「方丈記私記」を読む(3) 危険思想

「・・・・ここでの判断の理由をなすもののうちでの大きなものの一つが、私における英訳レーニン耽読にあったであろうことは否定出来ないように思われる。」(62ページ)

あの戦時下にあって、英訳レーニンを耽読するような青年はそれこそ「危険思想」の持ち主だったことだろう。露見すれば思想犯になりかねない。

この事情は、例えば手塚治虫の名作漫画『アドルフに告ぐ』によく描かれている。
特高幹部の息子でありながら、左翼の非合法活動に従事する若者が描かれている。父の書斎にこっそに忍び込んで機密事項を盗み撮りし、ゾルゲを首領とする国際諜報団に手渡そうとしていた。ゾルゲはソ連赤軍のスパイだった。左翼とは「アカ」のことだった。

堀田善衛は活動家ではなかったが、いわゆる「アカ」の傾向を持つ青年であったのだろう。
近衛文麿が、天皇への上奏文であれほど恐れた共産主義者、もしくはそのシンパの可能性があったということになるが、近衛が誇大に妄想したようなモンスターではなくて、まったく無力無名の青年に過ぎなかった。あの空襲下で、こっそりと英訳レーニンと「方丈記」を耽読するしかない青年だった。

同じく戦時中に帝国大学の学生であった父の話では、「レーニン全集」(和訳か英訳かはわからない)を持っていたというだけで、早朝に「特高」のがさ入れを受けた帝大生が実際にいたという。社会主義の文献など「禁書」扱い同然だったのだろう。日本は、思想信条の自由など皆無の閉鎖社会だった。ついこの前のことだ。我々がいま享受している戦後の「自由」のありがたさは天与のもではない。

例えば、政治学者丸山真男の場合などを参照してみよう。
岩波新書「リベラリストの肖像」(苅部直 2006年)によると
「・・・・また、丸山(真男)の逮捕の半年前にも、親しい同級生が、活動家との協力を疑われて検挙され、その衝撃から統合失調症を発し、まもなく死んでいる。この同級生は、共産党の協力者どころか、マルクス主義を批判する自由主義者として左翼学生から嫌われていた経済思想史学者、河合栄治郎の愛読者だった。こうした学生たちは、警察と学校当局との協力のもと、授業中に生徒主事から呼び出され、そのまま本富士書に連行されていった。・・・・(丸山の)同じクラス四十名をとっただけでも、在学中に逮捕されたのは、丸山を含め八人にのぼる。・・・・この世代の若者たちにとっては、勉学と生活の場が、そのまま国家による思想統制の最前線であり、逮捕と取り調べという形で、その暴威が自分にいきなり及んできたのである。」(同50ページ)
だから、丸山(真男)は、『天皇制』について、『これを倒さなければ絶対に日本人の道徳的自立は完成しないと確信する』(同140ページ)
その思考回路は以下の堀田善衛の考えとも通底する。

堀田青年は決して口には出せなかったが、絶望的な戦局を前にしながらも
「・・・・この戦禍の先の方にある筈のもの、・・・・・新たなる日本についての期待の感及びそのようなもの・・・・」(同70-71ページ)があったという。そのイメージは
「・・・戦時下の、当時において私が考ええた新たなる日本とは、煎じ詰めて言えば、要するに天皇なき日本、という、ただそれだけのもの」(92-93ページ)
という、とてもシンプルな「期待」に過ぎなかった。逆に言えば、それほどに絶対天皇制の重苦しい抑圧が青年を窒息させていたのだろう。天皇の名のもとに全てが無理やり「正当化」される、極端な不合理社会だったのだろう。

方丈記のなかで、清盛による福原遷都『1180年)の失政を
「・・・古都はすでに荒(れ)て、新都はいまだ成らず。」
と記した一節を読む中で閃光のようにひらめいたイメージなのだが、その「期待」は、なかなか現実的な展望を描けない。

「すなわち、旧都と新都の間には、明らかに断絶、亀裂、裂け目がある。現在の日本は━━と考えてみて、そこではじめて私はこのような日本、戦時日本というものが、いつまでもつづく筈のものではない、と明らかに気付かされたのであった。奴らのはじめた戦争はついに日本を全体的に荒廃させてしまった。明治以後の近代日本というものが、ついにかかるところまで追い込まれたについては、私にもそれがおそらく必然の道程であったのだろうと、ある程度の納得は行っていたのであった。その必然がもたらす運命にも従うつもりであった。しかし、その必然が、すでにぎりぎりの終末に近づいているのに、明日の、新たなる日本というものについての映像が、うまく眼に見えて来ない・・・・。」(90-91ページ)
という回想には、戦中派世代のインテリたちの焦燥感をよく表現しているので、うなずけるものがある。明治以来の後発帝国主義は無理に無理を重ねて、無謀な侵略戦争の泥沼に足をとられ、ついには欧米との勝目なき「民族自爆」のような大戦に突っ込み滅びるのだ。

「・・・・私たちほどの年恰好の者は、日本の行った15年戦争の間に青春の時代をもったことから、時として、”暗い谷間”とその青春時を形容される・・・・(鴨)長明の青春もまた、時代背景からしてこれを見れば、やはり惨憺たる”暗い谷間”と言えるかもしれない」(83ページ)
ここに堀田が「英訳レーニン」とともに「方丈記」を耽読した理由がある。

出撃する特攻隊

おそらく、堀田と同じように「その必然がもたらす運命にも従」い、無念を飲んで死んでいったインテリ青年や学徒兵がたくさんいたことだろう。それがあの「わだつみの声」ではないだろうか。

「学徒兵は敵と戦うどころか、半分くらいは戦病死さ。兵隊にとられたとき、お前たちの命は一銭五厘だと叩き込まれた。毎日殴られた。馬鹿な戦争だった。」

と、父が問わず語りに述べた同世代の人々の無念さは、今だに根本的には晴らされてはいないように思える。

学徒出陣

父や堀田善衛は、たまたま運良く生き延びることができた。
しかし
「明日の、新たなる日本というものについての映像が、うまく眼に見えて来ない」ままに、迷いながら戦後を生きてしまったのかもしれない。
この作品の時点(1970年)で堀田善衛は50代前半、父も40代後半だった。

一方、平安貴族の文化水準について堀田善衛は
「・・・・日本国はたしかに衰えたが、和歌詩歌は、世界の文学史上にも稀なほどに、もっとも高度な美的世界を闇の架空に築いた。宗教思想においてもまた、我が国の宗教史上、法然、親鸞において、もっとも高度なところまで達した。それもまたこの時期であった。」(同49ページ)
と記しているが、文学に疎い私にはよくわからない。

「・・・天の原おもへばかはるいろもなし秋こそ月のひかりなりけり
(定家『初学百首』)
という、その月のひかりの下の現実世界では、連続地震、兵乱、殺戮などのことが日もあえず行なわれていた、そういう現実の一切の捨象を可能にしたもののは、やはり私は朝廷一家の行う”政治”なるものが、政治責任、結果責任などというものとまるで無関係なところにあるものとして在るからこそ、怖るべき現実世界の只中においてあのような形而上学を現出させえたのだ・・・・たとえばフランスの象徴詩などとならべて、いやそれ以上のものとして人間がもちえた最高のものの一つとして考えるものであるけれども、それを可能にした一つの要素が、当時における天皇制のあり方とどうしても関係がある、それは切っても切りはなせない、と思う。・・・・当時、日本文学について何かを考えるということは、結局は天皇制というものにぶつかるということなのだな、と痛切に感じたことがあったけれども、そこまでのことは書かなかった。おっかなくてとてもそこまでのことは書けなかった。それに、当時においては私たちの語彙に、天皇制、といった言葉もなかったのである。天皇は神としての戦争遂行者であった。」
(102-103ページ)

中世貴族の政治的無責任、時代や社会への当事者意識のなさと、その文化の「現実離れした」美の極地([夢の浮橋])とは、表裏一体の関係なのだと言っているのだろう。それを思想的に突き詰めると、いわゆる「天皇制」に突き当たるということまで、戦時下ですでに考えついていたという。しかし、それはとても「おっかなくて」口にできない、書けないことだった。
そうした問題意識は、たちまち命の危険にも及ぶような「危険思想」だったと述べているのだと思う。なにしろ「戦争遂行」の主体者は「神」としての「天皇」なのだから、ほとんどカルトまがいの国家体制だった。
今どきのどこかの独裁国家を嗤ってはいられない。つい先日の、ニッポンのあられもない実像なのだ。

しかし、「明治以後の近代日本というものが、ついにかかるところまで追い込まれ・・・・おそらく必然の道程」として「日本が全的に滅び」、その後に「天皇なき日本、という、ただそれだけ」の社会になるという、淡い期待が木っ端微塵に吹き飛ばされるような事態にまもなく堀田善衞は遭遇したのだった。
それは昭和20年3月18日、東京大空襲後の翌朝、まさに「全的崩壊」の被災地への「天皇行幸」だった。

荒涼たる廃墟の物陰から天皇と被災者の姿を垣間見た堀田善衞の衝撃、さらにその複雑な思いは、今なお未解決なテーマのひとつだと思った。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA