三歳までに両親や祖母などの肉親を次々と失い、孤児となったアンナは施設にいたとき、娘が欲しかったプレストン夫妻に引き取られた。
しかし十二歳になったアンナは養母に馴染まない少女になっていた。それだけでなく、学校でも誰とも交わらず、喘息の発作まであった。やがてその孤独が嵩じて自閉症の気味を呈していた。養母も学校の先生もアンナの将来を心配した。
そこでしばらく転地療法のため、ロンドンを離れノーフォーク地方のリトルオーヴァトンという、自然に恵まれた空気の良い田舎の村に預けられることとなった。
静かな海浜と、素朴で磊落な老ペグ夫妻のもとでの気ままな生活のなかで、次第に内面深く沈潜していったアンナは、白昼夢のようなファンタジーの世界に入り込んでいったようだ。
ある日、アンナは砂浜の対岸にある無人の館、通称「湿地屋敷」を見たとき、なぜか不思議な懐かしさを覚た。このとき、ひとけの無いはずの「湿地屋敷」のほうからも、じっと彼女を見つめているように感じられ、ながいあいだ求めていたイメージにとうとうたどり着いたように思えたのだ。
━━それは「たましいの世界」の始まりだった。
「・・・・たましいの世界は、ふとあるときある人に対して、この世の存在を借りて顕現してくる。」(「<子どもとファンタジー>コレクションⅠ 子どもの本を読む」岩波現代文庫2013年72ページ)
とても詩的な語りだ。
外目にはわからないが、内面を開拓する孤独な苦闘があるのだ。
そして「湿地(しめっち)」が海水で満たされた夜、ボートに乗って屋敷に着いてみると、そこには同じ年頃の金髪の美少女が待っていた。その少女「マーニー」はまるで「旧知の間柄でもあるかのように」アンナを親しく迎えてくれ、それまで孤独に沈んでいたアンナは、初めて心を開いて話しのできる友達を得た。
入江に続く湿地は潮の満ち引きがある。潮が満ちているときには「湿地屋敷」へ小舟で行くことができる。この満潮と干潮を「意識と無意識」の比喩だとする分析もあるようだ。また、アンナは「湿地屋敷」を裏側の方向からしか見ていないことも後半で明らかになる。
まるで妖精のように神出鬼没なマーニーが実在の人間なのか、自分の空想が作った幻なのか、ときに不審に思うこともあったが、アンナは次第にその生き生きとした生命感に惹かれてゆく。
一緒にボートを漕いだり、砂丘や草原で遊び、茸取りをしたりして楽しい時を過した。互いのつながりを「二人だけの秘密」にして、信頼を深めることができた。
ここに「秘密」であることも、ファンタジーの大事な要素のようだ。
やがてアンナは、幼い自分を残して先に死んでしまった両親や祖母を激しく恨む気持ちや、
お互いへの理解が深まるにつれて、ある時点から二人の心理的な位置は反転し、今度はアンナがマーニーのおかれた気の毒な事情を聞くようになった。
大きなお屋敷に住み、誕生日にボートを買い与えられ、婆やメイドに身の回りの世話される裕福に恵まれた子女だとばかり思っていたマーニーが、おしゃまな強がりを見せてはいるものの、その
こうしたアンナの癒し、共感、羨望、愛情、献身などの情動が、それまでの彼女の冷え固まった心を温め、溶かし、豊かな感情への発露を開いたのだろう。
それが心の蘇生過程なのだと思われる。
しかし、アンナの姿を傍目から見ると、それは不気味な独り言や不可解な行動に映ることが示唆されている。(これは、映画「穢れなき悪戯」の少年主人公マルセリーノのファンタジーを連想させる。)
だから、サンドラという近所の子はアンナが近寄るのを見て
「・・・変な子! 変な子! 」
と叫んだ。
「あの子は変だって、うちの母さんが言ってるもん。ぶつぶつひとりごとを言ってんだってさ、海岸で。・・・・・気が変になったみたいに駆けてきて、本当にぶきみだったっておばちゃんが言ってたもん」(新潮文庫 「思い出のマーニー」156ページ)
私たちはしばしば、電車の車中や往来でこうした独り言をつぶやく人物に出あうことがある。傍目から見ると自分の世界に完全に嵌っている様子だ。「変な人」を私たちは見てみぬふりもする。
また、中学校の頃、深夜に夢遊病者のように戸外を彷徨してしまう、といった症例を持つ同級生もいた。本人はまったく無自覚なのだ。あるいは高校生のころ、今ここにいない他人の声がありありと聞こえると真顔で告白する友達もいた。
たぶん、このときのアンナの精神状態も同じような状況なのだろう。しかし、それはアンナの場合、病からの回復過程だったようだ。いわば「心の自然治癒」が働いたのだろう。
こうしたアンナの心理状態は河合隼雄氏の説明によると
「・・・・心の傷はしばしばたましいの国への通路となるし、それが開くときの激情はとらえ難い怒りとして体験されることが多い。・・・・・たましいの国との接触により、空白であったアンナの心も活動をはじめ、そこは考えや感情によって満たれてきたのである。・・・・・アンナとたましいの接触は、その後ももっと続けられねばならなかった。それは実に危険極まりないことであったが。」(「<子どもとファンタジー>コレクションⅠ 子どもの本を読む」岩波現代文庫2013年74ページ)
河合氏は自らの臨床経験をもとに
「・・・・私はこれを読みつつ、私の前でまったく同じ怒りをぶちまけた人たちのことを思い起こし、胸があつくなるのを感じた。」(同76ページ)
と記している。
外の世界との深い断絶のなかで、内界に閉じ込められ鬱積した感情の嵐が、マグマのように噴出するということなのだろうか。意識下に蓄積され抑えつけられていた心的エネルギーの激しい流出を伺わせる。
確かにアンナの症例と、河合氏の実際の臨床例との類似性は偶然ではないだろう。著者は英国人のジョーン・G・ロビンソンだが、彼女自身がそうした経験を経た人なのかもしれない。人種・民族・文化の違いを超えて、人間の心奥一般に普遍的に存在する「たましいの世界」を指摘しているのではないだろうか。
マーニーを得て心癒されるアンナが、今度はマーニーの境遇に同情する変化についても、
「・・・・アンナはそして、『なんておかしいんでしょう。まるで、あたしたち、いれかわっているみたい』と、面白い事実に気づくのである。
このような反転現象は心理学的に注目すべきことである。このことは、アンナがマーニーという存在を相当自分のなかに取り込んだことを意味している。アンナとマーニーという二人の人物によって表されていたものが、アンナという一人の人間のなかに統合されてきたのだ。ということはすなわち、アンナとマーニーの別れの近いことを意味していた。たましいの国から来たマーニーは、そろそろその役割を終えて、あちらに引き上げねばならない。と言っても、そのためには未だ相当の感情の体験が、アンナにとって必要であった。」(「<子どもとファンタジー>コレクションⅠ 子どもの本を読む」岩波現代文庫2013年 78ページ)
という分析はとても興味深い。
このファンタジーをたっぷり味わうことを通して、アンナが心の再統合を果たし、癒されていくことに深い意味があったのだろう。これは別の表現をすると、「蘇生」ということなのだろう。しかし、そこにはとても際どい危険性もある。専門的なカウンセリングが必要な場合も多いのだろうと想像される。
アンナの場合は静謐な自然環境やペグ夫妻の手厚い保護が、幸運にもちょうどよい具合に配置されていたのだといえる。
さらに驚くべきことには、ファンタジーのなかでアンナの家系に連綿と流れる不思議な「運命の糸」が開示されゆくのだが、そこがとても感銘深い。
「思い出のマーニー」が読者の心を揺さぶるのは、後半で明かされる、その謎解きにもあると思える。