「思い出のマーニー」(3)        アンナの問題

河合隼雄氏によると、学校現場では
「・・・・むしろ目立たない、一見『大人しい』とさえ見える子の問題に気づかないものだが、このような子どもの方が問題は深いことが多いのである。」(岩波現代文庫 「子どもとファンタジーコレクションⅠ 66ページ」)という。
それでは、現場の教師ですら気づきにくいという、アンナのような子どもの「深い問題」とはいったいなんだろうか。

養い親であるプレストン夫人は、アンナにもっと普通の子と仲良くして欲しいと切に願っているのだが、学校のともだちはアンナから見て、
「・・・・そういう連中はみんな”内側”の人間、何か目に見えない魔法の輪の内側にいる人間なのだから。その点、アンナ自身は、”外側”にいる人間だから、そういうことはすべて自分とは無関係なのだった。」(新潮文庫「思い出のマーニー」9ページ)
となる。ぼーっとしているようでも、本当はちゃんとした自意識があり、様々な理由があって自分の世界(=殻)に沈潜している。しかし、よそめには子どもらしい活発さに欠けるとみられがちなのだ。
こういう子は、たぶん教室でもまるで「影」のように存在が薄いし、とっつきにくい。
友だちもできにくいのだろう。

窓外を眺めるアンナ

困ったことに、アンナは外の世界を「何か目に見えない魔法の輪の内側」と感じている・・・つまり異次元な世界だと感じているのだろうと思う。それは逆に言えば、強い疎外感を抱いていると言ってもよいのだろう。
それゆえに、自分を「”外側”にいる人間」だと感じているアンナに、誰がどう「常識的な」アプローチを試みてもその工夫自体がそもそも「何か目に見えない魔法の輪の内側」からの試みだから彼女の心には届かない。何も自分の心には響かないのだ。深い断然があるのだろう。
こんな子は、どうしたらいいのだろうか。

養い親のプレストン夫人もアンナにとっては”内側”の人間のひとりに過ぎないが、心から自分を心配してくれていることは百も承知だ。だが、敢て言えばそれは「お節介」というものなのだ。だからアンナの「たましい」には何も響いてこないのだ。むしろ放任しておいて欲しい。
「・・・・そんなのはどうでもいいことだった。プレストン夫人には理解してもらえないだろうけど、アンナははっきりとわかっていたのだ。」(同)
よそめには反応の鈍いアンナだが、決して意思薄弱なのではない。むしろ逆で、自分の置かれている客観状況を正確に把握しているのだ。

しかしアンナは学校の先生からも「何事も頑張ろうともしない」と評価され(先生も『何か目に見えない魔法の輪の内側』の人なのだろう)、それは通知表にも記されていて、プレストン夫人を大いに悩ますのだが、自分自身ではまったく「心配していない」。
それらはすべて魔法の輪の「内側」のことに過ぎないのだから。
ここで「魔法」と表現していることに注目したい。「魔法の世界」は現実の世界ではないから、アンナは違う次元の現実に生きていることになる。これは大変なことだと思う。私たちの日常がアンナにとっては「非現実の世界」なのだ。

ぜんそくの発作を診てくれたブラウン先生の問いかけにも
「心配なんかしていません。あの人(ブラウン夫人)なんです。心配しているのは」と、「つまらなさそうな」顔をして応えている。これではまったく取り付く島もない。

しかし、アンナ自身にも自分の状態からの脱出口が見えているのではない。むしろ自分を持て余しているのだ。
だから「このところアンナは、一日の大部分を何も考えずにすごしてい」(同8ページ)る状態なのだ。しかし、すべてを放棄しているわけでもない。無意識に何かを探索しているのだろう。ここで思わず「無意識」と記したが、まさにアンナはその世界への扉に立っているだろうと思われる。

これはもはや、たんに愛情不足が原因で「いじけ」ているというようなレベルではない。

アンナが「つまらなさそうな」表情を浮かべるのは、アンナの心を理解できない「輪の内側」の人たちからの不用意な接近に、反応のしようがなかったからのだろう。

現実世界との共感性を喪失した孤立感に陥っているというほかない。十二歳の子どもがこんなに深い孤独にはまるとは、どういうことだろうか。
彼女は存在のもっと深い次元で・・・・・つまり「たましい」の次元で、大きな「欠損」を感じているのだろう。しかし、それは繰り返しになるが
「誰か他人の力によって『やる気』が起こるような、そん甘い話ではないのである。・・・・・可哀想なアンナに対して、われわれはいったい何ができるのだろう。このような子はどうして癒されてゆくのだろうか。これは簡単に答えられるものではない。」(岩波現代文庫 「子どもとファンタジーコレクションⅠ67ページ」)

こうして外界との交感を失ったぶんだけ、アンナはおのずと内面に沈潜し、やがて心の底・・・・・無意識の領域にまで沈潜してゆく。それは言い換えると日常の現実感を離れた「たましい」の世界へ入っていくことであって、その次元がアンナ自身のファンタジーなのだろう。そこで、マーニーとの運命的な出会いがあったと思われる。
だから、アンナの「問題」はマーニーと出逢うための大切な伏線でもあった。あとから考えてみると、これは「たましいの世界」とのまことに劇的な出会いというほかない。

リトル・オーヴァートンの海浜の自然と、アンナの内面に過剰に立ち入らないペグ老夫妻の暖かい見守りという好条件に、アンナは恵まれた。
ここではからずも現実と幻想(アンナにとっての現実)との往復交感を心深く満喫することができたのだ。それはアンナ自身の内奥への歩み・・・・生死の淵を臨む危険な体験でもあった。

しかもそれは、それまでにない生き生きとしたリアリティーをアンナの内面に呼び起こした。そして現実世界で疎外され凍てついたアンナの心を、根底から温め、熱く突き動かし揺さぶった。その過程の、血の通った喜怒哀楽の感情の起伏が、アンナ自身に見事な「蘇生」をもたらしたのだ。
これはたんなる「夢想」や「空想」ではなくて、いわば心身統一的な次元での「体験」とでも表現せざるを得ない出来事なのだろう。

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言い換えると、問題の所在は精神の深い部分にあるので、その「癒し」はいわば存在次元のドラマとして立ち現れるたのだろうと思われる。素人の想像かもしれないが、多くの臨床現場のなかには、そうしたファンタジーが顕現することがあるのではないだろうか。あるいは、ファンタジーが存在を語るにふさわしい表現形態なのだろう。神話や昔話の類が永く人々の心を深い部分でつかんで離さないのも、同じ理由なのかもしれない。
そこには荒唐無稽な「幻想」と切って捨てられない、ある種生々しいリアリティーがある。それは後述するように、アンナとマーニーの間でしか生起し得ない「運命」のストーリーだったからではないだろうか。物語は、情動を揺り動かす。つまり、温かい血が通うのだ。
冷淡で分別くさい解釈などでは遠く及ばないダイナミズムがあって、いわば「たましいの世界のドラマ」が可能なのだ。

この物語の強い魅力は、おそらくアンナと同世代と思われる謎の美少女・マーニーの実に生き生きとした「存在感」だと思う。

河合隼雄氏が
「われわれは、人間の心と体を結び合わせ、人間を一個のトータルな存在たらしめている第三の領域━━それをたましいと呼びたいと思うが━━の存在を考えざるを得ない。」と述べていることは、とても意味深長な指摘なのだと思う。

河合氏はたぶん、豊かな臨床経験を基礎に述べているのだと思う。字面だけを追っても完全には把握できない、ある種のリアリティーを前提にしているのだろう。
だからとても説得力がある。ゆえに、この場合「たましい」とは決して血の通わない抽象的な概念ではないだろう。ましてや通俗的な「お化け」の世界でもない。

そう表現せざるを得ない次元の世界が、確かにあるのだと言われているのだろうと思う。
これは21世紀に入った人間にとって、とても切実なテーマだと思う。内面の矛盾や葛藤に苦しむ我々にとっては、大きな示唆となるのではないだろうか。

科学技術の大発展にもかかわらず、むしろそれゆえに、人間自身の切実な問題がほとんど未解決で、置き去りな21世紀なのだから。

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