堀田善衞「方丈記私記」(2)        国家の全的崩壊への期待

大空襲の翌朝、大田区池上の友人宅に疎開していた著者は知人の安否などを確認すべく被災地域に出かける。

「・・・・焼け出されて着の身着のまま、焼けこげて生身の露出した襤褸(らんる=ボロ)をまとった人びと、あるいはまた最小限の荷物をもって逃げてきた人びととすれちがいはじめた。」
やがて
「・・・・新橋近くになって来ると、黒焦げの屍体も眼につき、消防自動車もトラックも電車も、すべて焼けこげて骨だけになっていた。私たちはブリキ製の細長い管のような焼夷弾の燃えガラを蹴飛ばしながら歩いて行った。それほどにもこの燃えガラはそこここに散乱していたものであった。」
(ちくま文庫「方丈記私記」1988年 34~5ページ)
という惨状。大量の焼夷弾が一晩で東京に投下されたことがわかる。あっという間に10万人もの犠牲者が出たということだから、今日ではその破壊の凄まじさは想像がつかない。

焼夷弾のガラ

ところがこのとき著者は、荒涼たる焼け野原を歩くなかで、不思議なことにある種の「期待感」が胸に湧いてきたのだという。

それは、安元三年(1177年)の京の大火やその三年後の治承四年(1180年)卯月(旧暦4月)に都で起こった大旋風(竜巻のことか)のあとの、京の街の惨状を実際に見に行って「方丈記」に書き残した長明と、東京大空襲直後の被災地の焦土を歩いた著者自身の体験が、心の中であたかも化学反応を起こしたかのように結合し、浮かび上がったイメージ(あるいは妄想)のようだ。

汐留の友人の店はなんとか焼け残ったものの、辺り一面の焼け野原にポツンと佇立していた様を見て
「・・・ああ残っている、と確認した瞬間に、私は、よかった、と思うと同時に、なんと莫迦げたこともあるものだ、と思ったことを記憶している」
(同35ページ)
と述懐している。

後者の「なんと莫迦げた」という思いから続く連想については、
「・・・・というのは、満州事変以来のすべての戦争運営の最高責任者としての天皇をはじめとして、その住居、事務所、機関などの全部が焼け落ちて、天皇をはじめとして全部が罹災者、つまりは難民になってしまえば、それで終わりだ、終わりだ、ということは、つまりはもう一つの始まりだ、ということだ、ということが・・・・・ひとつの啓示としてやって来たのであった。・・・・」
(同36ページ)へと展開した。
「啓示」というのだから、突然閃いたのだろう。
この複雑な感懐に25年後の作者はこだわった。このふたつの印象は今では腑分けできない、そこに「25年間の思想的な営為が干渉してくる」からだという。
「思想的営為」とは何か。

「・・・諸行無常の感などといういうよりも、ここでもまた奇怪な話だと思われる人があろうけれども、むしろ愉快、といったらますます異様なことになるにしても、・・・・ある種の期待感が胸に盛り上がって来るのであった。・・・・」(同37ぺージ)
言い換えれば、「終わるべきものは、この際終わってしまえ。終わってくれ。」というような感情ではないだろうか。一種のヤケクソ感が底流にありそうだ。

昭和20年3月10日、池上に疎開していた27歳のいち日本人インテリ青年・堀田善衞は、大空襲の被災地を歩きながら、ここからはじまる日本の滅亡・・・・堀田が好んで使う言葉で言えば「全的崩壊」をながめつつ、閃きのようなある期待(あるいは妄想)感が湧き上がったのだという。

これは満州事変以来の戦争政策で行き詰まった絶対天皇制国家・軍国日本への絶望であるとともに、そこからの解放をその完全崩壊に期待した「気分」なのだろう。逆に言うと、すでにそれほどの絶望的な閉塞感にあったからなのだろうと思う。

「・・・・さてしかし、(方丈記の)『ただ事にあらず、』と来て、その次に『さるべきもののさとしか、などぞ疑い侍りし』というところであるが、日本中、兵営も宮城も政府も工場もみな燃えてしまって、すべて平べったい焼け跡となり、天皇をはじめ万民、死ぬ者は死に、生きて残った者はすべてこれ平べったく難民ということになったら、どういうことになるか、という妄想・・・・しかし、この妄想は、当時においては、妄想ではなくて、不気味なほどの迫力、・・・・を内に持った、必然性の高い現実であったのだ。少なくとも三月十日において私はそう思っていた。」(同42ページ)
それは、この当時の日本においてはとんでもなく不謹慎、つまり無政府主義的な(「非国民」の)感情であったことだろう。

「・・・ということになった暁に、新たに、如何なる日本が出現するかという、その新たなる日本を、ぶすぶすけぶる焼け跡の土蔵や金庫のかげからはるかなる、・・・・・胸中の戦慄とともに盗み見るようにして翹望をした瞬間があったのである。そういう瞬間には、実に背筋はちり気だち、誰かがわが心の内実を覗き見ているのではないか、とあたりを窺ってみて、憲兵や警察がうろうろしているのを知って身心ともにちぢみ上がったものであった。」(同43ページ)
あまりにも憚りのある「妄想」だった。建前上は全国民が眼尻を割いて「必勝」「七世報国」「撃ちてし止まん」などとナンセンスなスローガンを呼号していたのだから。
こんなことを少しでも顔色に出すような「不逞の輩」は、たちまち「アカ」とみなされただろう。そして治安維持法や不敬罪を問われ、憎しみに満ちた拷問を受け、極刑を言い渡されかねないような暗黒社会だった。わずか70余年前の地獄のような日本の現実だ。

だが、それだからこそ、

「それではしかし、焼け跡にたっての、最小限のところでの私において、『さるべきもののさとしか』と怪しみ恐れられたものが何であったかと言えば、それは先に述べたような、この分では日本国の一切が焼け落ちて平べったくなり、階級制度もまた焼け落ちて平べったくなる、という、無気味で、しかもなお一面においてさわやかな期待の感であった。」(53ページ)
この頃に、空襲ですべてを失った人びとの中にはなぜか
「焼けてこれであたしもサッパリしました」
と、語り合うこともあったという話にも
「そこにはやはり何程か異様な期待の感があったからではなかったろうか」
(同53ページ)とまで記している。

つまり、どうしようもない行き詰まりをすべて押し流し「無」にしてくれるような「全的崩壊」を期待した心持ちが、一般のなかにも確かにあったのではないか、というのである。それが『さるべきもののさとし』だろう。

「・・・・この戦禍の先の方にある筈のもの、前章及び前々章にしるした新たなる日本についての期待の感及びそのようなもの・・・・」(同70-71ページ)
という具合に「全的崩壊」のあとに、ある種の期待を懐いたようだ。かなりアナーキーな感情だった、ということだろう。

堀田はやがて米軍が上陸作戦を敢行し、日本列島各地で激しい陸戦が起きれば日本軍も分断され、国内は大混乱に陥るだろうというような凄惨な未来をすら予測していたようだ。確かに敗戦の色濃い20年春にはその「全的崩壊」イメージには、相応のリアリティーがあったと思われる。本土決戦が呼号され、竹槍を持ってでも徹底抗戦あるのみ、「鬼畜米英」に降伏することなどあり得ないことだった。

そして、そこに平安末期から中世日本の戦乱状態のイメージを重ね合わせている。
「・・・・学徒群起、僧兵狼藉、群盗横行、飢饉悪疫、地震、洪水、大風、降雹、大火・・・」(同48ページ)

この歴史的な混乱期の特徴について
「・・・・日本国はたしかに衰えたが、和歌詩歌は、世界の文学史上にも稀なほどに、もっとも高度な美的世界を闇の架空に築いた。宗教思想においてもまた、我が国の宗教史上、法然、親鸞において、もっとも高度なところまで達した。それもまたこの時期であった。」(同49ページ)
と、滅亡感のなかで、これを妙に評価をしている。

その主役は「平安貴族」だった。

こうした国家衰滅のときにあたって藤原兼光や定家の日記などを紹介しながら、平安貴族たち支配層の政治的無責任さについて

「・・・しかし、私は兼光の言う『日本国』というものが、兼光の心持としては彼らの貴族エスタブリッシュメントに限られたものであったろうと註しておきたい。一般人のことなどは彼らの『日本国』には入りはしない。」(同49ページ)
と指摘している。
このことも、一九四四年において、今度は公爵近衛文麿の書いた有名な上奏文を引き合いに照応させている。

「・・・・支配階級というものは面白いほどに等質なものであるということの、一つの症例になりうるか。
その症例の一つは、国民というものの無視、或いは敵視である。・・・・
国内情勢に関する部分。これは恐らく歴史に残る文書であろうが、とにかく当時の上層部が何を考えていたか、まざまざと見る思いをさせられるものであり、一種の傑作であるとさえ思う。これによると、少壮軍人の多数も、右翼も左翼も、官僚も、みな共産主義者であり・・・・資本家と貴族を除いたほかは、活発な人は誰もかれもがぜんぶ共産主義者だということになるのである。・・・・その非常識滑稽は、社会から斥けられた法外者(アウトロ)か、犯罪者の抱く歪んだ社会観に近い。近衛氏は、共産革命を防止し、国体と称するものを守るためにのみ、戦争終結を急いだ。そしてその国体と称するものも、要するに自分たちと天皇ということにほかならぬと思われる。・・・・この上奏文全体を何度読んでみても、九十九パーセントの国民の苦難など、痛快なほどに無視されている。テンから問題にもされていない。」(同50-52ページ)
近衛文麿は頑迷な対米開戦派の東条英機とは違って、戦争には消極的だったと伝えられる。しかし、この時期に講和を急いだのはあくまで「国体」保持のためであり、一般国民の生存のためではまったくなかった。尚最近、この上奏文を起草したのは、吉田茂ではないかという説が出ている。(2017.9.24「サンデー毎日」娘・麻生和子が見た吉田茂の戦後史/2=保阪正康)

私も、このたびこの近衛上奏文を初めて読んでみたが、まったくもって驚くべき妄想観念というか・・・・これが一九四四年二月という、戦局の悪化した雰囲気のなかで書かれたのは、支配層がそこまで追い詰められていたからだろうと思うが・・・・その身勝手な発想に唖然とした。
指導者がかくも無慈悲では、国民は救われない。あの戦争の実相だと思う。

必勝を信じて散っていった特攻隊の若者や、いやいや戦地に送られた私の父など、あるいは空襲や原爆の犠牲者、更には侵略戦争の犠牲となった罪もないアジア太平洋の人びとなどの身の上を思うと、堀田が指摘するようにこの上奏文の「こんなにまで真面目で非常識な、真剣で滑稽な文書」(同51ページ)
には、完璧なまでの政治的無責任さがありありと読みとれる。しかもそれは日本の中世貴族のそれとまったく「同質」だという。

「国民一般の、食い物さえがないという苦難などは、明らかに二の次という次第になっている。人民はつねに『日本国は衰えにけり』(増鏡)とか「日本国の有無」(藤原兼光)などと言い出す連中に対しては、長明にならって「疑い侍る」眼をもつべきであろう。」(同53ページ)
この身勝手さは、そのまま戦後もずっと続いてきた日本の権力者たちにもあてはまる貴重な教訓になりそうだ。確かに「疑い侍る」眼を民衆は持つべきだ。

たぶん、敗戦とこれに続く混乱状態の中で、支配層が一番恐れたのはボルシェヴィキ革命でのロマノフ王朝の末路とか、第一次大戦末期のドイツ帝国崩壊などだったのかもしれない。
上奏文にはその恐怖感が表れているのではないだろうか。

清盛による福原遷都の混乱状態をめぐっての描写で、長明がこれを
「世の乱るる瑞相とか聞けるもしるく」
と記した「瑞相」(普通には吉兆のこと)という表現に著者は注目し、強く共感した。

ところが、
「・・・けれども、そういう国民生活の全的崩壊、階級制度の全的崩壊という、いわば平べったい夢想、あるいは平べったい期待というものが、・・・・これまたいかに現実離れをした、甘いものにすぎなかったかということを」(54ページ)

一週間後の三月十八日には、嫌というほど思い知らされるのである。

堀田青年の漠然とした期待に反して、ロマノフ朝の滅亡のような事態がそのまま日本の絶対天皇制の行く末とはならなかったようなのだ。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA