映画「ヨーク軍曹」 Sergeant York(2) ・・・・命の尊さ

聖書を固く信じるヨークは、神が殺人を禁じているので兵役免除を申請するが却下された。しかしパイル牧師から徴兵拒否が法に触れることになると説得され、やむなく召集に応じた。
ヨークは、家族に「必ず戻る」と言って出征したのだった。

ヨーク親子
ヨーク親子

 

テネシーしか知らない母メアリーにとっても、戦争ははるか海のかなた、行ったこともないヨーロッパの出来事だ。兵役に赴く息子を見送りながらも、何のための戦争なのか、なぜ息子が往かねばならばいのか、まったく理解できない様子だ。当然だろう。

ジョージア州のキャンプでの訓練生活が始まった。
各地から集まった同世代の若者たちとの間にも、兵舎生活で友情が結ばれてゆく。ヨークにとってはニューヨークの地下鉄すら初めて聞く話しだった。兵役免除を考えた「前科」があるので上官から内々に監視されているが、やがて皆とともに銃を与えられる。

ところが、実弾訓練で飛びぬけた射撃の腕前を持っていることが判明、それが却ってヨークを深刻な矛盾に衝突させる。
少佐がヨークを伍長に昇進させ、兵隊の射撃訓練を指導するように命令したのだ。しかしヨークは躊躇する。

兵役拒否の「前科」があることを知って、少佐と副官の大尉は、宗教上の問題があるのだろうと糺した。そこで大尉が聖書を引用してヨークを説得しようとしたが、むしろヨークのほうが聖書に詳しくて、たちまち反論されてしまう。
これを見た少佐は、手を変えて歴史書を見せながら「自由」のために命を犠牲にすることもあるのだと話す。リンカーンの「人民のための人民による人民の政府」という言葉を引用しているところが印象深い。
少佐はアメリカ建国の理念をヨークに諭し、再考を促すため10日の休暇を与えた。答えが出ない場合は兵役を免除すると言う。

ヨークは、軍隊に留まるか聖書に従って兵役免除を願うか深刻な帰路に立たされ、煩悶する。

大部分の日本人にとっては、見過ごされがちだが、キリスト教国にとってはとても重要なテーマなのだろう。戦争を正当化するだけの野蛮な国家主義ではないことが素晴らしい。

ヨーク軍曹は迷う
煩悶するヨーク

故郷に帰り、聖書を片手に食事もせずに考えに考えたヨークは、ついに「皇帝のものは皇帝へ、神のものは神へ」
「Render unto Caesar the things that are Caesar’s」
And he said unto them, Render therefore unto Caesar the things which be Caesar’s, and unto God the things which be God’s.
(『マタイによる福音書』22章21節)

という言葉にたどりつく。
この言葉の歴史的背景はとても難しい。古代ローマ時代のパレスチナにおける政治的社会的背景を考慮しないと、正確な理解はできないようだ。いずれにせよ、神を選ぶか、国か選ぶか、という設問にはヨークなりに結論が出たのだろう。こういう自己決定の仕方があるのだ感心した。
我見ではなくて、聖書に基づいているわけだ。つまり、信仰を優先したわけだ。

そして軍隊に戻ることを決めたが、「殺すな」という神の教えには逆らうことが出来ない、と率直に告白した。しかし少佐はこれを受け入れ、ヨークを信じて伍長に昇格させた。このはからいかたも、なかなか洗練されている。帝国陸海軍なんかより、はるかに狡猾とも言える。
最終的には、この少佐の判断が正しかったことになる。

ヨーロッパ西部戦線の最終局面に派遣されたヨークの部隊は、アルゴンヌの激戦地に投入された。この戦闘シーンはなかなかスリルと迫力があって見ごたえがある。陣地から機関銃を撃ってくるドイツ軍を少数の米軍が勇敢に打ち破るところだが、どこかで見たような場面展開だなと考えると、それは後年のテレビドラマ「コンバット」を想起するのだ。子どもの頃、よくテレビに噛り付いて見たものだ。
むしろ、60年代の「コンバット」が「ヨーク軍曹」をお手本にしたのかもしれない。
つまりは「西部劇」の延長線上なのだろうと思う。
相手が先住民ではなくて、近代的な戦闘訓練を施されたドイツ軍であるだけだ。

ヨーク軍曹2

ここで大事なポイントは、激しい白兵戦のなかでヨークがかけがいのない戦友が次々に命を落としてゆく姿を目の当りにするところ。
結局これがヨークの戦闘意欲を促し、持ち前の勇敢さと銃の腕前で空前の大活躍を果たすこととなるのだ。
この動機付けは、高橋和巳「邪宗門」に描かれた、陸軍曹長貝原洋一の「物語」とよく似ている。
貝原も殺人を禁じた「ひのもと救霊会」の長老の息子だったが、戦友の無残な姿が貝原を一人前の「戦士」に仕立て上げた。しかも貝原の場合は「非国民」の教団出身であったために、徴兵を早められた形跡もあった。
つまり問答無用の「戦場」という圧倒的な現実が、信仰や信条を吹き飛ばしてしまうのだろう。

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一躍英雄に

赫々たる武勲をあげたヨークに、少佐は試しにひとつ質問した。「なぜ戦ったのか」と。ヨークがあれほど聖書の教えに忠実であったことを知っているからだ。

それに対し、ヨークは戦友が「これ以上殺されないためには、自分が戦うしかなかった」と実直に応えている。いったん非情な軍事システムに組み込まれ戦場に出たら、もう後戻りなどできない。
日本軍でも、地方の貧しい農民出身者の兵隊のほうが、いざ戦場の修羅場では勇敢で強かったと聞いたことがある。

戦闘
戦闘

しかし、何かおかしい、と疑うのが21世紀の「常識」だろう。
むしろ、「徴兵義務」それ自体が国家による「暴挙」なのではないだろうか。殺人を国家が正当化するなどという野蛮な時代を、早く終わらせるべきだろう。

一躍、華々しい英雄として故国に迎えられたヨーク軍曹。どこも訪れるところで大歓迎を受ける。
ここで、ヨークを迎えるテネシー州選出の下院議員、コーデル・ハルが登場することが面白い。彼は後年、国務長官として日本を開戦に追い込んだ有名な「ハル・ノート」の本人。

Cordell Hull
Cordell Hull

しかし、ヨークは名声に自分を見失うような人間ではなかった。
ここはとても大事な点だと思うが、やはりヨークには神の「殺すな」という教えが生きているからなのだろう。

フルシチョフが指摘したように、二度の大戦で儲けた者がアメリカにいなかったとはいえない現実があった。

ヨークの名声を金儲けに利用しようと蠢いた者もいたことがちゃんと描かれている。当時の金で25万ドルもの稼ぎになるという事実は見逃せない。貧しい農民だったヨークが、本当に喉から手が出るほど欲しかった故郷の土地が買える。
しかし彼はそうした誘惑には、やはり乗らなかった。
戦功を理由にカネを稼ぐことはできない。「生きて還られなかった戦友に顔向けが出来ない」からだ。

ヨークは素朴なテネシー農民に戻り、故郷で汗水働いて土地を購入して、グレイシーと結婚しようと決意していた。ところが、テネシー州が事情を知ってすでに土地と家を提供すべく準備していた・・・・というハッピー・エンド。

ジョーン・レスリー

そして「神のなさることはわからない」という喜びと感謝の言葉が締めくくりなのでほっとするのだが、率直に言って何か不完全感が残る。
「殺すな」という神の命令に、正面から向き合ったようには思えないのだ。

突き話した分析をすると、国家が勝手に起した戦争という「状況」に翻弄されただけ、と言えなくもない。
実在したアルヴィン・ヨークがどう考えたか知りたいところだが、これで映画は当時のアメリカ人に、参戦への一定の説得力を発揮したのだろう。

ひとつ印象深く思ったことは、「神が与えた命」だから、それを奪う殺人行為が禁じられているのだということ。
それは、神が与えたから「尊い」のであって、生命が「無条件に尊い」というわけにはいかないのだろうか。

ここは評価が難しい。

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