ。

大阪の陣で徳川方の大軍が東側ではなくて南から攻め上がったのも、そうした地形の難点があったからかもしれない。足場が悪かったのではないだろうか。

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弥生後期~古墳時代の大阪

その河内湖がだんだん平野部になり、中央には奈良県を水源とする「大和川」が大きく蛇行しながら、南から北へ複雑に分流して流れ通っていた。

旧大和川の川筋
付け替え前の大和川と大阪平野略図

<大和川の流れ>

大和川は、奈良盆地の水流を集めて柏原村(大阪府南東部)で南から流れてくる石川と合流する。ここから西北へ折れ、いくつかの支流に分かれて、複雑に分流・合流しながら、上町台地を迂回して最後は後の大阪城の北側から淀川(大川)へと注いでいた。
平野部の海抜が低くてフラットなので、水流が複雑化したのだという。中部地方の濃尾平野の西南下流もそうだった。

古代には、都のある飛鳥や奈良と難波の津(大阪)を結ぶ重要な水運路でもあったので、遣隋使や遣唐使なども飛鳥から大阪湾に出るのに、大和川の水運を利用したことがあったらしい。これは知らなかった。大阪市内の住吉神社が遣唐使の出発点だという。

住吉大社 遣唐使進発の地
住吉大社 遣唐使進発の地

河内平野は、多くの川が運ぶ肥沃な土砂のおがけで、古代から田畑が開かれ人々が生活を営んでいたが、地形の弱点として、常に洪水の危険がつきまとっていた。
増水するたびに、氾濫をくり返しては土砂をまき散らしていた。

これを解決するための試みは、すでに1300年前の和気清麻呂の頃からあったようだ。続日本紀や日本書紀の記述によると、この大和川を直接大阪湾に繋ごうという企てがあったが、土木技術の未熟や費用不足で中途頓挫したらしい。

時代は下って江戸時代に入り、経済活動も盛んになったのだろう、大和川上流地帯で山林の伐採が進行したため、土壌が脆弱化した。※
幕府のたびたびの禁制にもかかわらず、草木の根まで掘り起こす山林伐採が後を絶たなかったらしい。
そのため、ますます洪水被害が拡大していた。

上流から運ばれた大量の土砂が河底にたまり、まわりの田畑よりも水面が高い「天井川」となった。だから大雨になるとますます水が溢れやすくなった。更に河口にも土砂が堆積していて、増水が淀川方面から逆流するといった困った事態も起きた。

こうして、度重なる水害禍に河内平野の村々は苦しんだ。

※そういえば、奈良県橿原市の今井も江戸時代は材木商が活躍したという。

<大和川付け替えの気運>

そこから大和川付け替えの機運が起こり、現在の東大阪市にあった今米村の庄屋、当時19歳(明暦3年1657)という若さの中甚兵衛らが河内の農村をとりまとめ、幕府に嘆願した。時は17世紀の後半で、河内平野は天領だった。
甚兵平は陳情を普及するために、地元の実情や計画を扇にも描いて関係者に献上するなど、様々な工夫を重ねた。

この間の事情は、甚兵衛の10代目子孫にあたる中九兵衛氏の詳細な研究書(甚兵衛と大和川 大阪書籍 2004年)などに詳しい。大いに参考になった。

熱心な陳情に押されて検分だけはするものの、幕府ではなかなか結論は出なかった。

一時は幕府から派遣された土木工事の専門家・河村瑞賢の意見で、淀川を中心にした河川の改修工事だけ実施。これで治水工事は完了とみなし、付け替えはなし、以降は付け替え嘆願も相成らぬ、と決められたこともあったようだ。

河村瑞賢の考えでは、そもそも大和川の付け替え案は、淀川と大和川を分離することになって、それでは淀川の水量を減じるから、当時の大坂市中の水運に支障をもたらす、という結論だった。
大坂は経済の中心地であったから、その水運は死活的に重要だったのだろう。河内農民の窮状は反対派の言い分(新川で多くの村が水没するし、河内平野の水運が阻害されること)などもあって、幕府では聞き置くだけの棚上げ状態が続いた。

しかし、河内の洪水被害はその間もますます大規模化し、天領でありながら年貢収入もままならぬ惨状に、幕府もこのまま放置しておけなくなり方針転換、ついに付け替え工事が1704年(宝永元年)に行われた。瑞賢死後のことである。
初めの陳情から実に50年近い紆余曲折を経ていた。甚兵衛は66歳になっていたというのだから、よく途中で諦めなかったものだと感心する。

<付け替え工事>

実際に総延長14.3キロの工事に入ってみると、わずか8ヶ月足らずで完了、大和川は現在のように堺市のすぐ北側の大阪湾に直流するようになった。
土木機械も運搬用トラックもない時代に、これほどの大事業をかくも短期間に成就したことは素晴らしい。それまでに土木工事の技術がかなり発達していたのだろう。

当時の大坂は有名な道頓堀の掘削(1615年完成)など、財力のある町人などによって多数の土木事業が行われいた。今日も市内にその跡が残っているが「水の都」と言われる所以。だから土木河川工事の技術的な蓄積もあったのだろうと思われる。
淀川や大和川も度々の洪水にあって改修工事を重ねていたから、測量技術や治水工事の経験を持つ人材も育っていたのだろう。

それに、大坂東町奉行所(付け替えに協力した与力・万年長十郎の名が伝わっている)や中甚兵衛らの、長年の用意周到な準備が効奏したに違いない。

徳川将軍でいえば4代家綱、5代綱吉の時代で、井原西鶴や近松門左衛門が活躍した元禄時代だ。大坂の庶民の力が最も興隆した時代だが、幕府なりの損得勘定もあったようだ。

姫路藩、岸和田藩、明石藩、三田藩など近隣の諸藩に幕命が下り、幕府と大坂町奉行所の指揮のもと、工事は経験のある人々が現場を担ったようだ。更に付帯工事には現在の奈良県にあった榛原藩、高取藩が従事した。

実情に詳しい甚兵衛も認められて、大坂町奉行とともに現場の陣頭指揮に立った。
総費用7万1千両のうち、幕府が約半分を負担したという。

大和川が直接大阪湾に注ぐようになってから、河内平野の水害は緩和されたようだが、良いことばかりではなかった。
とくに新川流域には様々な問題も起きたようだ。自然を無理に改造したのだから、当初予測のつかない不都合も起きたのだろう。河村瑞賢が危惧した淀川の水量減少も実際に起きたので、この方面の追加の手当も必要になったようだ。

さらに新川の南北で村が分断されたり、水利事情の悪化などが起きた。当然ながら、先祖伝来の土地を追われ移住を強制された農民もあった。中世以来の交易伝統を持つ堺港も、新川のもたらす大量の土砂のために、何回も沖合へと移転せざるを得なくなったらしい。(新川は堺市のすぐ北側で海に注ぐ。)大阪とも分断された。
これが堺が衰退した一因だという。

大阪に来て初めて知ったのだが、現代でも堺には大阪の下風に立つことをよしとはないムードが残る。ある堺の知人は「大和川を渡ると1度気温が違う」などとよく言う。

現在の大和川は、堺市と大阪市の境界になるのだ。

中甚兵衛銅像
中甚兵衛の銅像

河内生まれのある友人は、この運動の中心者とされる中甚兵衛を郷土の「英雄」として素朴に尊敬しているようだった。

今日の大阪につながる大きな史実だが、私はこうした歴史はまったく知らなかった。

むしろ、私は小学生の頃岐阜で聞いた木曽三川治水工事(宝暦治水)の悲話を思い出した。

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