堀田善衞「方丈記私記」(1)      戦中派の「方丈記」

「私が以下に語ろうとしていることは、実を言えば、われわれの古典のひとつである鴨長明『方丈記』の鑑賞でも、また、解釈でもない。それは、私の、経験なのだ。」(ちくま文庫「方丈記私記」1988年 7ページ)
「それは、おそらくは私が鴨長明という人を、別して歴史的人物、歴史上の人物――に違いないものだが――と思っていない、あるいは歴史的人物として扱っていないということをイミするであろう。彼は、要するにいまも私に近く存在している作家である。私はそう思っている。・・・・」(同33ページ)

正直に記すと、堀田善衞という作家については、せいぜい名前程度しか知らなかった。確か、岩波新書で「インドで考えたこと」とかいう作品のある人物だろうという程度の認識だった。
だから少しは読んだのかもしれないが、内容はほとんど記憶に無い。

調べてみると、大正七年生まれということだから、私の父母より少し上の世代にあたる。
いわゆる「戦中派」インテリで、叔父の述懐で言えば
「一番損をした世代。明治生まれが日本をむちゃくちゃにしたから。」
という、大正世代にあたるのだろう。十四年生まれの母も「私達の青春は戦争の犠牲よ」と、よく述べていた。

このたび、方丈記への関心から参考になるだろうと思って読んだ堀田善衛著「方丈記私記」には、なるほどこの世代ならではの時代感覚がよく描かれていた。

「・・・・それは、やはり戦争そのものであり、また戦禍に遭逢してのわれわれ日本人民の処し方、精神的、内面的な処し方についての考察に、何か根源的に資してくれるものがここにある。またその処し方を解き明かすためのよすがとなるものがある、大風、火災、飢え、地震などの災殃の描写が、実に、読む方としては凄然とさせられるほどの的確さをそなえていることに深くうたれるからでもあった。・・・・」(同70ページ)

「・・・・戦時中に、私がはじめたわけでもない戦争によって殺されるかもしれぬことを思うとき、私は、それを思うとき、何度も何度もこれらの歌(鎌倉幕府三代将軍実朝の歌  筆者注)を思い出して口の端にのせたことを告白しなければならないであろう。歴史を捨象する以外に、私には法がなかったのだ。あの戦争をおっぱじめたものは、天皇とそのとりまきであることほどに明らかなことはないであろう。それを人民一般が支持したか否かは別の問題である。そうして、歴史を捨象するとは、自己自らを運命と見做すことであり、おのれ自体を、ニーチェの言う、AMOR FATI運命愛として愛するより他ないということであろう。それが、このAMOR FATIが戦時中においての自己救済の方法であった。おそらく、現在の若者たちからは、そういう自己救済は、汚らしい、と難ぜられるものであろう。しかし、そう言う若者たちもまた、我々の『日本』の業の深さを知りはしないものである。・・・・」(ちくま文庫「方丈記私記」1988年 232ページ)

はじめに読んだときは、まわりくどいなあと思った。ニーチェなどまったくわからない私の眼からは、そのニーチェを持ち出して自己を韜晦するように見えるのが気に食わないが、「歴史を捨象する以外に、私には法がなかった」というのは本当だろうと思う。この世代にとっては「あの戦争をおっぱじめたものは、天皇とそのとりまきであることほどに明らかなことはない」のだが、一方で「人民一般が支持したか否かは別の問題である」として、時代や社会を離脱してあきらめるほかないのはよくわかる。
抽象的な物言いだが「人民一般」にこっそり自分を含んでいるのだろう。そうは具体的に直説しない回りくどさが私には気に障る。マスコミも含め、ほとんどの国民が「侵略戦争」を熱烈に支持したとき、堀田らは消極的に追随するほかなかったのだと思う。

これはたぶん、全共闘世代からの戦中派への戦争責任追求を意識しての弁解ではないだろうか。70年代当時、大学や高等学校の教師には戦中派インテリが残っていた。これに対して軍部や天皇だけに責任を押し付けて涼しい顔をしていることは卑怯だ、インテリも含めお前たち人民一般も熱狂的に(侵略戦争を)支持したのではないか、だから戦争責任は免れない、という糾弾があった。全共闘世代の少し下に位置する私にも、この頃の議論の様子が思い出された。

確かに戦中派世代は気の毒だ。生まれ合わせた時代が日本史上最悪だったかもしれない。東京大空襲で「帝都」が眼前で灰燼に帰したなか、灯火管制下で「方丈記」の世界に閉じこもる。それしか生きる方法もなかった、というのだろう。歴史を「捨象」するなどという難しい言いまわしも鬱陶しいが、要するに「逃避」とは書きたくない、という心理の現れだろうか。

堀田善衞は、凄惨な東京大空襲の当事者として「方丈記」を「経験」する。
「・・・私が以下に語ろうとしていることは、・・・『方丈記』の鑑賞でも、また、解釈でもない。それは、私の、経験なのだ。・・・・」(同7ページ)

方丈記に記された安元3年(西暦1177年)京都の大火と1945年3月の東京大空襲には768年の歴史の開きがある。まったく別の歴史事象だが、堀田善衛のなかでは、イメージが融合してこの私記に結実したのだろう。そうすることでもって、かろうじてこの不幸な時代を生き抜き、言葉を紡いだのだと思う。

「・・・・3月10日の東京大空襲から、同月24日の・・・・短い期間を、私はほとんど集中的に方丈記を読んですごしたものであった・・・・」(同70ページ)
「・・・・そうして、先にしるした安元三年の大火のとき長明は二十五歳であり、治承四年四月の大風と六月の福原遷都は長明二十八歳のときのことである。わたし自身もまた同じような年恰好であった。二十七歳であったのだ。・・・・この頃に硫黄島の軍が全滅していた。・・・・」(同74ページ)

「方丈記私記」は25年前の大空襲を回顧しているのだから1970年前後の作品なのだろう。作者は五十代後半になっていた。

この頃(69年だったと記憶する)、同時代の好対照と見られていたからだろうが、ちょうど三島由紀夫と高橋和巳が総合雑誌「潮」で対談を発表した。私はまだ何もわからない高校生だったが、おおいに注目して読んだ。ちゃんと理解できたわけではないが。

「天皇とそのとりまき」が勝手に起こした愚かな戦争・・・・その不条理さを運命的に背負わされた堀田善衛は、一九四五年三月の東京の廃墟の中で768年も前の「方丈記」を一意専心に読み解く中で「我々の『日本』の業の深さ」に思い至った、というのだ。

どういう意味だろうか。

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