初めて堀田善衞著「方丈記私記」を読んだ時、私にとっては「この儀式の内奥にあるものは、言うまでもなく生ではなくて死である。」という一節の意味がなかなか理解できなかった。
何を著者は言いたいのだろうか。
未曾有の戦災というべき東京大空襲の翌日、馴染みの女性の安否を確認するため見に行った、余燼くすぶる深川。
なぜか、そこににわかに集まった警察や憲兵が
「石畳の上に散乱していた焼け残りの鍋などを蹴散らして整理」
している場面に堀田は遭遇した。
物々しい雰囲気なので、禍に巻き込まれないように堀田は物陰で見ていた。そこに
「小豆色の、ぴかぴかと、上天気な朝日の光を浴びて光る車のなかから、軍服に磨きたてられた長靴をはいた天皇が下りて」
きたところを偶然目撃しまった。廃墟のただなかにピカピカの外国製の高級車というミス・マッチ。
空爆の被災状況を視察に来ていたのだ。
そのとき、著者の胸に浮かんだイメージなのだ。
なぜこんな感懐が湧いたのか、私は何度もこの部分を読み返して自分なりにイメージを繰り返し吟味してみた。
そしてそこに、当たり前のことながら、「皇国教育」をたたき込まれた世代と、戦後生まれの我々との間の際立った感覚の違いがあることにやっと気がついた。
廃墟となった「富岡八幡の焼け跡で、高位の役人や軍人たちが、地図をひろげてある机に近づいては入れかわり立ちかわり最敬礼をして何事か報告か説明のようなことをしている——それはまったく奇怪な、現実の猛火と焼け跡とも何の関係のない、一種異様な儀式として私には見えていた——、それはなんとも、どう理解しようにも理解の仕様もない異様な儀式と私には見えていた。」
「この儀式の内奥にあるものは、言うまでもなく生ではなくて死である。」
ということなのだが、ここで被災状況の報告を受ける天皇と側近たちの姿を「奇怪」「異様な儀式」と表現したのはたぶん、この行幸がまったく人間の「生」につながらない行動で、しかも大袈裟かつ形式的で、全体としてまったく「生」には場違いな光景に見えたのだろう。
堀田の読みにくい文章を整理してみよう。
すなわち、これほど大規模な「大量虐殺死」が、
「誰がなんといっても強いられた死であり、誰一人として自ら欲しての死ではない」
もののはずだが、それにもかかわらず
「それらの死に対しての、最高の責任者」が、
無残な焦土とはあまりにも場違いな出で立ち(「大元帥閣下」のトータルファッション)で
「予告もなく突然に」「のこのこ」登場して、自らが主導した「大量死」の結果報告を受けているという、いま眼前で演じられている絵柄が
「どうにも現実としては信じられない、理解不能な事柄」(62-3ページ)
という文脈になるのではないだろうか。私はそれこそ「教育勅語」の効果なのだと思う。
この時、自ら生きた満州事変以来の戦争の「政治の中枢」について、初めて「考え込んで」しまったと堀田は告白している。
ところが、堀田が考えたのは「大量死」を招いた政治上の最高責任者であるはずの「天皇」(明治憲法を読めばそうなるはずだが)それ自体ではない。
ひとつは、
「廃墟でのこの奇怪な儀式のようなものが開始されたときに、あたりでは焼け跡をほっくりかえしていた、まばらな人影がこそこそというふうに集まって来て、それが集まってみると実は可成りな人数になり、それぞれがもっていた鳶口や円匙(えんぴ)を前に置いて、しめった灰のなかに土下座した、その人たちの口から出た」
民衆の「ことばについて」なのだった。
このとき、「私は方々に穴のあいたコンクリート塀の蔭にしゃがんでいたのだが」
「これらの人々は本当に土下座をして、涙を流しながら、陛下、私たちの努力が足りませんでしたので、むざむざと焼いてしまいました、まことに申し訳ない次第でございます、生命をささげまして、といった」
ことばを発した、というのだ。
だから堀田は「私は本当におどろいてしまった。」(60ページ)
まさに「法外」なことなのだ。
これでは、この罪なき人々の無残な大量死をもたらした政治的
「責任は、原因を作った方にはなくて、結果を、つまりは焼かれてしまい、身内の多くを殺されてしまった者の方にあることになる! そんな法外なことがどこにある! こういう奇怪な逆転がどうしていったい起こりうるのか!」
と、堀田は強い怒りを持って告白しているのだ。なぜなら、
「私はピカピカ光る小豆色の自動車と、ピカピカ光る長靴とをちらちらと眺めながら、こういうことになってしまった責任を、いったいどうしてとるものなのだろうと、考えていたのである。こいつらぜーんぶを海のなかへ放り込む方法はないものか」と
この時代では有り得ないほどに不敬千万に「考えていた。」
なぜなら、このとき天皇は主権者であって「現人神」でもあり、しかも戦時の「大元帥閣下」なのだ。今日では想像もつかないような「絶対者」なのだ。
堀田の発想の原点には「英訳レーニン」の影響もあっただろう。当時としては稀な少数者だった。
そして
「とはいうものの、実は私自身の内部においても、天皇に生命のすべてをささげて生きる、その頃のことばでのいわゆる大義に生きることの、戦慄をともなった、ある種のさわやかさというものもまた、同じく私自身の肉体のなかにあったのであって、この二つのものが私自身のなかで戦っていた。せめぎあっていたのである。」(同61ページ)
という根本的な自己矛盾を正直に吐露している。
今度は読んでいる私のほうが混乱してきそうだが、しかし、想像力を働かせば、ある程度の見当はつくようにも思う。皇国教育がいかに深く青年の精神を毒していたかの表れでもあるのだろう。
そのよって来るところを、堀田は「方丈記」を読み込む中で次のように展開する
「しかしこういうことになるについて、日本の長きにわたる思想的な蓄積のなかに、生ではなくて、死が人間の中軸に居据るような具合にさせて来たものがある筈である、というのが、その信じられない、という疑問に対する私自身の答えであった。」(63ページ)
としながらも堀田は、まだここではあくまで「仮説」「仮定」であると断っている。
「死が人間の中軸に居据るような具合にさせて来たもの」は、なにも明治以降の日本帝国主義、軍国主義教育だけの専売特許ではないのだと。
これは、日本人の心の問題に行き当たるのだと指摘しているのだろう。そしてその分脈のなかに「方丈記」の解読も位置するのだと思われる。
「そうしてさらに、もう一つ私が考え込んでしまったことは、焼け跡の灰に土下座をして、その瓦礫に額をつけ、涙を流し、歔唏しながら、申し訳ありません、申し訳ありませんとくりかえしていた人々の、それは真底からのことばであり、その臣民としての優情もまた、まことにおどろくべきものであり、それを否定したりすることもまた許されないであろうという、そいういう考えもまた、私自身において実在していたのである。」(同)
この不合理な感情は、いわゆる「政治学」で割り切れるようなシロモノではない。堀田の言葉を借りると「法外」を許す「臣民としての優情」とはいったいなにか。
ソヴィエト革命に詳しくはないので断定できないが、天皇制を支える伝統的な情緒・・・・その基底に流れる文化には西洋の教皇や君主制とは異なった側面があるということだろうか。
根っこには、ある種の「宗教感情」が絡んでいるのではないかと思える。
これは、高橋和巳が小説「邪宗門」で元帝国大学勅任教授の中村をして、法廷で
「・・・ヨーロッパ的観念から言えば、天皇制というものが、この日本社会の上部構造の最先端にあると目されるものなのでありますが、残念ながらそれはローマ教皇の地位と権威には相当せず、天皇制を支える神道理念は、先端まで行ったところで、ふわっと、農村の自然崇拝とその日々の感情生活へと解体されるのであります。・・・・」
と陳述させたことと通底するのではないだろうか。
「もしそうだとしたら、そういう無限にやさしい、その優情というものは、いったいどこから出てきたものであるか。また、その優情は、・・・・政治として果たしてそれをどう考えるべきものか。あるいは逆に、政治は人民のそういうやさしさに乗っかることは許されてしかるべきことかどうか?・・・・・支配者のこととしても、人民の側のこととしても、私には理解不可能であった。なぜ、どうして、というのが、25年前の焼け跡を歩いての、私の身体にいっぱいになっていた疑問だった。」(63-4)ページ
そして堀田は、この現象を「無常観の政治化」という言葉で表現したのではないだろうか。