映画「ハンナ・アーレント」       人が考えることを捨てた時(4)

更に白熱の講義は続く。
ここで、ある女子学生が問うた。

The persecution was aimed at the Jews.
Why do you describe Eichmann’s offenses as crimes against humanity?
迫害はユダヤ人を目的としたのに、先生はどうしてアイヒマンが人類に対して犯罪をしたと言われるのでしょうか。

Because Jews are human, the very status the Nazis tried to deny them.
A crime against them is by definition a crime against humanity.
なぜならユダヤ人は人間だからです。ナチはユダヤ人を否定しようとした。それは人類への犯罪と定義できます。

ここでハンナ・アーレントはナチのユダヤ人迫害を、民族差別というよりは人類そのものへの犯罪であると普遍化した。人間の尊厳を犯すものだというのだ。
彼女は「アイヒマン裁判」をシオニズムやナショナリズムという狭い概念から解放したいのだろう。◯◯人である前に「人間」なのだ。
パリでシオニズム運動にかかわっていたころの、敬愛する先輩をイエルサレムで訪れたときも、はっきり明言していた。「特定の民族を愛したことはない。」
情と理を峻別しているのだ。これは、なかなかできそうでできない理知的な態度だと思う。
そして、アイヒマンを捕縛して裁判を主導したイスラエル政府の政治的な思惑とは相容れない。
しかし、「民族性」の縛りは頑強だ。未曽有の大量虐殺を被った直後の民族感情の津波は押し止めようがない。

I am, of course, as you know, a Jew.
And I’ve been attacked for being a self-hating Jew who defends Nazis and scorns her own people.
私はもちろんユダヤ人よ。ご存じのとおり。それで今、ナチを擁護して同胞を侮辱していると攻撃されています。

This is not an argument.
That is a character assassination.
それは議論になっていなくて、「人格攻撃」というものです。

彼女の著作をろくに読みもしないで感情的な非難を投げつけてくる人々は、彼女を中傷しているに過ぎないと真正面から応戦したのだ。
同胞社会での孤立無援も覚悟のうえだ。この状況でまことに思い切った主張を敢行したものだと思う。

I  wrote no defense of Eichmann.
私はアイヒマンを弁護などしていません。

But I did try to reconcile the shocking mediocrity of the man with his staggering deeds.
I see it as my responsibility to understand.
It is the responsibility of anyone who dares to put pen to paper on the subject.

しかし、おどろくほど平凡な男と、なぜあんなとんでもない犯罪がつながるのかを考えてみたのです。理解することが私の責任だと考えます。それは、このテーマを敢えて書こうとするすべての者の責務なのです。

ここで彼女はインテリの社会責任を鋭く指摘した。
どうせ書くなら、信念のある言論を展開すべきだと。これは共感する。吹けば消える煙のような物書きではないのだ、と宣言しているのだと思える。
21世紀ニッポンの貧相な言論空間にもずばり当てはまる指摘だ。

Since Socrates and Plato, we usually call thinking ”to be engaged in that silent dialogue between me and myself.”
In refusing to be a person, Eichmann utterly surrendered that single most defining human quality: that of being able to think.
And consequently, he was no longer capable of making moral judgments.
ソクラテスやプラトン以来、「思考すること」とは、自分との沈黙の対話だとみなしてきました。人間であることを否定したアイヒマンは、そのことによって「考える」という、人間であることを最も定義する能力を放棄したのです。
その結果、もはや道徳判断の能力を失ったのです。

ここでもアーレントは人間の「考える」という特性を、いわば人間という種の「証」と判定しているようだ。この場合の人間の「考える」能力とは、例えば理性とか良心を指すのだろう。それは、彼女が若き日にハイデガーのものとで学んだ哲学的原点なのだろう。
ハイデガーは人間の「考える」という行為を詳細に検討していた。
そして今、目の前にいるアイヒマンは、その人間たる「証」を自ら否定した結果、人間本来のモラルを喪失したのだと厳しく指摘しているのだ。

これは、ホロコーストの被害者意識をもとに感情的な報復を行うことよりも、より本質的なアイヒマン批判を展開したのではないだろうか。アイヒマンは、人間の「考える」という本来的な特性を放棄しているというのだ。「人でなし」という日本語の語感に近い。
確かにこの分析は「アイヒマン擁護」などではない。しかしこの時代、ホロコーストの記憶に圧倒されていた同胞はハンナ・アーレントの言説を冷静には受け止められなかったのだ。

This inability to think created the possibility for many ordinary men to commit evil deeds on a gigantic scale, the like of which one had never seen before.
It is true.
思考できなくなった多くの一般人が、前代未聞の大犯罪を犯す可能性を生んだのです。これが真相なのです。
こうした現象はナチズムだけに限られない。スターリニズム批判にも通じる。かくてして「全体主義」という政治メカニズムの本質的な悪魔性を指摘しているのだ。

全体主義システムは、人がそうした能力を積極的に「放棄」して成り立つ。まさにアイヒマンはその類なのだ。

I have considered these questions in a philosophical way.
The manifestation of the wind of thought is not knowledge, but the ability to tell right from wrong, beautiful from ugly.
これらの問題を哲学的に考察しました。思索の風が表明するのは「知識」ではなくて、善悪や美醜を弁別する能力なのです。

And I hope that thinking gives people the strength to prevent catastrophes in these rare moments when the chips are down.

Thank you.

そして、私はこのような前代未聞の困難な時代にあって、「考える」ことが人々に大惨事を防ぐ強さをもたらすように望みます。

学生たちの拍手が講堂に響いた。こんな名講義なら、私もその時代に生まれて聞いてみたかったと思う。

学生相手の大学での講義なので、ここで彼女が「thinking」と表現しているのは、日本語の「考える」というよりももっと深いニュアンス・・・・例えば「思索する」というような、人間に内在する自省的な精神作用を示唆しているように思われる。「理性」の力を信奉する哲学的な態度があるのだろう。

しかしかつてその「thinking」を講釈した師ハイデガーは、ナチを称賛するという致命的な錯誤を犯した。

映画でも描かれている通り、学生時代の一時期そのハイデガーとハンナ・アーレントは、いわゆる「不倫関係」にあったというのだから話は単純ではない。

一方、ナチの迫害を逃れたアーレントは、師の哲学的な方法を受け継ぎながらも、ナチズムの悪を見抜く「思考力」を宣揚した。ドイツ哲学の最先端の知性を批判的に受け継いでいるのだろう。
だからニューヨーカー誌の編集者は、迫害されたユダヤ人でありながらナチズムを西欧文明の系譜で論じたアーレント(たとえば「全体主義の起源」)が、アイヒマン裁判をどう論じるかに期待したのだった。

アイヒマンは、ナチズムというシステムのいち「機能」になりきって思考停止してしまった結果、自分がいま何をしているのか、人間としての価値判断を放棄した。そして「全体主義」の禍々しさは、アイヒマンのようなごく凡庸な人間が、そのまま未曾有の犯罪行為の主体者に変貌するという、歪んだ構造なのだと彼女は結論した。
これは、「政治ショー」と化したエルサレムの裁判を単純に批判する以上の意味をもつ。

全体主義は加害者ナチスだけではなくて、同時にまた被害者も含めた人間社会全体に「道徳的な崩壊」をもたらすという。

だが、当然のことながらナチスとユダヤ人という善悪二項対立にこだわる同胞社会は冷静に受け止められなかった。故国イスラエルからも出版差し止めの圧力を被った。私自身がユダヤ人であったなら、やはり同じ反応に身を任せた可能性が高いと思う。
なぜなら、日常に追われ「考える」余裕すらないのが偽らざる我々の現実ではないだろうか。
この映画は、そうした想像力をめぐらさないとリアリティーが出ないと思う。ナチズムほど極端ではないにしろ、大なり小なり同じ種類のメカニズムに陥っている自分自身を発見することはないだろうか。

以上は、あくまで映画のシナリオを我流で拙訳し解釈したに過ぎない。
実際にハンナ・アーレントがどう考え発言したか、今後の個人的な勉強の基礎資料にしたい。

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