「方丈記私記」を読む(4)        焼け跡の行幸

一晩で10万人以上の犠牲者が出たという1945年3月10日の東京大空襲から一週間後の18日早朝、堀田善衛は、ほとんどすべて消失した東京・深川富岡町の富岡八幡宮のあたりにいた。被災規模からして、もはや徒労とは知りつつも、旧知の女性の消息を尋ねて廃墟の中を彷徨していたのだった。
「・・・見上げて、明らかに本郷よりは東、本所深川のあたりが中心とみられる巨大な火焔地帯を望見しては、やはり、当然にその火に巻き込まれている人々のことを思わぬわけにはいかないのだ。一人の親しい女が、深川に住んでいた。そういうときに、真赤な夜空に、閃くようにして私の脳裡に浮かんで来た一つのことばが、・・・・・その中の人、現し心あらむや。生きた心地がすまい、などと言ってみたところでどうにもなるものではない。深川のあの女は、髪ふりみだして四方八方の火のなかを逃げまわり、
『或は煙に咽びて倒れ伏し、或は焔にまぐれてたちまちに死ぬ。』
ということになっているにきまっているものであろうけれども、本所深川方面であるにきまっている大火焔のなかに女の顔を思い浮かべてみて、私は人間存在というものの根源的な無責任さを自分自身に痛切に感じ、それはもう身動きもならぬほどに、人間は他の人間、それが如何に愛している存在であろうとも、他の人間の不幸についてなんの責任もとれぬ存在物にあると痛感したことであった。それが火に焼かれて黒焦げとなり、半ば炭化して死ぬとしても、死ぬのは、その他者であって自分ではないという事実は、如何にしても動かないのである。ということになれば、そうして深く黙したまま果てることが出来ないで、人として何かを言うとしたら、やはり、その中の人、現し心あらむや、とでも言うよりほかに言いようというものもないものであるかもしれない・・・」(ちくま文庫「方丈記私記」1988年 15-17ページ)
本書ではこれ以上何も記していないので推察するほかないのだが、作者にとっては「旧知の」「親しい女」なので、それ相応に強い喪失感と、その事実に毫も関与できない自分を発見したことだろう。それ故に”親愛の情”など一片の役にも立たない人間存在の孤独感を正面から突きつけられる事態だったのだろう。
多くの罪なき人々が「焚殺」されたのだ。総力戦時代に入った戦争の犠牲者は、圧倒的多数の無名の人々だった。

「永代橋を徒歩でわたっていて、本当に私はおどろいてしまった。・・・・永代橋の途中で、私は思わず立ち止まってしまった。朝日が空の途中まで上がっていたけれども、その中途半端な朝日の下に、望み見る門前仲町や須崎弁天町や木場の多いあたりは、実に、なんにもなかった。・・・・平べったく、一切が焼け落ちてしまっていた。・・・・」(ちくま文庫「方丈記私記」1988年36-37ページ)というほどの完全な廃墟だった。
これは、私たちの時代で言えば東日本大震災直後の被災地の風景にダブル。ただし戦争という「人災」は、自然災害とは根本的に違ことに留意しなければいけない。

この感懐は、中国大陸での短い捕虜生活を終えたあと、日本に復員した父の懐旧談とだぶる。
寧波から乗船した復員船のたどり着いた横須賀で頭からDDTをぶっかけられ、国鉄の無蓋車に乗り、やっとの思いで旧岐阜駅(盛り土だけしか残っていなかった)に降り立った。
なんと岐阜市街地は完全に消失し、廃墟と化していたという。土塁だけの駅舎から長良川の堤防が見えたという。そこまで、本当になにもなかったそうだ。川沿い右手には眩しいばかりの青空に金華山がそびえ立っていた。
「国敗れて山河あり」これが学徒兵であった父の敗戦イメージだと思う。
堀田善衛も「私はただぼんやりと、富岡八幡宮の境内であったところに佇立していた。境内といっても、どこに本殿があり拝殿があったのかさえ、見当がつかなかった。石の鳥居と石畳と石段などの、石のものだけがのこっていたけれども、その石といえども表面は赤茶けた色に変わっていて、さわるとぼろぼろともろくこぼれ落ちた。」(同57ページ)

やがて「憲兵と警官がへんに多くなり、石畳の上に散乱していた焼けのこりの鍋などを蹴散らして整理のようなことを始めたので、私はその境内をはなれた。」(同58ページ)
「そうしてもう一度、わたしはおどろいた。焼け跡はすっかり整理されて、憲兵が四隅に立ち、高位のそれらしい警官のようなものも数を増やし、背広に巻き脚絆の文官のようなもの、国民服の役人らしいものもいて、ちょっとした人だかりがしていた。もとより憲兵などに近づくものではない。何事かと、遠くから私はうかがっていた。」(同)
そう。「自由」が圧殺された警察国家で、軍を取り締まる「憲兵」などは、それこそ禍禍しい存在なのだったのだ。人々は「憲兵」と聞いただけで緊張した。

「九時すぎたかと思われる頃に、おどろいたことに自動車、ほとんどが外車である乗用車の列が永代橋の方向からあらわれ、なかに小豆色の自動車がまざっていた。それは焼け跡とは、まったく、なんとも言えずなじまない光景であって、現実とはとても信じ難いものであった。これ以上に不調和な景色はないと言い切ってよいほどに、生理的に不愉快なほどにも不調和な光景であった。焼け跡には、他人が通りかかると、時に狼のように光った眼でぎらりと睨みつける、生き残りの罹災者のほかには似合うものはないのである。乗用車の列が、サイドカーなども伴い、焼け跡に特有の砂埃をまきあげてやって来る。
小豆色の、ぴかぴかと、上天気な朝日の光を浴びて光る車のなかから、軍服に磨きたてられた長靴をはいた天皇が下りて来た。大きな勲章まで付けていた。私が憲兵の目をよけていた、なにかの工場跡であったらしいコンクリート塀のあたりから、二百メートルはなかったであろうと思われる距離。
私は瞬時に、身体が凍るようなおもいをした。」(同59ページ)

昭和天皇の行幸シーンは、yutubeなどでもニュース映画記録で見ることが出来る。この時期「現人神」が大衆の前に姿を見せたということじたいが異例中の異例だったのだろうと思うが、堀田善衞はこの瞬間に出くわしてしまったのだ。

「廃墟でのこの奇怪な儀式のようなものが開始されたときに、あたりでは焼け跡をほっくりかえしていた、まばらな人影がこそこそというふうに集まって来て、それが集まってみると実は可成りな人数になり、それぞれがもっていた鳶口や円匙(えんぴ)を前に置いて、しめった灰のなかに土下座した」
「早春の風が、何一つ遮るものもない焼け跡を吹き抜けて行き、おそろしく寒くて私は身が凍える思いをした。心のなかもおそろしく寒かったのである。風は鉄の臭いとも灰の臭いとも、なんともつかぬ陰気な臭気を運んでいた。
私は方々に穴のあいたコンクリート塀の蔭にしゃがんでいたのだが、これらの人々は本当に土下座をして、涙を流しながら、陛下、私たちの努力が足りませんでしたので、むざむざと焼いてしまいました、まことに申し訳ない次第でございます、生命をささげまして、といったことを、口々に小声で呟いていたのだ。」(同60ページ)

「私は本当におどろいてしまった。私はピカピカ光る小豆色の自動車と、ピカピカ光る長靴とをちらちらと眺めながら、こういうことになってしまった責任を、いったいどうしてとるものなのだろうと、考えていたのである。こいつらぜーんぶを海のなかへ放り込む方法はないものか、と考えていた。ところが責任は、原因を作った方にはなくて、結果を、つまりは焼かれてしまい、身内の多くを殺されてしまった者の方にあることになる! そんな法外なことがどこにある! こういう奇怪な逆転がどうしていったい起こりうるのか!」(60-61ページ)

戦後生まれの私たちの感覚からみて、堀田善衛の実感はまことに自然な反応だと思われるのだが、昭和20年3月の時点では、こんな「奇怪な逆転」・・・言い換えれば、「政治的倒錯現象」のほうが当然の日本社会であったことを私たち戦争を知らない世代も知っておくべきだろう。

この「奇怪な逆転」現象を別の言葉で表現すると、

「ただ一夜の空襲で十万人を超える死傷者を出しながら、それでいてなお生きることを考えないで、死ぬことばかりを考え、死の方へのみ傾いて行こうとすること」(同61ページ)に人々を招いた政治体制
であって、「生きている間はひたすらに生きるためのものなのであって、死ぬために生きているのではない。なぜいったい、死が生の中軸でなければならないようなふうに政治は事を運ぶのか。」(同61ページ)という疑問につながる。
「教育勅語」が戦後否定されてきた理由もここにあるのだと思う。一言で言えば戦争を遂行する権力側に都合の良い徳目だからだ。

思うに戦中派世代の人々、つまり15年戦争時代に生まれ合わせた人々は軍国主義教育で「国家のため、天皇のために死ぬ」(大義)ことを、問答無用でたたき込まれた世代だった。私の両親も含めて年老いても、あの悪名高い「教育勅語」をそらで暗唱できる世代。映画「二十四の瞳」に登場する、罪もない子どもたちだ。
だからこそ、「人は、生きている間はひたすらに生きるためのものなのであって、死ぬために生きているのではない。」という、今日の常識からみて至極当たり前の常識がまったく通らないのだ。
この倒錯現象こそが「奇怪」なのだ。

堀田の場合は、戦時下にありながら「英訳レーニン」を耽読するなかで違う視点を培われたのだろうが、大多数の国民は本当のことは何も知らず、知らされずに皇国教育一色で洗脳され、本気で「大義」を信じて戦争に突き進んで死んでいった。驚くべきことに、ほとんどの国民が「神国日本」などという、出来の悪いフィクションをまともに信じて生きていたのだった。

しかし、その皇国教育とは「死が生の中軸でなければならないようなふうに」「政治」が強制した結果だった、というのだと思う。たとえば、「国家総動員体制」などというオドロオドロシイ掛け声の本質は、まさに「死が生の中軸」になるような政治の帰結なのだ。
やはり、こんな不幸な時代はないと思う。

「けれども、富岡八幡の焼け跡で、高位の役人や軍人たちが、地図をひろげてある机に近づいては入れかわり立ちかわり最敬礼をして何事か報告か説明のようなことをしている——それはまったく奇怪な、現実の猛火と焼け跡とも何の関係のない、一種異様な儀式として私には見えていた——、それはなんとも、どう理解しようにも理解の仕様もない異様な儀式と私には見えていた。この儀式の内奥にあるものは、言うまでもなく生ではなくて死である。しかもその死は、誰がなんといっても強いられた死であり、誰一人として自ら欲しての死ではない。特攻隊もまた頻々として飛び立っていた時期であり、南の島々においての全滅もまた月に何度も報ぜられていた。それらの死に対しての、最高の責任者を、予告もなく突然に、目のあたりに見ることは、それはどうにも現実としては信じられない、理解不能な事柄に属していた。
信じられない。
信じられない。
というのがどこもかしこも焼け跡だけの焼け跡を風に吹かれて歩きながらの私の呟きであった。」(同62-63ページ)

しかし、このときレーニンとともに「方丈記」も耽読していた堀田の思考回路は決して単純ではない。

まず、
「とはいうものの、実は私自身の内部においても、天皇に生命のすべてをささげて生きる、その頃のことばでのいわゆる大義に生きることの、戦慄をともなった、ある種のさわやかさというものもまた、同じく私自身の肉体のなかにあったのであって、この二つのものが私自身のなかで戦っていた。せめぎあっていたのである。」(同61ページ)
と、正直に述べていることに注目したい。

終戦の日の皇居前広場にも、同じ現象が起きた。
皇国思想に染まった日本人の矛盾したメンタリティーを指摘しているのだと思う。

この感懐は、戦中派世代のインテリの内面の葛藤を的確に表現していると思われる。だからこそ、荒涼たる焼け跡の中で寒風に吹かれながらの帰途で「信じられない 信じられない」という「呟き」になったのだろう。

しかも、こう書いている25年後になっても、なおこの問題を引きずったままの当惑感を回顧しているのだ。

私は、改めて「戦後は終わっていない」のではないかと思った。
その理由を、もう少し細かく検討してみたい。

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