詰まるところ、映画のテーマは、「女のしあわせ」なのだろうと思う。
しかし、商業映画のメッカ・ハリウッドらしい娯楽性をM.モンローに託しているので、たんなる「お色気」映画、ラブ・コメディーとみなされやすいようだ。
前回の繰り返しになるが、モンロー演じるシェリー嬢の告白によると、洪水禍で家族を失い、生き残った妹とともに、広大なアメリカ大陸を二人で西へ西へと流れて移動してきた。途中でウエイトレスやドラッグストアーの店員など苦労を重ねながら。だが、そういう「惨めで暗い」印象はとても少ない。
映画では妹の登場はないが、姉シェリーと同じような薄倖な人生を歩んでいる可能性が大きいのだろう。
やがて素人演芸大会みたいなイベントで2位だったことから、女優や歌手になることを夢見て(彼女の言葉では「方向をつかんで」)、はるばる西へ一直線ハリウッドを目指す。しかも早熟なシェリーは人一倍の肉体的魅力があったので、それが次第に「売り」なってしまうのは自然なことだった。
だから、男性遍歴も重なるのだが、たいていの場合、近づいてくるのは不思議なほどにロクな男ではないのが浮世の常。
シェリーは自分を人間として尊重(respect)してくれて、大切にしてくれる立派な男性の登場を強く願うのだが、運が悪いのか、大概はその真逆の「カス」をつかんでしまうのだ。
品のないフロアー・ショーを見ればわかるとおり、歌もへたくそ(実は演技)なので、華やかなハリウッドのスターなど、ほとんど実現性がないのだが、若さゆえに夢とシビアな現実との区別がつかない。むしろ、今が惨めであればあるほど、尚更遠いところに見果てぬ幻想を描くのだろう。
こうして、次第に身を持ち崩してゆくような場合が、実際には多いのだろうと思う。
時代は違うが、現代でも本質的には同じ傾向がよく観られる。
そこに「女の不幸」が、とぐろを巻いて大きな口を空けて待っている。
シェリーが初対面のボーにいきなりモーションを受けたとき、曖昧な受け答えをしたので、ボーが「これはいける」とてっきり錯覚してしまった根本的な原因も、そこにあると思われる。シェリーは言い寄る男に本能的な媚態を演じてしまうのだ。「所詮商売」と割り切れない。ために「免疫のない」ボーの、ストーカーまがいの行為を誘発してしまった。
それをシェリーはこれまでにも嫌になるほど経験して来た、いつもの「乱暴な男」の所業だと思った。
実は若い女性のしあわせにとって深刻な事態なのだが、1950年代のアメリカを反映してか、映画は明るいラブ・コメディーという仕上がり。だから、そのぶんあまり突き詰めないで済むので、さらっと観ているうちに終わってしまう。
シェリーは、身の危険を感じて逃げ回った。
追いすがるボウも、シェリーがなぜ自分を避けるのかわからないので、なおさら行動がエスカレートした。我がままなのではなくて、本当にわからないのだ。
かなり愚かな男に見えるが、純朴で粗暴な「カウ・ボーイ」の性格が描かれているのだろう。彼女を追うことが、牛を追うことと大して差がないようにさえ見える。
後見役のヴァージが、もはや手に負えないと感じていたバス・ストップでの一夜、二人の騒ぎを見て、「乗客の安否は船長」の責任だと宣言するバス運転士カールの「参戦」で局面は全面回転する。
カールはレスリングの元チャンピオンだったので、それまで喧嘩で負けたことのない自信過剰のボウが、逆にコテンパンにノック・アウトされてしまった。完膚なきまでの敗戦だ。
これを見て、シェリーの心に予期せぬ「心的変化」が生まれたのだった。
※ここでもうひとつ工夫があると思うのは、運転手カールがこのBUS STOPに止まるたびに店の女主人(ベティー・フィールド)をやんわりと口説いている場面がある。そのたびごとに軽くいなされて、カールはまたバスの運行に戻るのだが、これはボウとシェリーのやり取りとのコントラスト効果を見せているように見える。
少し戻るが、シェリーの心の変化を促す下地はバスの中でのシェリーと、もうひとりの若い女性乗客(エルマ嬢)との会話にヒントがある。エルマ(ホープ・ヤング)はシェリーとは正反対の、清純な女性を演じているところがミソ。たぶん、この時代の若い女性の平均的な感覚を体現しているのだろう。
これまでに、自分がいかに粗暴な男たちに振り回されてきたかを語るシェリー。しかしその実、心の底では、本当は素晴らしい男性との出会いを強く望んでいる。その混沌とした自分の思いを告白しているのだ。
この「心の混沌」が、若さの特徴でもあるのだろう。
Maybe l don’t know what love is. l want a guy l can look up to and admire.
「私って、恋がわかってないのかもしれない。尊敬できるような人がいいわ。」ここではadmireが使われている。
だが、この段階ではまだ「粗暴な」ボウから逃れることしか頭にはなかった。シェリーはボウの「心」が見えていなかったからだ。
ところが、ボーの思いに、いわゆる「邪心」はなかったのだった。
ボウが実は、シェリーにとってこれまでの男たちとは違う種類の男性であったことを発見した「場」が「BUS STOP」の決闘なのだった。
不器用だが混じりけのない純情をぶつけてみたものの、シェリーが正面から向き合ってくれないため、混乱して感情が嵩じたボウ。その暴走が真正面から粉砕されたとき、逆にそれがシェリーの「魂」に直接触れた。
その瞬間から、初めてシェリーの「人間としての苦悩」が始まる様子をM.モンローが好演しているところに、この映画の見所があるのだと思う。
そしてあくまで私の想像だろうが、演ずるモンローなりの思い入れがあったのかもしれないと仮定することは楽しい。
こう考えると、シェリーが自らを「あばずれ」で、ボウのような無垢の男には相応しくない、と苦しい告白をする場面は哀れですらある。
負けを認め、謝罪を約束させられたボーはシェリーを諦め、ふたりは別れを決意する。
生まれて初めて心を込めた別離の接吻。
ボウの緊張感に偽りはなかった。
しかし、そこには年配者ヴァージルの入れ智慧もあって、ボーは別れ際に、シェリーの過去もすべて飲み込んで、それでもなおシェリーを愛していると改めて表明したのだった。
Oh!
That’s the sweetest, tenderest thing anyone ever said to me.
「そんな優しいこと、今まで誰も言ってくれなかった。」
このときのモンローの表情は、演技ではあるけど、やはり素晴らしい。
かくしてシェリーは自分のありのまますべてを受け入れてくれる、ボーの愛に初めて落着するという次第。
一夜明けたBUS STOP。
やがてシェリーを受け入れたバスはモンタナに向けて出発する。
一緒に行くと思っていたヴァージはここで分かれる。ボウの後見役としての役割が終わったからだ。
彼は一種「さすらいのカウボーイ」で、その経験を生かして牧場の若者を育てる役を、自然に担ってきた人なのだろう。
ギターを片手に奏でる姿が詩的だが、カントリー・ウエスタンもこうした人々の音楽なのだろう。
主な登場人物が皆、善意に溢れている。
だからホッとする幸福感で結末を迎えるので、安心して観ていられるが、現実には、なかなかこうしたハッピー・エンドは少ないのだろう。今日では、ますますそうした暗い時代相になっている。
シェリーを見事に演じたM.モンローその人の現実も、6年後には衝撃的な悲劇に終わったことが悔やまれる。
映画ではアメリカが史上最も繁栄した幸運な時代だからこその、こんなハッピーエンドが許されたのだろうと思う。しかし、いつの時代でも、どこの国でも、若い女性が抱く夢のように華やかな「幻想」には、怖い落とし穴があるのだろう。
そこにテーマの普遍性があるように思えた。