アンナは、ロンドンで養い親のプレストン夫妻と生活する12歳の少女。
アンナが幼いときに不幸にも両親は事故死してしまった。自分を引き取ってくれた祖母もほどなくして亡くなり、アンナはひとりになってしまったのだった。
しばらく孤児院にいたアンナは、自分を引き取ってくれたプレストン夫妻をすでに「他人」と区別できる年頃に達していたのだろう。
プレストン夫妻が愛情を込めて養育してくれていることをアンナはよくわかっているのだが、そこにある種の取ってつけたような不自然さをも感じていたのだろう。
アンナはいつもぎこちない態度で、素直な感情表現のできない少女になっていた。やがて思春期を目前に控えたアンナに、プレストン婦人は尚更気を使わざるを得なくなる。悪循環の始まりだ。

そこに持ってきて、ある日アンナは役所からプレストン家に届いた「通知書」を偶然読んでしまい、夫妻とアンナの間にある「秘密」を知ってしまった。それは、孤児アンナを育てるため定期的に支払われている「公的な補助費」の知らせだった。
その「秘密」をプレストン夫人が自分に正直に話してくれればいいと思って、なんとか告白してもらえるようにアンナなりの工夫をするのだが、その機会がなかなか訪れないまま、ますますプレストン夫妻との「心の溝」は拡がってゆく。
アンナは誰に対しても感情表現の乏しい「普通の顔」に閉じこもり、学校でも「なにごともやってみようとしない」・・・・つまり子どもらしい溌剌さに欠ける暗い表情の孤立した生徒になってしまった。
悪いことに喘息の発作も出るようになった。

ここで養い親のプレストン夫妻とアンナの間にある「心の溝」とは、想像するに、アンナ自身に芽生えた「人間不信」ともいうべき感情なのだろう。
子どもが育つ環境には、親の無償の愛情が死活的に重要な要素であることは言うまでもない。
この世で出会った最初の人間が自分にとってまったく「安心・安全」な保護的存在であるということは、子どもの自己形成には必須条件なのだろうと思う。
しかし不幸にして様々な原因で、その条件の欠けた発育環境にあった人は、往々にして人間への信頼感を育てることに人並み以上の苦労するのだろうと思われる。それはまた、子どもの心に重大な障害となって現れる場合もあるようだ。そんな子どもが、どう癒されるかが臨床心理の専門家である河合隼雄氏の強い問題意識であり、アンナの内面に立ち現れたファンタジーには見事にその回復過程が描かれているのだという。
つまり、アンナの症状はいわゆる「心理療法」の一典型なのだろう。
小説のなかではアンナに与えられた「処置」は、学校を休んでプレンストン夫妻の古い友人である「老ペグ夫妻」の住む海辺の魚村━━リトル・オーバートン━━で気ままに生活することだった。いわゆる「転地療法」なのだろう。リトル・オーヴァートンの海浜の自然と、必要以上にアンナに介入して来ない老ペグ夫妻の保護は、好都合にもその条件を満たしていた。
そこで、アンナにはとても興味深いファンタジーの世界が立ち現れる。

普通の子どもと違って孤独で自閉的なアンナは、この環境条件のなかで自らの世界にますます深く沈潜していったからだと思われる。
私事で恐縮だが、アンナとはまったく異なった生い立ちの私だが、「思い出のマーニー」を読んでいて、やはり自分の子どもの頃の、ある出来事をありありと思い出した。
昭和30年代の中ごろ、たぶん7、8歳のころだったと思うが、渋谷の東急百貨店で父におもちゃの電機機関車を買ってもらったことがある。
値段は3000円だったと記憶しているから、父も思い切って奮発してくれたのだろう。
八の字型の線路にフラットフォームが付いていて、電車が通ると信号機が点滅したり、スピードを調整するスイッチもあった。私はこのおもちゃに夢中になったのだろうと思う。プラットフォームは二つだったので、特急電車は1番線、他の電車は2番線と自分で決めて遊んでいた。私は複雑な「時刻表」を作ることが大好きだった。
そしてその列車ごとの「位階秩序」感覚は私にはとても大事なことだったので、現実世界との区別が曖昧になったのだと思う。そのために、ある出来事に発展したのだ。
ここからが私の「ファンタジー」の世界だ。
当時、自宅は世田谷区の等々力にあって田園都市線の九品仏と自由が丘からいずれも15分ほど歩いたところにあった。私の秘かな遊びの一つは「ほんものの電車」に乗ることだった。
九品仏から溝の口、或いは自由が丘から渋谷までの東急電鉄の往復路はひとりで何回も乗った。友達と一緒に乗ったこともある。

ある時、思い切って遠出をしてみた。
九品仏から田園都市線終点の大井町までたどりついたとき、東海道線(あるいは京浜東北線)に乗り換えて横浜方面まで行ってしまったのだろう。やがて東神奈川という駅で降りて復路の電車に乗り換えて大井町に帰ろうとしたときだった。
確か品川方面行きのプラットフォームには線路が二つあった。そして私は躊躇することなく「若い番号」のほうのプラットフォームに到着した電車に乗ったのだ。
その理由は、自分のおもちゃの電車の世界では、「若い番号」のプラットフォームのほうに特急とか「上級」の速い電車が到着するからだった。
出発してまもなく、東神奈川に来るときのレールから左方面に分かれて自分の乗っている電車が進行していくのが確認された。現実とファンタジーの区別が曖昧だったことが想定外の展開に繋がったが、私はこれにいちはやく気づいた。つまり、今から考えると八王子方面に向ってしまったのだろう。
しかし、私はなぜかそのまま電車に乗り続けた。やがて途中から窓外には見たことのない山まで見えるようになった。それでものんき者の私は慌てなかったと思う。むしろ、景色を見飽きたら今度は電車が止まっている間にプラットフォームと列車乗降口の間の落差をぴょんぴょん飛んだりして遊んだ。
車掌さんも、どこかの子どもだろうと私を眺めていたのを思い出す。この頃はのんびりしたものだった。
そうしてかなり長い時間が経たのだろうが、とうとう終点八王子駅に着いてしまった。
昭和30年代中ごろの八王子駅は古い木造の作りで、こどもの私にもひなびた「田舎駅」にみえた。プラットフォームから改札まで木造の屋根のついた通路だった。
私は何を考えていたのだろうか。
よく憶えていないがたぶん、伯父が立川に住んでいることを知っていたので、そっちにでもいこうかと考えたのだろうか。そのまま切符を出して改札を出ようとしたところで捕まった。
改札係のおじさんに問われて、正直にこれまでの経過を話したところ、幸い補導されることはなく、乗ってきた電車でもういちど東神奈川に帰るように言われたのだった。おじさんは切符を見ながら「仕方ないなぁ」という風情で舌打ちしたように思う。
東神奈川経由で大井町に着いたときには、もう日がとっぷり暮れていた。
プラットフォームの通勤客に紛れて待っていたときの、東急電車が入ってくる風景を鮮明に憶えている。黄昏時の暗夜の中、先頭車両のライトがまばゆいばかり強烈な光を放って入線してきた。うら侘しい情趣が胸に迫ってきた。後年、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」を読んで、あの光景をありありと思い出した。
やっと自宅に着くと、洗濯をしていた母から「遅かったねぇ、どこに行ってたの?」と尋ねられたのだが、たぶん私は曖昧な返事しかしないでその場をやり過ごしたのだと思う。帰りが遅いので心配かけたのだろう。
なぜ説明しなかったかというと、自分の行動をうまく言葉にして話せないからだ。これはすべて「子ども」に共通だろうと思う。
大人はすべて「現実」という世界にどっぷり漬かって忙しく生きている。子どもの自分は現実とファンタジーの境界線が曖昧なのだ。それに大人になるということは、ファンタジーなど見なくなることなのだろう。
母は先年亡くなったから、考えてみれば、とうとうあの真相は語らずじまいだったことになる。私はいわゆる「放浪癖」とファンタジーには、深い部分でつながりがあると思う。
アンナのような症例ではなかったが、確かに大人には説明しがたいファンタジーの世界を子どもは持っているものだと思い出した。
そしてアンナの場合には、私などよりもはるかに深く自己の存在に根ざしたファンタジーが顕現したことが凄いのだと思う。
そう考えると、病が深いことを嘆くのも一面的に過ぎるのかもしれない。
アンナの心に立ち上がった不思議なファンタジーは彼女を含めた三世代の親子の、いわば「宿命」にも到達していることがなんとも素晴らしい。いま目の前にある、「この世の現実」ばかりがすべてではないのかもしれない、と感じさせられる。そういう「多層的」(河合氏の言葉)な世界を見る能力を、大人になるために私たちはさっぱりと喪失してしまうのではないだろうか。
子どもの心に生じたファンタジーが、大人のわれわれにも深い感銘を与える理由があると思う。むしろ、貧相でつまらない現実に閉じ込められているぶん、大人でも睡眠中にしっかりファンタジーに興じているのかもしれない。