映画「ヨーク軍曹」 Sergeant York(1)・・・・母の祈り

Title Sergeant York (1941)
1941年作の本作「ヨーク軍曹」の一般的な評価は、アメリカが第2次大戦に参戦するための、「戦意高揚映画」ということらしい。

そのために、信仰上の「良心的兵役拒否」と「自由のための戦い」という大義の間に挟まれた主人公の、心の葛藤を真摯に描いた、ということだ。日本公開は1950年。
映画では明示されていないが、実在の「ヨーク軍曹」は敬虔なクエーカー教徒だったらしい。神は殺人を禁じているのだ。
しかしアルヴィン・ヨークは紆余曲折を経て第一次大戦に参戦、予想外の武勲を挙げアメリカの英雄になった。本人の日記をもとに、なるべく史実に即して作られた映画作品だという。
名優ゲーリー・クーパーが、朴訥な農民出身兵を演じて主演男優賞に輝いた。

主人公の素朴で真摯な姿と、それを取り巻く人々の良心的で温かみのある振る舞いが素晴らしい。古き良き映画だと思うが、今日の基準からみて、それでも戦争そのものを肯定するわけにはいかないと思う。

しかし、私がこの映画に好感を持てた理由は別にある。

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ヨーク家族4人

舞台は1916年、典型的なアメリカの田舎テネシー。村の人々にとって、ヨーロッパの戦争など「俺達には関係ない」生活が続いていた。

その村の、アルヴィン・ヨークはやんちゃな若者で、しばしば酒を飲んでは荒れる。彼の更正を宗教的な改心として描くことが前半のストーリーの意図なのだが、良く観ると、実は「母親の存在」が決定的に重要なファクターとして描かれていることがよくわかる。父ははやくに他界している。そこが、もっとクローズ・アップして評価されても良いのではないだろうか。

私が注目したのはアルヴィン・ヨークの母メアリーの存在感。
まるでテネシーの大地の権化のような、無口で素朴そのものの貧しい農婦だが、同時に日本人の我々にとっても心懐かしい母親像を見事に描いてみせた。

メアリーも参加するお祈りの時間。
あろうことか、教会の建物の周辺をこれみよがしに銃をぶっ放して、馬で暴れ回る息子たちは村の厄介者だが、母は皆の前でも決して息子を非難しない。むしろ拳銃の腕前を誇って庇う。いかにも開拓者時代の老婆。
その厳然たる姿には、村人を黙らせてしまうような威厳すらある。

しかし、母は母なりに心中深く息子を案じているのだ。
村民の絆は濃密だ。コミュニティーには相互扶助の精神ある。
彼女の一家の事情を知悉しているパイル牧師は、メアリーの思いを暖かく的確に受け止めていることに感心した。
問わず語りのように、牧師にだけは
「もちろん、このままではダメだと思うわ」
と告白している。

息子の放蕩振りについて母は
「言い訳はできない」が「誰も息子を責めることはできない」
と言っている。パイル牧師は
「言い訳は必要ない」
と受けた。
すると母は
「自慢の息子だ」
と心情を述べた。

なぜなら、夫が早くに亡くなったあと、息子は残されたわずかな畑を懸命に耕して働いている。しかし、高地にあるヨーク家の畑は岩だらけで、トウモロコシも育たない痩せた土地なのだ。
将来に希望を見出せない息子の、やり場の無いフラストレーションが原因で、時に暴れることを母は見抜いている。だから精一杯息子を擁護しているのだ。
しかし、母は決して息子を甘やかしているのではない。

酒を飲んでは暴れる息子の心を知悉しているからこそ、信仰に目覚めて改心してくれることを切実に願う母親。彼女はその率直な願いをパイル牧師に相談しているのだ。

Margaret Wycherly Sergeant York (1941)
不良息子を信じ抜く母

世間の顰蹙をかうどら息子であっても、
どこまでも子供を信じ抜く母親の強い愛情は断固として揺らがない。
だからこそ、息子は改心のきっかけをつかめるのだと思う。
そこに、私は時代や民族を超えた「母性の偉大さ」を感じた。

思春期の不良息子が更正するかどうかの瀬戸際にあって、いかに母親の強い愛情と固い信頼が決定的な要素であるかを教えてくれる。
もしもこの母がいなければ、恐らく息子は家に帰らないだろう。

だから、泥酔して帰ってきたドラ息子を一瞥するや、戸口でバケツ一杯の水を無言で顔に浴びせ掛けるだけの毅然たる母。そして
「朝ごはんができたから、食べて野良仕事に出なさい」
とだけ述べ、今日一日の糧を得た感謝の祈りを奉げる。
宗教クサイという批判もあるだろうが、キリスト教徒でない私でも、このシーンには率直に感動した。貧しくても、敬虔な生き方が好ましい。ドラ息子も母にはかなわない。
敬意を払うべきだろう。

感謝の祈り
感謝の祈り

ここには人間が伝えてきた、家庭生活の「作法」があるのではないかと思う。人が還るべき原点の環境を信仰が提供しているのだろう。

相談を受けた牧師さんもまた、その本業が村の雑貨屋さんでもあることが印象深い。あくまで皆と同じ「生活者」なのであって、現実離れした高みから神の教えを垂れる権威的な「聖職者」ではないことがミソなのだ。信教の自由を求めて新大陸に渡ったプロテスタントの信仰形態が良くわかるし、そこには「アメリカ人」が作った、コミュニティーの「原型」があるのではないだろうか。

ただし、それはあくまで白人プロテスタントに限られた世界であることは言うまでもない。だから先住民も有色人種も登場しない。

やがてアルヴィン・ヨークは幼馴染のグレイシーの美しさに一目ぼれ、藪から棒に結婚を申し込む。牧歌的なムラ社会なのがよくわかる。

ジョーン・レスリー
幼馴染みのグレーシーは、美しい娘に成長していた

 

貧しいヨークは、彼女を妻に娶るために新しい土地を購入すべく、昼夜を分かたず働いてカネを稼ごうとする。女心に疎いヨークはグレーシーの思いもわからず猪突猛進の一本気だ。
その一途な思いを知ったメアリーが息子に語る。
かつて痩せた耕地との格闘で父も命を縮めた。しかし「お前ならできるよ」と、励ましながら見守るメアリー。
ヨークはどうしても足りない分は、得意の射撃の腕前で優勝して賞品を得ようと大奮闘する。
パイル牧師は、ここぞとばかりに神への信仰の大切さをヨークに諭すのだが、不信心なヨークは相手にしない。

パイル牧師
牧師

昼も夜もなく働き続け、クタクタになって倒れるように寝入る息子の身を案じて、母はそっと布団をかけてやるのだ。そして
「神よ、お願いです。息子を助けて」
とつぶやく場面は、心底感動的な名シーンだ。

村一番の腕前を発揮し、ついに射撃大会の賞品を勝ち取ったが、すでに土地は恋敵ゼブのものとなっていた。奮闘むなしく、間に合わなかったのだ。
パイル牧師は「神には何かお考えがある」と言ってヨークを落ち着かせようとしたが、自棄酒のヨークは銃を手に降りしきる雷雨の中、意趣返しに向う。もう、誰も止められない。
そして、その途中でヨークの手に持つ銃に雷が落ちた。「神の奇跡が現れた」ということなのだろう。パイルが予言した「啓示」なのだろうか、それは、一方的に(雷として)降下してくるのだ。
ここからは、キリスト教信仰のない私には少々難しが、西欧の映画にはよく見られるパターン。

いっとき気を失ったヨークは、教会から聞こえる賛美歌に誘われて戻ると、パイル牧師の指揮で家族や村の人々が集まって歌っていた。
命拾いしたヨークは改心して共に歌い始める。ここで「神意」を素直に受け止められるのは、もともとヨークには宗教的な基礎がすでにあるからだろう。それを涵養したのは信心深い母、メアリーを柱とする家庭があったからだと思う。

やがて心を入れ替えたヨークは、地主や土地を買い取った恋敵ゼブたちの理解を得て真面目に働き始めた、という展開なのだが、ちょっとできすぎのようにも思える。私には神への信仰がないからだろうか。
ともあれ、これが機縁でヨークは神の導きに目覚め、敬虔な信仰者に変身し、やがてパイル神父を補助して子供たちに聖書を教えるようにまで成長したのだった。

そこに祖国アメリカの「宣戦布告」知らせが飛んでくる。ヨークの堅固な信仰が、いよいよ試されるときがやって来た。

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