「思い出のマーニー」(4)        運命の連鎖

新潮文庫版「訳者あとがき」のなかで高見浩氏は、「思い出のマーニー」の誕生過程について、原著者のジョーン・G・ロビンソン(1910年1988年)の実の娘デボラの貴重な証言を紹介している。

「・・・・ロビンソン一家はデボラが少女の頃から、毎年夏になると、まさしくこの物語の舞台である北ノーフォークの海辺の村ですごすのが習わしだった。そこで子供たちは浜辺で流木を拾ったり、砂のダムをつくったりして遊んでいたのだそうです。そして、ある年の夏の夕べ、デボラの母親、つまり本書の作者のジョーンが湿地の小道伝いに村にもどろうとすると、入江の対岸に赤いレンガの壁の家が建っているのが目に入った。その窓辺には一人の少女がすわっていて、長い金髪をだれかにとかしてもらっていたのだそうです。”それがマーニーのはじまりでした”と、デボラは書いています。おそらく、その少女の姿を見た瞬間、ジョーンは本書『思い出のマーニー』の着想を得たのでしょう。・・・・・それから18ヵ月後には、『思い出のマーニー』ができあがっていたとのこと。」(新潮文庫 「思い出のマーニー」358ページ)

「・・・・それと、アンナのキャラクターには、少女時代の母自身の思い出も生かされているのです。少女時代の母も、何かというとつまらなそうな顔をして、自分は外側の人間だといつも思っていたそうですから」(同359ページ)

ジョーン・G・ロビンソン
ジョーン・G・ロビンソン

まさに著者ロビンソン自身がアンナの分身なのだった。

物語は、ほかならぬロビンソン自身のイマジネーションであり、湿地館やマーニーの生き生きとした姿は、作者自身の実体験に根ざしていたからだろう。

「・・・・そのとき、アンナの目に、その館が映った。見た瞬間に、自分が無意識に探していたのはあれなんだ、とアンナは直感した。館は入江に真っ直ぐ面していて、大きく、古めかしく、方形をなしていた。小さな窓がたくさんあって、どれもが色褪せた青い木枠にふちどられていた。こんなにたくさんの窓がこちらを見つめているのだから、だれかに見張られているような気がしたのも、無理はなかったのだ!」(同30ページ)

湿地館

こうした一種の「既視感」(=デジャヴ)※というものは、誰にも大なり小なり経験のあることだと思う。
私自身も、これまでそうした瞬間に襲われたことが何回かある。まったく予告なく、「あ、この瞬間あったなぁ」と懐かしく思われ、次の瞬間に見る場面まで思い浮かんだ通りに展開する、といった不思議な経験。
たいがい、それ以上なにも発展しないのだが、こうした現象の起きる原因はよくわからない。この分野の専門的な研究もあるようだが、人間に特有の認識上の「錯覚」とする説が有力らしい。

しかしロビンソンの着想は発展して名著「思い出のマーニー」に結実した。
作品中で、主人公のアンナは12歳とされているから、1950年代の中ごろ生まれた子だ。まさに私たちの世代ということになる。

そして、アンナのファンタジーに登場した金髪の美しい少女マーニーは、第一次世界大戦前に確かに湿地館に実在していたということが後半で判明する。
原題「When  Marnie  was  there」は直訳すれば「マーニーがいたころ」だろう。

つまり、アンナの意識下の旅は半世紀の時空を遡って、同じ年頃の少女マーニーとの出会いになったのだ。

注意深く読み進めていると、ファンタジーのなかでは同世代の少女であるアンナとマーニーが、実はまったく別の時代に生きた人間であることに気づくだろう。
たとえば、互いを知り合うためにお互いに質問をしあう場面で、アンナがマーニーの服装を訊ねているところ
「・・・・『ああ、このイヴニング・ガウンのことを言ってるのね。で、あなたときたら、可哀そうに、男の子の服を着てるんですもんね!あなたもわたしみたいな服を着てみたい?』
この子、あたしをからかっているんだ、と思って、アンナは何も言わなかった。・・・」(同106ページ)
注意深い読者はアンナがいつもショートパンツ姿で生活していたことを考慮すれば、それが第一次大戦前の女の子であるマーニーの眼には「男の子の服」に見え、そう指摘されたアンナには「この子、あたしをからかっているんだ」と思うやり取りになる理由がよくわかる。
ふたりの生きた時代には、半世紀近い「時差」があるからだ。

こうして、アンナのファンタジーは時空を超えていることが示唆される。

そのマーニーの登場についても印象深い
「・・・・館の背後の空は淡い黄緑色に変わりつつあって、煙突の真上には細い三日月がかかっていた。ボートがさらに近づいていくと、二階の窓の一つに一人の少女の姿が映っているのがはっきり見えた。少女はじっと立って、髪をブラシでとかしてもらっているのがはっきり見えた。・・・・」(同52ページ)
という場面は、娘デボラの証言では母ロビンソン自身が実際に北ノーフォークの浜辺で見た光景なのだった。

髪をとかしてもらう少女
髪をとかしてもらう少女

娘デボラの回想では、
「少女時代の母も、何かというとつまらなそうな顔をして、自分は外側の人間だといつも思っていた」
ということだから、ロビンソン自身がそれ相応に自己形成に苦労した人なのだろうと想像される。その心の成長過程の経験が、アンナとマーニーの生き生きとした「たましいの交流」ファンタジーに発展したことは間違いないだろう。

※追補: なお、いわゆる「既視感」については、吉田兼好の「徒然草」第71段にも同じような趣旨の記述があって、興味深い。
「また、如何なる折ぞ、たゞ今、人の言ふ事も、目に見ゆる物も、我が心の中に、かゝる事のいつぞやありしかと覚えて、いつとは思ひ出でねども、まさしくありし心地のするは、我ばかりかく思ふにや。」
初めて読んだ頃は、なにかと上から目線の教訓話が多いように思え反発した「徒然草」のなかで、わずかに共感した一節なのでよく覚えている。

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