映画「ハンナ・アーレント」   人が考えることを捨てた時(3)

今日残された写真やビデオを見ても、彼女は相当なヘビー・スモーカーだったようだ。映画でもその喫煙場面は存分に演じられている。
昨年、声帯ポリープの切除手術を受ける際に、医師と看護師からさんざん「喫煙の害」を説かれ、40年あまりの喫煙歴にとうとう終止符を打った自分としては、このハンナ・アーレントの「愛煙家」ぶりがとても気になる映画でもあった。

ハンナ・アーレント  

しかし、「喫煙」は猛烈な思考力を発揮する彼女にとって、とても重要な鎮静剤であったかのようなシーンがふんだんに登場する。夫婦とも喫煙家だから、部屋の中はそれこそタバコの匂いが染みついていたことだろう。
映画を見ていて、時代を感じた。

この映画の白眉は、非難轟轟たる渦中でハンナが敢然と行う大学での反論講義だ。

覚悟していたとはいえ、「イエルサレムのアイヒマン」裁判を、ラジカルに批判することは、当代のユダヤ人社会やアメリカではわずかの理解者を除いて、ほとんど皆を相手に孤立無援の戦いを挑むことだった。

ドイツ語なまりの英語の講義を始めるにあたって、ハンナはいつもと違って最初にタバコに火をつける了解を聴衆の学生に乞うた。
緊張感漲る大教室で、この間合いが必要だった。

Perhaps just for today you will allow me to smoke immediately.
<いきなりタバコを吸うことを、今日だけは許してくださいますね>

満席の聴講者のなかには、ハンナに辞職を勧告した大学関係者もいた。
固唾をのんで彼女の言葉を待つ学生たち。意外にも圧倒的に多くの学生は彼女を支持していた。理論だけではない。彼女のキャラが信頼されていたからではないだろうか。

こうして異様なほどの静粛のなか、講義は始まった。

映画「ハンナ・アーレント」大学の講義で反論

When the New Yorker sent me to report on the trial of Adolf Eichmann,
I assumed that a courtroom had only one interest to fulfill the demands of justice.
This was not a simple task, because the court that tried Eichmann was confronted with a crime it could not find in the law books and a criminal whose like was unknown in any court prior to the Nuremberg trials.

But still, the court had to define Eichmann as a man on trial for his deeds.
There was no system on trial, no history, no ism, not even anti-Semitism、but only a person.

ニュルンベルク裁判以前にはない「罪」で裁くというのだが、アルゼンチンの主権を侵害するような捕縛と移送を強行したイスラエルで、しかも「事後法」での裁判だ。

この裁判には「人」を裁く法的根拠も、主義も、反ユダヤすらもない・・・・つまりは正当性のない裁判だったのだという。
これで感情論に火がつかないわけはない。無鉄砲なまでの勇気だと思う。

そもそも編集者は彼女の「全体主義の起源」を高く評価していたからこそ、取材の申し入れを快諾したのだが、ユダヤ人自身の「悪への協力」を指摘する記述にはさすがに気が引けた。しかしハンナはこれは裁判で明らかになった「事実」だと、こともなげに述べる。
裁判の過程で、同胞から激しい非難を受けたユダヤ人リーダーが確かにいた。

ニューヨーカー誌に5回に分けて連載された「イエルサレムのアイヒマン」のキーワードは「悪の凡庸さ」だった。
なぜアイヒマンの行為が「凡庸な悪」に過ぎないのか。

He protested time and again, contrary to the prosecution’s assertions, that he had never done anything out of his own initiative, that he had no intentions whatsoever, good or bad, that he had only obeyed orders.
アイヒマンは「命令に従っただけだ」と頑強に主張する。
ドイツ語を解しない者が実録を見ても、その表情でわかると思うが彼には悔悛の情などまったく認められない。つまり、その言葉にウソはなかった。彼はナチスという組織のなかで忠実に任務を遂行したまでなのだ。
私たちとさほど変わらない、平凡な人物なのだ。

アイヒマン

And it is this phenomenon that I have called the banality of evil.

そして、それこそが「悪の凡庸さ」と彼女が名付ける現象なのだ。

This typical Nazi plea makes it clear that the greatest evil in the world is the evil committed by nobodies evil committed by men without motive, without convictions, without wicked hearts or demonic wills.
By human beings who refuse to be persons.
And it is this phenomenon that I have called the banality of evil.

彼女はさすが哲学徒らしく考える。「凡庸な悪」とは、要するに「ありふれた悪」、すなわち「誰にでもある悪」ということだろう。別にナチズムやアイヒマンに「特化」した悪ではないということ。
ハンナ・アーレントは「アイヒマン裁判」は、「全体主義」を裁くことには少しもならないと主張するのだろう。

「全体主義」システムが生み出す「凡庸な悪」は、組織を構成する人間を思考停止に陥らせることに始まる。それはシステムを構成する人が、自ら人間であること(=業務内容の善悪是非の判断をすること)を放棄するプロセスである。それがあの600万人を虐殺した「絶滅収容所」の本質=「凡庸な悪」であるという。
平凡な小役人がなんら良心の咎めもなく、上からの命令にひたすら忠実に精励する業務とはアイヒマンの場合は「ユダヤ問題の最終解決」。その一端を彼は能吏として淡々と遂行したのだった。

更に、ナチの悪名高い「優生思想」は、ユダヤ人以外にロマ人や障害者をも「生きるに値しない」として抹殺した。人類史上、かつてない人間への犯罪だ。

全体主義・・・アーレントはナチズムとともにスターリニズムも視野に入れている・・・の本質は、人間の思考力を奪い、必然的に人間から価値判断の規準を奪う。つまりは人間であることを自己否定するのだ。そして機械的に「巨悪」を遂行する。
だからあの大量虐殺を現場でになったアイヒマンのような平凡人には確たる動機、信念、悪意がない。それゆえ反省もない。悪に手を染めたという改悛とは程遠いアイヒマンの表情がある。アイヒマンはなぜ自分「だけ」が断罪されるのか、大いに不満であったことだろう。皆がやったことだ。誰でも同じ立場に立てば、同じことをするだろう。

アイヒマンは、イエルサレムの法廷が期待したような「悪魔」ではなかったという。

It is profoundly important to ask these questions, because the role of the Jewish leaders gives the most striking insight into the totality of the moral collapse that the Nazis caused in respectable European society.
And not only in Germany, but in almost all countries.
Not only among the persecutors. But also among the victims.

ユダヤ人リーダーたちの役割を問うことはとても重要な示唆を与えるという。なぜなら全体主義がもたらした「モラル崩壊」を洞察する鍵があるからだ。それは何もナチス・ドイツだけではなくてこの時期 西欧全体に及ぶ「現象」だという。
「迫害する側」も「迫害される側」も等しくモラルハザードに陥るという状況なのだ。だから、絶滅収容所に送られることをうすうす知りながら、ユダヤ人リーダーですら同胞の「殺処分」に協力してしまったのだと指摘する。
この主張は、当時のユダヤ人社会に猛烈な反発の嵐を生んだのだった。加害と被害の両側面を「同等扱い」しているように誤解されかねない。

もちろん、この分析には現在でも反論があるだろう。
ナチスの犯罪性の深刻さと規模を考えれば、誰しも冷静ではいられない。人情として、当然かもしれない。

この時代アイヒマンを捕えたイスラエルのモサド要員のなかにも、身内に深刻な犠牲者がいたのだそうだ。ナチの犯罪を許せるわけがない。
猛然たる反発が起きた。
大虐殺された側と起こした側とのくっきりとした善悪二分法を、まるで無化するかのような視点は「客観性を装った冷酷な態度に過ぎない」と。従ってハンナ・ハーレントは、なんと「虐殺された同胞を侮辱した」のだと。

しかし彼女もまた、ナチの迫害から故国ドイツを逃れ、フランスの抑留収容所から着の身着のまま脱出して、かろうじてアメリカに亡命したユダヤ人であった。

Trying to understand is not the same as forgiveness.

彼女は敢然と反論する。
理解するということは許すことではない。

I never blamed the Jewish people!
言われるような「アイヒマンを擁護してユダヤ人を非難している」のでは決してない、と。
It is the responsibility of anyone who dares to put pen to paper on the subject.

それはこのテーマを敢えて書く者なら誰しも責任があるからだ、と主張している。

私にはこの裁判ついて結論めいた評価を下す能力はないかもしれないが、政治的な意図が隠された「田舎芝居」には断固として組しない、という姿勢には共感できる。

感情に駆られるあまり、政治家の思惑に絡め取られてはならないと思う。
21世紀の今、「民主主義」がまともに機能しない大きな理由は、ますます巧妙化してきた政治家のあざとい「罠」に、我々の「感情」がしばしばはまり易いからではないだろうか。

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