飛鳥訪問(2)  高松塚古墳「壁画の検出」

橿原神宮前駅からレンタサイクルで東のかた、奈良文化財研究所飛鳥資料館に向う。
途中で豊浦宮跡、小墾田の宮跡、甘樫の丘、雷丘などという万葉調の地名と景色を楽しみながら30分も走るとたどり着く。

「豊浦の宮」に日本初の女性天皇である推古天皇が即位した(西暦592年)ことをもって「飛鳥時代」の始まりとするのが通説。翌年に聖徳太子が摂政に就任したという。その宮の跡地は現在、明日香村豊浦の向原寺およびその近隣の地下に眠っているらしい。

向源寺
現在の向源寺

 

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向源寺にある豊浦寺址の標

近くに飛鳥川が流れる。日本のどこにでもありそうな平凡な川。どうやら、この清流が飛鳥京にとって揺籃の基盤だったらしい。

飛鳥川
飛鳥川

 

飛鳥資料館
奈良文化財飛鳥資料館

この資料館は、飛鳥時代の文化をまとめて鑑賞できる施設だ。様々な遺跡遺物資料に巡り合える。私などは日本人でありながら、初めて観るものばかりだ。
なかでも、高松塚古墳の発掘作業を物語化したビデオには、当事者たちの生き生きとした臨場感が反映されていて、とても面白かった。

そこで、思いきって南のかた高松塚までサイクリングしてみた。これにも30分くらい。意外に「飛鳥」は狭い。

実際の高松塚古墳は、想像していたよりもはるかに小振りな円墳 (直径18メートル、墳高5メートル)だった。1972年春に発掘された極彩色の壁画は余りにも有名だ。

このニュースは、一気に「古代史ブーム」「飛鳥ブーム」を巻き起こした。

高松塚4
近くにレプリカを展示した「高松塚壁画館」がある。
その説明文によると、「館内には、壁画の検出当時の現状模写、一部復元模写、再現模造模写、墳丘の築造状態、棺を納めていた石槨の原寸模型、副葬されていた太刀飾金具、木棺金具、海獣葡萄鏡などのレプリカを展示し、高松塚古墳の全貌をわかりやすく再現。」とある。

ここで「検出」という言葉が何気なく使われているので、不思議に思っていろいろ読み漁ってみたら、これは大事なキーワードであることが判明した。
1995年読売新聞社刊「日本の古代遺跡を掘る6 高松塚古墳」が大いに参考になった。発掘後23年めの出版。

前半は、発掘にあたった森岡秀人氏(当時、関西大学の学生で「メモ魔」というあだ名があった)の詳細な大学ノートがもとになっている、当事者ならではのドキュメンタリータッチは読み応えがある。先の「飛鳥資料館」のビデオのもとになっているのだろう。

同著97~98ページにはこうある。

「・・・・思いもかけないブームには、正直驚かされたものの、調査に携わった者は、高松塚をあくまで学術的見地から、冷静に客観的にみることに変わりはなかった。
末永先生も網干先生も当初から極彩色壁画発掘の成果を『発見』とは述べず、『検出』という言葉で終始説明した。いやむしろ『発見』という用語を極力排除しようとした。
考古学をやっている者にとって、『発見』とはみだりに用いられるべき語ではない。真正なその技術をもってすれば、だれでもそれを確認できる性質のものであり、物理や化学の自然科学界で注目を浴びる法則や原理の『発見』とはまったく別のもの、という意味らしかった。
末永雅雄先生からは、・・・・・・当事者が遺物・遺跡を独占するごとき『発見』という文字は使うな、と諭されたことを、私はいまも肝に銘じている。『発見』なる文字はつねに個人につきまとう。発掘調査の成果は、多くの人々の共同作業の産物であり、集団による的確な分担と協力がつねにものをいう。底辺で作業したものをいつも大切にせよ、ということだった。
『発見』は特定人物の功名心をあおる言葉であり、その使用は厳に慎むべきであると教えられた。万人が確認できる化学反応の物質の検出と同義な事象であり、高松塚壁画は『発見』にあらずして、あくまで『検出』なのである。・・・・」

なるほど、そういう意味が込められていたのか、と我ながら「発見」した。
そして、この発掘作業全体の相談役ともいうべき立場にあった末永雅雄氏(橿原考古学研究所初代所長。関西大学名誉教授 1897年明治30年)  1991年平成3年))の卓見が、高松塚古墳を国民の遺産として後世に残すことにつながった経過も、よくわかった。

高松塚

108ページからの第5章は味わい深い

「・・・・・当時、世間では『世紀の大発掘』『百年に一度』と喧伝された高松塚の一ヶ月余であったが、発掘現場での大半の日々は、乏しい調査費用のもと、発掘面積を最小限にしぼって黙々と掘った印象しかない。・・・・・・」
「・・・・1972年(昭和47)4月5日をもって、関西大学を中心とする、われわれの高松塚古墳の発掘は、ひとまず幕を閉じた。
多くの課題を残したまま、もっともっと調査して解明しなければ、との思いは、参加学生全体にみなぎっていた。そうした矢先の発掘打ち切りであったが、これも末永雅雄先生の無私の方針であることを考えれば、いさぎよい幕切れと、私には理解できた。そのことは先生が書き記している次の一文を読んで、よりいっそう感銘を受けた。

・・・・・ 『調査参加学生の手記を見ると、発掘の努力を重ね、これを愛し、調査をつづけたが、次第に自分たちから遠ざかりゆく悲しみを書いたものがあった。それほどまでに高松塚古墳を愛する感情をもって調査に努力をしていたかと驚いた。いまこれを書きながらもなお胸がつまる。
しかしながら日本文化史上に大きな寄与をなした、この偉大な資料の個人的財産とは異なることを考えれば、すべてを挙げて国家処理に移し、保存と調査研究の万全を期して、次代の日本国民に伝えるべきである。・・・・高松塚という重要資料を高所よりこれを見、これを考えるとき、われわれはここにいさぎよく国に移し、国は重厚な措置をとって悔いなき方策をたてられることが、最も正しいとわたしは判断した結果の処理である。従って第一次の調査担当者であるということによる徒な介入をも避けて、今後の調査・研究保存に協力をつづけたい。』
(壁画古墳 高松塚 序文から)
高松塚の極彩色壁画は、消失した超国宝級の法隆寺壁画に匹敵する至宝と見なされた。これを将来に引き継ごうとする末永先生の、全国民に対する熱い思いが、3月26日の断固とした(古墳の)石槨封閉、4月上旬の速やかなる調査団引き揚げの措置となったのであろう。・・・・・むろんわたしも発掘以来23年間、ふたたび見ることはなかった。」
(同111ページ)とある。

森岡秀人氏とはまったく面識も無いが、同世代として強く共感できる感性だ。
推察するに、様々な好条件が相乗効果を生み、世紀を画す高松塚古墳の発掘に参加できた。しかも末永氏のような偉大な見識の学者のもとで師弟の絆を得たは、とても稀な幸運であったという心境がにじみ出ている。
本書を読んでいて、そう実感した。

 

末永氏は同著発刊の4年前に死去している。
果たして国はその責務を全うしてきたと言えるだろうか。

今世紀に入ってから、その高松塚古墳に大量のカビが発生していたことや、様々な損傷事故を起していたにもかかわらず文化庁など公的機関がその事実を隠していたことが発覚、大騒ぎになったが、これらの失態は故末永氏の志を大いに傷つけたと思う。

 

同著で、もうひとつ興味深かったのは当時のマスコミなど世間の動き。

95ページ
「・・・・報道はまず(3月)26日夜、7時のNHKテレビニュースで流れた。そのニュースは近畿圏対象のローカル放送で、午後9時30分になって全国へのトップニュースになったという。・・・・」
意外なことに「世紀の壁画発見」ニュースは近畿ローカル扱いから始まったのだ。ここには日本のマスコミ事情がよく反映されている。情報はすべて東京一極集中で、あまりに中央集権的なのだろう。中央から地方へのベクトルが強すぎる。

それと、壁画発掘が公表された3月26日の日曜日が、たまたま橿原市長選挙と重なっていて、革新市制が登場するかもしれないという選挙事情にあったので、そこにマスコミの関心が集中していて、古墳発掘の記事を送るどころではなかったという。
そういえば、この頃は「革新市制ブーム」だった。いつの時代も、社会の表層的な動向に眼を奪われやすいものだろう。世間の毀誉褒貶がいかに当てにならないものか、良くわかる。
もはや、「革新」などという言葉も死語に近い。わずか40年余り前のことだ。
そのなかでコツコツと地道な発掘作業に身を挺し、「検出」された遺物の歴史的文化的価値を正確に見極め、後世に残そうとした学究徒たちの、高い志を知ったことは大きな収穫だった。

「・・・・実際のところ、初動段階では各社の反応はさまざまだったようだ。記者会見に出なかったために大慌てさせられた新聞も少なくなかったという。・・・・・わたし自身も、やがて社会や歴史・日本史の教科書に登場して時代を代表するほどの重要な項目になり、巻首図版にまでなろうとは想像もしなかった。また、あのころは知らなかったが、日本で『壁画発見』が伝えられた27日の夕刊から、韓国では大々的に報道され、翌日の朝刊で朝鮮日報、東亜日報が一面の半分を占めるトップで扱ったり、ニューヨーク・タイムズ紙も『大発見』と伝えて、国際的に大きな反響を呼んでいた。・・・・」
海外の反応が意外に敏感だったようだ。ちょうど「日本列島改造論」がもてはやされた頃だが、ひたすら物欲に走ってきた戦後日本で、やがて精神文化への関心が高まる契機にも貢献したのではないだろうか。

そして、壁画は切手にもなった。

高松塚古墳壁画記念切手
高松塚古墳壁画記念切手

「・・・前代未聞の古墳壁画を一目みようとする見学者は、早朝より現場に詰めかけ、近鉄橿原神宮前駅からは臨時バスが出」(同97ページ)
る騒ぎに発展したという。

今、この騒ぎから40年余りたっている。
あたりには静かな田園や丘陵風景が広がっていた。

甘樫の丘から
甘樫の丘から

この年は、グアム島で横井正一さんが発見された。浅間山荘事件やテルアビブ事件などが起きた。ベトナムでは北爆が開始、田中内閣が発足して日中国交回復のための共同宣言などがあった。
何も事情を知らなかったので、私も中国の「文革」などに、ほのかな期待を持ったものだった。

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