鴨長明「方丈記」雑感(5)  情緒に流された思想的未完性

では、この「方丈記」という作品は研究者の間ではどのように評価されているのだろうか。素人の手の届く範囲に限られるが、参考までに調べてみた。

そのなかで、「講談社学術文庫『方丈記』(1980年安良岡 康作)」の後半の概説「『方丈記」の構造」を引用させてもらう。

「方丈記」が、和漢混淆文で記されているのは『記』(ある事物の現状をありのままに描き出す文章)(同258ページ)の長い伝統を継承していると指摘し、これを同時に国文で叙述しているところに、長明の独創性の第一があるとしている。

第二に、長明の無常観が、かならずしも人間の生命や世間の状態の変遷・流転を悲しみ嘆く、感傷的、詠嘆的なそれとばかりには限定できない(同259ページ)という。むしろ、現実を厳しく直視した無常観を確立し、遁世への意思を強く固めていることが認められる。

第三には
「彼の人間存在への観察には、いつも『心』の問題が存し、その『心』を人間の中枢として、何よりもたいせつに考えている」
つまり、心を「身よりも優位においている」(260-261ページ)
これは、例えば

「夫(それ)、三界は只(ただ)心一つなり。」

という長明のいわば「決めセリフ」などのことを言うのだろう。

第四に
「『方丈記』の中心問題は、いつも、この『心』をめぐって展開していることが認められる。」から
「『心の悩み』が、彼の、世間を捨離して、遁世生活に踏み切る動機となっている」(261-2ページ)
だから「『心の楽しみ』こそ、無常の世に生きて、彼の求め続けていた、自己確立の意思の具現である」
と解説している。

同時にその直後で
「しかし、長明の、深く、鋭く、自己の内面を抉剔しようとする意思は、この『心の楽しみ』をも否定し、克服しなくては止まなかった。
それが『方丈記』の末尾の第十二章における、『心』と『行』の問題の剔抉であって、それまで、『心』こそ自己の究極の拠り所として来た長明が、ここでは、山林閑居の目標である、『心を修めて、道を行なはんとなり』に照らして、深く自己を反省し、自己の『心』と『行』との未熟・不徹底を厳密に追求して、それも未解決のままに、全編を終了しているのである」
と分析している。

長明の真摯な求道の道も
「・・・・結局、自己愛の範囲にとどまり、その残滓を保っている」
のであって、長明の出家は修行としては中途半端に終っているというのだろう。

しかし、
「・・・・この激しい自己否定の精神こそ、著者長明の、最も深い人間性の表れであって・・・わたくしとしては、これを、第五に挙げるべき、『方丈記』の特筆と考えるのである」(263ページ)
と評価している。

まとめてみると、著者・安良岡氏は主題の展開として
(一)無常の世における、人と栖のはかなさ
(二)若い時から、度々の災厄で経験した、無常の世の中における、人と栖のはかなさ。
(三) その住みにくい世に生きるわが心の悩みを踏み切って入った遁世生活。
(四) 日野山の方丈の庵の生活において獲得した、わが心の安楽さ。
(五)死に近づいて省みた、方丈の庵の生活における、わが心と修行との不徹底さ
というふうに整理したうえで、主要部は(四)であるという。

「(一)(二)(三)はそれに達するための準備的、前提的過程にあり、(五)は(四)の肯定を否定に転じた、発展的、止揚的位置を占めるものとして定位される」(265ページ)
と、大袈裟な言葉で締めくくっているが、すこし持ち上げ過ぎではないだろうか。自分の研究対象への愛着のあまり、筆が滑ったということか。

確かに
「・・・・それらの文体には、不安と動揺の中に、少しでも、それを脱却した自己を確立しようとする、彼の生活態度の厳しさが感ぜられる」(271ページ)
かもしれないが、あえて身も蓋もなく言えば、最後まで「迷い」を克服できなかった、ともいえるのではないだろうか。むしろ最後でその不完全感を正直に告白しているように思う。

(四)から(五)への叙述の流れは、実にあっさりしたもので、どこにも「発展的、止揚的」な深みなど感じられない。
詰まるところ、ああだこうだと繰り言を書き連ねてきたものの、ふと我に返ってかくも自分にこだわるばかりの「執着心」が恥ずかしくなったのではないだろうか。なんとも切れ味の悪い結末なのは、「方丈記」が「情緒」に流されたからだろう。
であれば、何も見せかけだけの「出家遁世」など必要ではない。

「NHK出版 方丈記」(小林一彦 2013年)で指摘されているように、今風に言えば「方丈記」は確かに「自分史」なのだろう。自分へのこだわりを綿々と告白した。
「徹頭徹尾ひとり語りの形で自分について『書いた』『自分史』なのです。そこが『枕草子』や『徒然草』とは決定的に違います」(同)
だから、何かしら恨みっぽく納豆の糸のように粘っこい。

「中途半端に終わるところに説教臭さがなくて魅力がある」(同)
などという評価の仕方もあるだろう。しかし、文学的な価値はよくわからないが、思想的には未完成で終わっている、と結論しても良いのではないだろうか。むしろ「情緒」こそ「方丈記」の真骨頂なのではないだろうか。

未曾有の乱世を「一人で生きてゆく」覚悟などと、大上段に振りかざせば立派に見えるけれど、結局人間はひとりっきりで生きることなどできない。いくら平安時代でも社会性を完全に放棄することなど不可能だと思う。

現に長明は出家しながらも琵琶演奏や和歌創作は捨てていない。
しばしば所用で都にも出向いていたようだし、「方丈記」執筆直前とされるが、わざわざ鎌倉くんだりまで行って歌人将軍源実朝とも人を介して会っている。なにを期待したのだろう。ハナから世の中を捨てたのではない。察するところ、堀田善衛が指摘するように政治権力、名声への関心も並々ならぬものがあったのだろう。
さんざん未練がましくじたばたした甲斐もなく、やっと諦めて「方丈記」を書いたものの、やはりまだ執心から離れられない自分の姿が透けて見えたのではないだろうか。

同じ鴨長明作と伝えられる「発心集」で数多くの出家エピソードを紹介しているが、今日から見て、この時代の「出家」は有閑階級のいわば「流行」のようなもので、額に汗して働く必要のない貴族の「遊行」にみえる。
そもそも「遁世」という概念自体、ありのままの人間に適用ようとすれば無理があると思える。
伝えられる釈迦教団時代の、本来の厳格な求道、「出家イメージ」とはかなりかけ離れているだろう。

だから「出家」したはずの人が、その後も隠然たる世俗上の権力者であり続けるなどという、歪んだ政治体制(院政)が生まれたのだと思う。むしろ、「出家」を政治的な隠れ蓑にしたのだろう。それがまた国政をなおさらに混乱させたのではないだろうか。

内乱、政争、武力闘争による市街地の破壊などで無法地帯化した都の治安は荒れに荒れた。そのうえ激しい自然災害の頻発や大飢餓が人びとをさんざん苦しめた。
「・・・・古京はすでに荒れて、新都はいまだ成らず。」(方丈記 福原遷都)
これでいちばん迷惑したのは、最も弱い立場の人々だったはずだ。今日に名前も伝わらない、罪なく傷つき命を落とした多くの人々がいたはずだ。「自分史」など記述する余裕もなかっただろう。

鴨長明は高位の貴族ではない(有力な庇護者であった父が健在な頃に従五位の下を任じられたまま生涯を終わっているようだ)が、それでも晩年には方丈の庵室に逃げ込み「閑居の楽しみ」を気取ることのできる出自であったことは否定できない。しかし、貴族社会でのいわゆる「負け組」の身の上を湿っぽくかこつばかりで、世の中の惨状には全く無力、これを流麗な文体で「情緒」に流すだけに終始したのだった。その延長線上に阿弥陀の救いを本気で求めたとも言い難い終わり方。

「・・・・平安時代末の不安な社会に生きた長明が、多難の人生遍路の末に、絶望し、無常を観じて出家する。そこで一往安住の地を得たかのごときであったが、なおそこにもとどまり切れない・・・・・隠遁生活を通して、自由を得、自己をとりもどしたよろこびはよく描けているが、そういう問題を追求したものとしては、なお底が浅く、視野も広いとは言えない。音楽と和歌の才に恵まれ、これを自負し、家名、家職に固執する、片意地な偏狭な男が、自己の体験を、隠者の悟りを開いたかの如き自分を通して語っているのであって、・・・・読者は、生半可な悟りに対するもどかしさを感ぜざるを得ない・・・・長明は結局悟りきれず、安心立命の境界に至り得ない男であって・・・・したがってこの作品に思想的な深みを求めるのは困難である」
(岩波文庫 新訂 方丈記 市古貞次校注1989年135-6ページ)
という解説あたりがほぼ妥当な評価ではないかと思った。

なお、角川ソフィア文庫『「発心集」下(平成26年刊)』の浅見和彦氏解説によれば、
「『愚かなる心』・・・・その不安定で揺れ動く心をいかにして安定させるか、これこそが長明の発問、『発心集』の命題であったといってよい。それに答えるべく長明は一つ一つの心と正面から向き合い、解決の糸口を見つけようとした。
その解決策はそう多くはない。限られた選択肢の中では、一つは数寄のち見であった。・・・・・」(337ページ)
「長明にいわせれば、数寄は俗世間の付き合いもなく、身の不運も忘れさせ、花・付きを前に心を澄ませるから、自然と『名利の余執』から解放されるというのである。長明のたどり着いた一つの解決策はこれであった。・・・心の師とはなるとも、心を師とすることなかれ」(同338ページ)
とうことでは、せいぜい気晴らしか精神修養の域を超えてはいない。やはり現実逃避の姿勢を免れないだろう。

ところで、
「・・・・この方丈記なるもの、字数にして九千字あまり、四百字詰の原稿用紙に書き写してみても、せいぜい二十二枚強くらいの短いものでしかない。だから私はほとんどこれを暗誦出来るほどに、読み返したわけであった。」
(ちくま文庫 堀田善衞「方丈記私記」1988年 70ページ)

「・・・・それは、やはり戦争そのものであり、また戦禍に遭逢してのわれわれ日本人民の処し方、精神的、内面的な処し方についての考察に、何か根源的に資してくれるものがここにある。またその処し方を解き明かすためのよすがとなるものがある、大風、火災、飢え、地震などの災殃の描写が、実に、読む方としては凄然とさせられるほどの的確さをそなえていることに深くうたれるからでもあった。またさらにもう一つ、この戦禍の先の方にある筈のもの、前章及び前々章にしるした新たなる日本についての期待の感及びそのようなものは多分ありえないのではないかという絶望の感、そのような、いわば政治的、社会的転変についても示唆してくれるものがあるように思ったからでもあった。政治的、社会的転変についての示唆とは、つまり一つの歴史感覚、歴史観ということでもある。」(同70-71ページ)

という具合に、暗く絶望的な戦時下の東京、その最も悲惨な昭和20年3月の大空襲のただなかで、堀田善衞はひとりの読者として760年も前の「方丈記」を「暗誦出来るほど」読み込むことで時空を超えた歴史経験をすり合わせ、心慰めたのだと思う。
堀田のなかで、あの戦争末期の絶望感は平安末期の終末観と響きあったのだ。

そして、日本人のこころの底に綿々と通う、ある種の「連続性」に思い至ったのだろうと推察される。
もちろん、800年も前の作品を今の価値基準だけで批判しても一方的にすぎるだろうが、長い間日本人に読み継がれてきたわけを堀田の思索に沿って追求したい。
そこに「方丈記」が、かくも重宝がられてきた理由もあるのではないだろうか。それは決して誉めらるような「伝統」ではない。むしろ悪弊というべきではないだろうか。
あたかも闇夜に妖しく光る隠花植物のような。

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