大阪のある大手機械メーカーの輸出部門で仕事をしていた、若い頃の思い出話。
たまたまインドのバイヤーが会社に訪れ、商談することとなった。
下っ端の私は課長さんのもとで、空港でのお客さんの出迎え、食事、買い物の案内まで、滞在中の身の回りのお世話を仰せつかった。
そして商談の当日、昼食を接待するために大阪・心斎橋のとあるレストランにご招待した。
インド人は二人ずれで一人がオーナー、もう一人はその秘書役の 若い男性スタッフだったと思う。
オーナーは身振り手振り饒舌な人だった。巻舌音が多くて聞き取りにくい英語で話す、抜け目のないインド商人(いわゆる「印僑」)タイプに見えた。秘書役の油断のない目つきを思い出す。
オーナーは肌黒い肥満体で、額がてかてかと脂ぎっていた。太い指には派手な色合いの指輪をいくつもはめていた。南洋独特の香料の強い匂いがした。
昼間からさぞかし脂肪分の多いメニューでも注文するのだろうと思っていた。
不審に思ったので、「本当にそれだけでいいのか」と尋ねると「
私自身は確か、ハンバーグ・ランチみたいなメニューだったと思う。
なかなかのタフ・ネゴシエーターだったと記憶している。商談はまる一日がかりで、課長もクタクタだった。ホテルに帰る車の中で「世話になったな。
どういういきさつでそういう話題になったのか、
彼らが帰国して、しばらくして高さ10センチほどの木製の釈迦の座像を私宛に送ってきた。芳しい白檀の香りがした。
インド人には、今も「宗教」がちゃんと息づいているのだなと感心した。ただ、仏像には関心もなかったので、確か他人にやってしまったと思う。
今も記憶に鮮明なのは、あの脂ぎった肥満体のインド商人が、同時に敬虔な信仰者であるということが自分にはとても不思議に思われたからだろう。
ガンジーに象徴されるような精神性と、脂ぎった商売人の世俗性が一人のなかで矛盾なく共存している、そのあり様が不思議だった。
私は高橋文学にはまったく疎いので、作品の背景を知るために、いろいろな解説を読んでみた。
かつて文学青年だった高橋和巳はドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」や、埴谷雄高の作品に強く影響されたらしい。そして「死霊」に触れて、徹底した苦行・禁欲主義をもって知られる古代インド
評論家・川西政明氏の解題を読んで初めて知ったのだが、高橋和巳が「飢餓」というものを強く意識したのは、埴谷雄高の「死霊」の序分を読んでジャイナ教に触れたときで、昭和24,5年の頃だと推定されている。当時17歳くらいだ。
孫引きだが、埴谷は「死霊」序文で
「・・・・その教団はその頃餓死教団といわれていた。着ること飲むこと食うことはおろか呼吸すらその信徒達は禁ぜられていた。・・・・・」
と記していた。
小説「邪宗門」の「ひのもと救霊会」の教義はそのジャイナ教とジャイナ教から分派したある教派の教義がヒントになっているのだという。
更に川西氏によれば
「・・・・ところで、ジャイナ教とは、不殺生、不妄語、不盗、不淫、無所有の五戒を厳しく守る宗教であるが、彼らは一切の感情、理知をも含めて、われわれはまったく苦しみに満ちる人生を生きているのだと考えた。また、われわれが生きていること自体がすでに他のものを『殺しつづけている』ことにほかならないのだとも考えた。この『殺』の論理は彼らにとって耐え難いことであった。それゆえ、『苦』を滅尽するためには自己の肉身と戦わねばならないとして、彼らは厳しい苦行を施し、ひたすら『殺』を避けることに努めた。・・・・・彼らは、それでもよい、生きて罪を犯すよりは、死して無垢の国に住まねばならないとして、『餓死』することを認容したのである。・・・・」
こうした極端ともいえる精神主義に魅力を感じる歳頃というのは、確かに我々の世代のなかにもあったな、と懐かしく思い出した。
ちょうど子供から成人になる中間地帯の歳頃あたりで、大人になることへの本能的な嫌悪感とか恐れが、感受性の強い青年を苦しめることは確かにあったように思う。私自身は俗的だったのかほとんどそうした覚えはないが、友人のなかには、こうした潔癖感に捕らわれて真剣に自殺を考えた人もいた。それは汚れたくない、という強く純粋な心情があったからだったと思う。小乗仏教の「涅槃」の境地に憧れるという友達もいた。
「おとなの世界」というのは、汚い利害打算が充満した醜悪なものだという、今思えば一種の固定観念みたいな反発があって、教室のなかでその種の真剣な議論が起きたこともあった。
私などは、そうした純な心が薄いので世俗の垢にどっぷり染まってこれまで生きてきたほうなのだろう。これは謙遜ではない。
高橋和巳も十七歳くらいの頃だから、相当に感受性の強い青年だったのだろう。その頃からのイメージがだんだん膨らんで、その後に習得した他の要素(とくに中国文学への造詣)も絡んで、この大河小説の構想に発展したものらしい。
いわゆる「文学者」と呼ばれる人々には、こうした青年時代の純粋な精神を「核」にして、その後の人生を生きた人々がいるのだろう。
69年11月号の月刊雑誌「潮」で対談した三島由紀夫や高橋和巳のように、あまり長生きできなかった理由かもしれない。二人が選ばれたのはたぶん、物情騒然たる70年安保を目前にしていた言論界の、いわば両極を代表した対談企画だったのだろう。
当時の私自身はどちらかというと、三島の作品のほうに親しみがあった。「憂国」を読んだときなどは「こんな考え方を突き詰めると、畳の上では死ねないだろうなァ」と思った。それがあの自決の一週間ほど前だったので、余計に驚いた。本気だったのだと。
三島よりすこし上の世代で、兵隊経験のあった父は「馬鹿なことをする!」と怒っていたが。
高橋和巳は昭和6年、満州事変のときに大阪の典型的な下町・浪速区で生まれた。同じ戦中派でも三島より更に下の世代に当たる。
昭和20年3月には「大阪大空襲」で生家も完全消失し、やむなく愛媛県の親戚筋に疎開せねばならなかった。やはり戦争の悲惨さを目の当りに体験している。

敗戦前後のまことに多難な時代を、様々な問題意識を抱えて生きたことが、小説「邪宗門」に多層的なテーマを提供したのだろう。その結末の救いのなさは時代の暗さ反映しているのだろうと思う。
それにしても三十三、四歳くらいでこれほどの大作を産み出した該博な見識と、人間描写の重厚さには今も学ぶところが多い。だから専門的な研究も多数あるようだ。
また、良心的な大学教員という雰囲気が、当時の学生運動家にとって魅力でもあったのだろう。旧態依然たる大学の封建的な風土に痛烈な「異議申し立て」をした学生に感情移入して傷ついた、というようなイメージがあったらしい。
「邪宗門」主人公の千葉潔らが絶望的な武装蜂起に失敗して、大阪西成の「貧民窟」に逃げ込みそこで「餓死」を選んだ結末も、ジャイナ教の餓死に至る禁欲的戒律や、高橋自身の住まいがかつて西成に隣接する浪速区であったことなどを後で知った。
そういえば、この頃は「自己否定」という言葉が流行った。
ただ、正直に告白すると、私にはやや違和感も湧いたところがあるのはなぜだろうか。
それは、釜ガ崎のドヤ街で、主人公の千葉以下三名が餓死を選ぶ場面の次のような描写だ。
「・・・・いや、ただ一度、四人の行者、とりわけ異様に睫毛の長い先達が、わずかながら人間らしい反応を示した時があった。
彼らが箸をつけないことは解っておりながらも、医師がはこばせた雑炊を、まぎれこんきた浮浪児が奪い合った時だった。浮浪児たちは・・・・一碗ずつの雑炊を奪い合い・・・・通路にこぼしてしまった。しかもなお飢えた浮浪児は、通路に口をつけてその雑炊をすすったのだ。その時、墓石のように坐ったまま動かぬ先達者の、空洞のような瞳から、たった一滴だけ、一滴だけながら・・・・ぽと、と涙が滴った。」
というシーン。
うまく表現できないが、とってつけたような「偽善性」や「ナルシズム」を感じてしまうのは、こっちの読み間違いだろうか。高校生の頃に感じた、学生運動への違和感にも繋がるかもしれない。
私自身には「飢え」の経験がないからだろうか。
それとも高橋和巳が深く見た人間の「地獄」を、実感するだけの感受性が不足しているからだろうか。
私には文学がわからないのかもしれない。
ここは、性急に結論しない方が良いかもしれないが。