1956年作品で、邦訳題名は‘バス停留所’。
M.モンロー主役の映画としては、あまりポピュラーではないかもしれないが、私にはモンローの実人生との深い対照性を秘めた映画ではないか、と思える。実際のモンローは悲劇の人だったと思うが、この映画では見事にハッピーエンドに終わるので、安心して鑑賞できる。
「バス停留所」
他のモンロー映画を詳細に検討したわけでもないので断定はできないが、私はそれだけではないという印象を強く持った。
実は、もっと大真面目なテーマを正面から扱った作品でもあるのではないだろうか、と。
この作品はストーリーを分かりやすくするために、人物描写をかなり誇張・単純化したぶんだけ、面白さに幻惑されて見終ってしまいがちなのではないだろうか。
セックス・シンボルであることは、まさにM.モンローがハリウッドの代表的なスターになった理由だが、同時にまた、彼女がこれを生涯にわたって乗り越えようと苦闘した、負のイメージでもあったようだ。
一人のM.モンローに栄光と失意、有名と虚名という、虚実相矛盾した要素が生じたのだから、いわば「宿命」なのかもしれない。
そして人間の運命には、しばしばこんな皮肉な両義性が看取されるように思う。
映画のストーリーは、いたって単純だ。
カナダに隣接する北西部、モンタナの牧場主の息子でカウボーイのボー( ドン・マレー)が、南部アリゾナ州都フェニックスで開かれるロデオ大会に参加するバス旅行から始まる。
1泊2日の旅程だが、南部アリゾナに近づくにつれて暑くなり、北方のモンタナへ帰る頃には大雪が降るというような、大きな気候の落差があるので、このバス旅行がかなりの長距離であることがわかる。アメリカ大陸の広大さがよくわかる。

ボーに同行するのが、ギター片手の年配の友人、ヴァージル(アーサー・
そのヴァージルが、まったく

モンタナ州は日本とほぼ同じくらいの面積ながら人口は今も100万人程度だそうで、西部劇のカウボーイさながらの気風が、まだたっぷり息づいていたのだろう。
ボーはロッキー山脈の大自然に包まれ、家畜とともに牧歌的に育った、素のままのカウボーイ・キャラ。傍目からはまるで教養のない、傍若無人な人間に見えるが、実は社会のマナーがまだ未習熟なだけなのだ。

そのボーがロディオ大会が開催されるアリゾナの大都市フェニックスで出会うのが、場末のナイトサロンの歌手シェリー(
ボーは彼女こそ天使だと一目惚れ、結婚してモンタナに連れ帰ることをいきなり「宣言」した。ボーの超性急な行動の意味がさっぱり飲み込めないシェリーは、あまりにも強引で一方的な思い込み求婚には迷惑顔。
今様に言えば、まるでストーカー並みのボーの行為に振り回されるドタバタ劇となる。
ヴァージルも歓楽街に生きるシェリーと、田舎育ちで世間知らず女知らずのボーでは吊り合わないと反対するが、いったんこうと決めたボーは純情一路、思い込んだらまったく聞き入れない。
災難を避けるため長距離バスで町を脱出しようとするシェリー。バスターミナルの公衆の面前で、カウボーイで鍛えた投げ縄で拘束し、
こういった描写は、いくら映画でも現代の多くの女性には顰蹙ものだろう。ここで腹をたてて観るのをやめる女性かいるかもしれない。良し悪しは別として、ボーがいかに「超単細胞」であるかをコメディ・タッチで戯画化したものに過ぎないが、残念なことにこの映画の評判を貶める原因のひとつになっているかもしれない。
しかし、実は映画のテーマ別にあると思う。
ストーリー展開とともに判明してゆくのだが、ボーは、
ともあれ、女性の扱いなどを学ぶ経験は皆無だったので、牛馬の扱いと区別がつかない、というようなボーのキャラをコミカルに強調しただけだから、映画のテーマの本筋ではないことを押さえて後半に入ろう。
帰り道、捕まったシェリーとボーたちの乗ったバスは大雪のために道路が閉鎖され、 やむなく「バス停留所」に退避することになった。
隙をみてはなんとか逃げだそうとするシェリーとボーとの、人騒がせな騒動に呆れ返ったバスの運転手カールは、とうとうこの若いカウボーイを懲らしめるためにボーとファイトすることになった。
ヴァージルも、もはやボーは手に負えないとばかりに
「お前は戦いと乱暴の区別もつかない、死ぬほど殴られて眼を覚ませ!」とカール船長(運転手)の腕力に期待した。
このときのバスの運転手カールの言葉で、なるほどと感心したのは
「乱暴者は許さん。・・・(長距離)バスの運転手はいわば船長だ。船長は乗客の安全に責任がある。外に出ろ!」という宣言。
A bus driver’s like the captain of a ship.
The welfare of the passengers is his responsibility.
・・・・・Just step outside.
生まれてこの方、喧嘩に負けたことのないボーが「望むところだ、腕が鳴るぜ」とばかり大言して受けてたった。
ところがまったくの予想外で、ボコボコにノック・アウトされてしまう。
コテンパンとはこのことだろう。それまでのボーの傍若無人ぶりに反感を抱いた観客には溜飲の下がる場面だ。
その様子を、まじかで見ることとなったシェリーも気が気ではない。
実はこのバス運転手、レスリングの元チャンピオンだったという。
まさかの惨めな姿を晒したボーは、これまでにない屈辱のなか、約束どおり全員に謝罪しなければならいハメになった。
このあたりの決闘のルールと勝敗への潔さ、大げさに言えばフェアプレー・スピリットには大いに感心する。
古きよきアメリカの健全なモラル感覚が、眩しいほどに好ましい。「自治」の精神も垣間見える。
いくら教養も文化もない野生そのままのカウボーイであっても、戦いの勝敗のルールがしっかりと社会共通に根付いていることを見逃せないと思った。これが「アメリカ人」のひとつの規範感覚なのだろう。
戦争に負けた日本人は、今更あれこれと未練がましいことを言うべきではない。謝るべきものは潔く謝れば良い、というところか。
確か、ブッシュとゴアのときに超僅少さで勝敗の決まった大統領選があった。あんなに爽やかなルール感覚で、あっさりと勝敗を認めることができた態度は好ましかった。
単純だけど、これはアメリカ人と付き合うための心得になると思った。
そして、ここにはある「智慧」が示されていると思う。
暴れ牛のようなボーを矯正するためには、もはや問答無用の「鉄拳制裁」が必要な段階だったのだろう。ここにいたる伏線としての、ボーの性格描写の理由も、ここに収斂するのだと思う。
戦いに倒れたボーを抱きかかえながら、後見役のヴァージルが言う
l’m sorry it had to be like this.
「荒療治ですまない。」
どこまでも「男の教育」過程なのだ。
そして映画はいよいよクライマックスに近づく。