M.モンロー 映画「BUS STOP」(2)

前回は全体の概略を追っただけだが、今回はもう少し主役のM.モンロー演ずる「シェリー」嬢に焦点をあてて詳細を見てみよう。

映画では、始まりからモンローが登場するまでには、実に15分ほど待たねばならない。それまでは、ボー・デッカー(ドン・マレー)の性格描写にたっぷり時間をかけている。

指南役ヴァージとの「やじきた道中」宜しく、故郷からはるか南に遠いテキサスのフェニックス市に長距離バスで到着。都会は初めてなので、交通管制に慣れないボーは、危うく2回も車に轢かれそうになる。
おまけに道ですれ違う女性を見ては、珍しそうに「100頭はいるな!」などと、牛馬並みの数え方で、田舎者丸出し。

さて、そのホテルの窓からヴァージが外を眺めると、隣の建物の下の裏窓に、あられもない服装の若い女性が疲れた様子で休んでいる。よく見るとストッキングにも穴が空いている。なんとも退廃的、扇情的な姿はとても印象深い現われ方。

BUS STOP
印象深いM.モンローの登場姿

金髪で薄ピンク色の肌もあらわな、はだけた薄着姿の女性を「窓枠の女」のなかに配した。いかにも隠秘な頽廃ムードといった風情で、いよいよ主役・M.モンローの御登場。

壁面には店名「BLUE DORAGON Cafe」とあって、その下には「従業員用入り口⇒」と壁書きされているから、たぶん酒場の従業員部屋の外に向いた窓だろうか。
何か疲れた風情で剥き出しの左ひざをたてて、頬杖をついて窓枠に座っている姿が、彼女の「今の不幸」を象徴しているようだ。
透けて見える肌の色も病的で、きっと不健康な生活なのだろう。
このイメージはまさしくM・モンローそのもののテーマを暗示している。

やおらドアがあいて、酸客が入ってきてマリリンの手を無理やり引こうとするのだが、彼女がこれを適当にあしらってやり過ごす。が、今度は店のマネージャーとおぼしき男性が入ってきて「早く店に出て働け!」と発破を掛けている。その男から「この山猿!」と悪態を投げつけられていることで、この女性の身の上が伺われる。

「・・・you  ignorant  hillbilly.  Get to work!  Better change into your costume.
この山猿、はやく衣装に着替えて店に出ろ!」

彼女はたぶん、どこか田舎出の若い女性で、この場末のナイトサロンのステージに立つ、いかがわしいホステス稼業の女性のようだ。

お人よしの田舎者のお客と見れば媚態で近づき、「お酒を飲ませてね」とねだり、その実お茶を何杯も飲むというトリック。すれっからしの女なのだった。はまったお客に店が酒代をぼったくる算段だ。

インチキが客に見抜かれて形勢悪しとなれば、舞台に逃げて今度はオンチな歌を(実際のマリリンは歌が上手い女優さんなので、これはもちろん演技)扇情的に歌う。
ボディラインも露わな薄着で、姿態をくねらせながら踊るのだが、舞台そでのフットライトのスイッチは自らのつま先でオン・オフを入れるような、安っぽいフロアー・ショー。これは実は同時代のアメリカの人気歌手、ダイナ・ショアーの「猿真似」をさせられているのだ。

ダイナ・ショアー

映画全体がコメディータッチなので陰惨さはまだ少ないが、惨めな彼女の境遇をよく現している。
ただ、1950年代中葉のアメリカ社会の素朴さ、社会全体の豊かさと、モンローの天性の明るさ、豊満な美しさもあって、陰鬱ではないのが救いだと思う。同時代の日本映画だと、こうはなりにくい。文化の違いだけではなくて、国富の格差が反映しているのだと思う。

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さて、生まれて初めてこんな刺激的な場面にいきなり飛び込んだ「単細胞」のボー。舞台で踊って謳うシェリーを正面から見るやいなや、たちまち一目ぼれ。これこそヴァージが勧めた自分の「天使」だと、即座に思い込む。シェリーの全身からは、そう思い込ませるオーラが発散している。

ボーはロディオの勝利と「天使」の略奪に向かって、純情一直線で邁進する。そこから二人のドタバタ劇が始まるのだ。

ボーが勝手な思い込みでシェリーを追い掛け回す。
展開の面白さだけに眼を奪われると見逃しやすいが、よく観ると、物語の中で次第に判明してゆくシェリーの生い立ちや身の上には、かなり気の毒な境遇があるのだ。

彼女もアーカンソー州あたりの田舎の山育ち(たぶんミシシッピ流域のようだ)で、一家は洪水で被災し、妹と二人だけ生き残ったという身の上。
同僚(アイリーン・へッカート)に語るところでは、生きるために若い二姉妹は働きながら西部に流れてきた。ある町では妹はウエイトレスに、姉の自分はドラッグ・ストアーの売り子をしていたこともある。

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そのとき、たまたま田舎の素人演芸大会のような催しに、妹の勧めで出場して歌を披露したところ第2位(第一位が牛乳瓶を使った少年の演技だったというのが笑わせる)だったことから、シェリーの人生の「方向感」は決まったのだという。
それは広大なアメリカ大陸を、東から一直線に横切ってハリウッドに到達すること、そこで女優に選ばれることなのだ。間違ってもこんなナイトサロンで「山猿」などと呼ばれて、侮辱を受けるのが本望ではないのだ、と強調している。
女性同僚に自分の地図を見せながら

This is where l am now. And look where l’m going.
「いまここにいるの。そしてこっちに行くのよ。」
– Where?
「どこなの?」
– Hollywood and Vine!
「ハリウッド・ヴァイン駅よ!」
・・・・・・・You get discovered. You get tested,with options and everything.
「そして才能を見つけられ、選ばれたら・・・・」
And you get treated with respect too.
「・・・そしたら、皆にリスペクトされるの。」

つまり、今は場末の店で媚態を売るいかがわしい稼業で、雇い主からも軽蔑されているような身の上だが、ハリウッドに出て成功したら、皆からきっと喝采を受けリスペクトされるような(get treated with respec)自分になれる、という夢の道への途中なのだ。その憧れが彼女の支えになっているのだった。

だから、自分の「方向感覚」とはまったく無関係な、どこの馬の骨かわからない野暮なカウボーイに人生行路を狼藉されるのは、はなはだ迷惑千万なのだった。

北西部からやってきたボーと中東部からやってきたシェリーが、テキサスのナイトサロンで偶然のクロス邂逅をしたのだった。

しかし、このカウボーイはまったくもって「自己チュー」で、前夜は酒場の裏庭で自己紹介を交わした程度なのに、もうその気になって翌早朝寝込みの彼女(シェリーは夜の仕事なので、午前5時に就寝するような生活)をたたき起こす。彼女は寝不足で意識も朦朧としている間に結婚誓約書にサインさせられ、安っぽい指輪まで持たされてロディオ大会を観覧させられている。彼女自身、ボーの早合点ぶりに押し切られて、何がなんだかよくわからない。

その観覧席には、ボーの手配でとうとう牧師さんまでやってきた。ロディオ大会の観覧席で、ついでに「結婚式」を挙行するという発想も奇想天外だが、帰りのバスにまで間に合わせるつもりなのだろう。

ここに至って身の危険を察知した彼女は友人の機転で、店で荷物をまとめてフェニックス市脱出を試みる。この同僚役アイリーン・へッカートのコミカルで個性的な相貌と、モンローの天性の美しさぶりがコントラストになっている。
ウソをつけないシェリーは結婚の意志はないと拒否するのだが、ボーはまったく意に介さず追っかけまわす。
慌てているのでオーバーコートの下は、肌もあらわな舞台衣装のまま。モンローらしく逃亡姿も破廉恥なのだが、観客へのサービスに過ぎないので、そこだけに眼を奪われるとテーマを見失う。

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Eileen Heckart

ところがフェニックス脱出直前で、カウボーイの投げ縄に絡め取られてしまう。結局、拉致されて同乗させられることとなった長距離バス。このままはるばるモンタナまで拉致護送が続くのだろうか。

途中の大雪でバス運行が止まったため、やむなく「BAS STOP」で一夜を明かすことになったところからが映画のハイライトなのだ。

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嫌がるシェリー

この帰りのバスに乗り合わせた乗車客に、もうひとつ演出工夫がある。

そこにはマリリンとは正反対の若くて清楚な美人女性(ホープ・ラング)が乗り合わせていて、車内でシェリーの着替えを助けたりしながら、その身の上話を聞くこととなる。(実はモンタナからの往路で、この女性はやはりカウボーイたちと乗り合わせたのだが、ボーにとっては「天使」には見えなかったのだ)

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シェリーの早熟な体験談に驚くエルマ

話によると、シェリーは12歳から男の子と付き合い始めた早熟な娘で、14歳には結婚直前までいった彼氏もいたのだった。しかし洪水で流されて死んだ父親の予言通り、その男は最低だった。
それ以来、シェリーは更に何人かの男遍歴を重ねてきたようだが、実はあいまいなイメージながら、本当に自分を大切に尊重してくれるような優しい男を望んでもいるようだ。この会話でのキーワードもrespectだ。

いま、シェリーは件のカウボーイもまた、自分がこれまで経験してきた「乱暴な男」の一人だと思っている。だから、なんとか逃げるチャンスをつかもうとしているのだ。

しかし結婚出来るのものと早合点しているボーの振る舞いはシェリーを逃がすまいと、ますますエスカレート。とうとうそのはた迷惑な振る舞いを止めるため、見るに見かねて「船長」としての制裁に入った運転手のカールは、意外にも元レスリングのチャンピオンであった。

こうしてボーが一方的にノック・ダウンさせられるという、どんでん返しの展開から、いよいよこの映画の本当のテーマが顕わになってくる。

しかし、「男の決闘沙汰」にまで発展したところで、シェリーは実はボーが自分のような「あばずれ女」に、かくも一途な思いを寄せてくれていたことを初めて知ったのだ。
ここで局面が変化する。

世間知らずの鼻っ柱を木っ端微塵に叩き潰され、がっくりと気落ちしたボーを見るにつけ、シェリーの心にある微妙な変化が生まれる。このとき、ボーの振る舞いの根っ子にある、「男の純情」に、シェリーは初めて気づいたのだった。つまり、ボーの直情がシェリーの魂を衝いたのだ。

そして、これをきっかけに今度はシェリーの動揺と苦悩が始まったのだと思う。モンローの細かな演技が生きる。このあたりがこの映画の真骨頂だと思う。

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負けを素直に認め、勇気を持って謝りを入れ、別れを告げに来たボーにシェリーは自分の半生を告白する。それまでボーをたんなる狼藉者としか見られなかったシェリー。ここで自分の人生を振り返ってみて、自分のような女が純情一途のボーのには相応しくないことを自覚し、そう告げた。
一方のボーは、片田舎の牧場育ちで、自分のような世間知らずが、初めてシェリーのような女性とであったことや、頭に血が登ってしまい、乱暴な扱いをしたことを正々堂々謝罪した。また、ヴァージが「つりあいが取れない」と反対したのだが、自分はシェリーを信じたのだ告白もした。

生まれて初めての屈辱のなか、やっとの思いでボーは謝罪したが、そこに偽りはなかった。シェリーが想像していたような、たんなる「乱暴者」ではなかったのだ。

こうして、ふたりは初めて人間としての「魂の交流」を繋いだのだろう。
観客は、今時の変質的なストーカー話ではないことに気づくだろう。これは、健全な映画なのだと。

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