そもそもゾルゲがソ連赤軍第4部のスパイとして日本に派遣されて来たのは、この極東の島国の挙動が新興ソ連の将来にとってますます危険な脅威に映ったからだろう。
当初ゾルゲの任地は、中国だった。(1930~32年まで)
中国大陸に東側から膨張してくる帝国日本の動向を直接分析する必要性を強く意識していたに違いない。31年の満州事変による侵略、32年には日本の事実上の傀儡国家「満州国」が成立した。
よくも他人の敷地を土足で蹂躙したものだと思うが、この頃、日本だけでなく世界中が弱肉強食の帝国主義だった。わずか80~90年前のことだが、あからさまな軍事行動がことを決する、野蛮な時代であったといえる。正当性などあと付けの理屈に過ぎなかった。
今も、そうした傾向はあまり変わってはいないようだ。科学技術の飛躍的発展と宣伝技術の高度化が、なおさら狡猾さと破壊力を増大させただけに見える。
政治や外交に「道義」や「公正さ」を求めることじたいがそもそも無理なのだろうか。「信なくんば立たず」などというフレーズはほとんど死んでいる。
ゾルゲが日本での最大の協力者となった朝日新聞の尾崎秀実と出会ったのは、当時中国最大の国際都市・上海だった。中共シンパのアグネス・スメドレーの紹介だったようだ。
ゾルゲの活動は帝国主義諸国が利権が複雑に交錯する疎開地での秘密任務だった。これを終えてモスクワに一時帰国したゾルゲが、冗談交じりに次の任地は「日本にでも」と軽口をたたいていたところ、それが本当に実現してしまったのだと言う。成り行きはそうかもしれないが、これも「運命」というものだろうか。人の人生行路を後になってトレースしてみると、一見自分で決めたようで、その実はもっと奥深い因縁が働いたように見えることがある。
その日本がゾルゲの最終の地になってしまった。
まさかこの極東の島国で、1933年から摘発を受ける41年まで8年近い、長く苦しい諜報活動に就くことになるとまでは想像しなかったころだろう。さらに獄中生活が3年。このドイツ人とロシア人を両親に持つ国際スパイの人生は、深いところで日本の「運命」にも繋がっていたのだろうか。
ほとんどの日本人が閉ざされた情報空間のなかでいわば精神の窒息状態に陥り、頭に血がのぼって冷静さを失ったような昭和初期。アウトサイダーの視点で、この不可解な島国の「生態」をクールに分析してみせたゾルゲの寄稿文は、21世紀前半の今を生きる日本人である私に、様々な示唆を与えてくれるように思った。
「『現代史資料24 ゾルゲ事件』みすず書房1971年」のうち、ゾルゲの日本研究の論文を収録した「ゾルゲの見た日本 2003年 みすず書房」を丹念に読み解くことは、自分の生きた戦後日本の成り立ちを考える上で、大いに学ぶところがあった。
本書の中で、「日本の軍部」と「東京における軍隊の叛乱(2.26事件)」は併せて読むことが奨励されているが、後者を先に読んだほうがとっつきやすくて面白い。この2作品は、それぞれ当時のドイツの雑誌「地勢学雑誌」に1935年8月号と1936年5月号にドイツ語で発表された。
原文を翻訳したのは、巣鴨拘置所でゾルゲの訊問の公式通訳をされた東京外語の生駒教授らしい。
ざっと関連年表を眺めてみると、35年(昭和10年)、世界的にはナチス・ドイツが「再軍備宣言」し、悪名たかい「ニュルンベルク法」を制定、そして国際連盟を脱退した。ヒトラーが政権を掌握し、大戦への道を歩んでいた。アラビアのロレンスがオートバイ事故で死んだ年でもあった。
ソ連では、モスクワに地下鉄が初めて開通したのもこの年だという。その社会主義がまだ若々しい活力のある時代だった。
一方、29年からは世界恐慌による資本主義経済の行き詰まりと大量の失業者の発生が起きた。そのしわよせは人々の生活を行き詰まらせ、人心は荒廃した。チャップリンの喜劇は、そんな時代の弱い立場の人々の哀歓を鋭く描いたのだった。
一方、日本では美濃部達吉博士が「天皇機関説」で職を追われ、第2次大本教事件が起きた頃でもある。罪の無い庶民の素朴な信仰が権力から凄惨な弾圧を受けた。時代の闇の深さを象徴している。
興味深いことに35年はNHKの国際放送がやっと始まった年でもあるらしい。今日と比べて、まだ世界の一体感は萌芽の段階だった。
翌36年(昭和11年)はアメリカでフランクリン・ルーズベルトが再選され、ニューディール政策が開始される。ソ連ではスターリン憲法制定、ドイツがラインラントに武力進駐し、ベルリン・オリンピックを国威発揚に利用した。
手塚治虫の漫画「アドルフに告ぐ」は、この大会に派遣された日本人記者が、不可解な事件に巻き込まれることから物語が始まっている。
日本では2.26事件の後に広田弘毅内閣、そして有名な斎藤隆夫の「粛軍演説」があった。現在の国会議事堂が完成した年なのに、皮肉にも政党政治はほとんどほとんど窒息寸前に追い込まれている。その間隙をついて軍部が台頭した。背景には国民の政党政治への不信があったようだ。
今、私の自宅から車で15分ほどの場所にある「大阪市立美術館」がこの年に開業したのも、初めて知った。クラシックな正面玄関の姿は、この時代のセンスを今日に伝えているようだ。

36年に発表された「東京における軍隊の叛乱(2.26事件)」を一読して感心したのだが、テレビのない時代に、この極東の首都の内乱事件を実に生き生きとしたドキュメンタリー・タッチで描いていて、読者の興味を巧みに引きつけている。この事件を詳細に分析する内容で、前年に発表した「日本の軍部」との連続性がうかがわれる。
「東京における軍隊の叛乱(2.26事件)」を一部引用してみよう。
「・・・2月26日の払暁、将校の引率で兵士の部隊が第一および第3連隊の兵営を出、完全武装でトラックに乗じ人通りの途絶えた東京の街を各方面に出動していったとして、別に人眼をひくはずもなかった。演習?それともついに満州へ出動? 毎日払暁に東京の中央市場へ買出しにゆく魚屋だけには、この朝突然軍隊の一つに道をはばまれたことが不思議に思われたに違いない。・・・・岡田首相の宏壮な官邸が間近にあるところで魚屋たちは何の説明もなく兵士たちのため阻止されたのであった。突如官邸街で、一斉射撃が響き渡った。・・・・」(28ページ)
首都機能の麻痺ぶりについても
「・・・・鉛のような重苦しい驚駭が東京の空を蓋っていた。すべての責任ある官庁の機能は麻痺し、政府は何一つ発表をしなかった。陸軍省でさえ公式の態度を表明できず、その機能も参謀本部のそれも麻痺状態と化した。・・・・・これから何が起るか誰にもわからなかった。・・・・」(31ページ)
とドキュメンタリータッチで書き進めたあと、ゾルゲはこの事件の意味を以下のように論述している。
「・・・・・暗殺とその後の叛乱に関係した軍人の数(1400名余り 筆者注)からも、全く新しい異常な意義を有している。日本の文民内閣は一挙にして葬られ、同時に日本特有の『元老』制も崩れ去ることとなった。今回、暗殺計画の激情を煽り立てたのは個々の人間ではなく、ある制度、政治的経済的原理の代表者であったことが、以前に比べて明瞭に現れている・・・・」(37ページ)
決起した青年将校の行動は、決して突発的な思い付きではなく、それまでにマグマのように蓄積されてきた、陸軍内部の「国家改造」への要求を行動に移したものと見ている。
「・・・・新しいのはただ反乱軍が用いた方法である・・・・」(41ページ)
その背景には
「・・・・陸軍部内におけるこの過激な政治的潮流の最も深い原因は、日本の農民と都市の小市民の社会的貧困である。多年来、日本の工業と金融業は好景気を謳歌していたが、同じときに上述二階層(農民と都市小市民 筆者注)の間には忍びよる危機が緊迫した段階に達していた。日本の将校団のほとんど50パーセントは地方と密接な関係をもった階層の出身者である(中流または富裕な農民および地主の息子たち)。他の大きい率を占めているものは都市の小市民階級の出身である。したがってこれらの階層の窮状は特に将校階級に集中するに相違ない・・・・さらに兵士のほとんど90パーセントは地方出身である。これら農民には政治的機関がなく・・・・」(42ページ)

広汎な農民の階級的利益を代弁する政治的回路はなかなかった。そして軍人になっても、その政治参加を禁じられていた。だから、
「・・・・・まず最初に軍がこれらの地方と都市の人民層のますます激しさを加える緊張の伝声管となり機関とならざるを得なかったわけである。この結びつきに東京師団の叛乱の最大の意味が存在している。・・・・・」(42ページ)
という具合に、下級兵士や青年将校の苛立ちと不満が臨界点を超え暴発した。
叛乱では閣僚を含む多数の政治家が死傷したが、特に蔵相の高橋是清暗殺について
「・・・・・高橋はいろいろの政府で10回も指導的な役割を演じ、日本の内閣制度で典型的な代表者であった。彼は議会制度の発達と早くから密接な関係を持つと同時に、叛徒から特に憎悪されている政党政治の代表者でもあった。・・・・・彼(高橋是清蔵相)は叛徒の間では日本金融資本のシンボルと目され、その法令の下に国軍の要求や農民の社会的要求が阻止されていると信じられていた。・・・・・」(37-8ページ)
と述べている。
「・・・・しかし日本歴代の政府は決して日本の国家的政治機構の唯一の決定的政治力ではなかった。・・・・新日本の建設者明治天皇の最も親密な協力者たちの間から出た西園寺公は・・・・他界した『元老』たちとともに日本の政治権力の真の中枢となっていた・・・」(38ページ)
ので、決起将校が打倒をめざした主たる標的(君側の奸)の一つでもあった。そして
「彼らは『元老』の代わりに軍の顧問を天皇の側近に置くことを希望した・・・・・」(39ページ)
のだった。
それにしても、政治経済はもとより、精神生活も含めた社会全般の刷新を自分たちが主導するなどという、いわゆる「昭和維新」は、いかなる思考回路がもたらした妄想だったのだろう。
ゾルゲの分析は続く。
「・・・・・陸軍部内でほとんど公然と支配していた『日本主義』という思想は『皇道理念』と全く同一物で・・・・・」(40ページ)
と指摘している。
しかし、紙幅の関係もあるのだろうが、その「日本主義」思想の内容にまでここでは立ち入ってはいない。社会経済的な分析に絞っているのは、さすがに「国体」の機微に触れるような体制批判は、敢えて避けたのだろうか。
巧妙にジャーナリストになりすまして、日本で諜報活動をしている以上、共産主義者としての正体を見透かされないように、という警戒心もあるのだろう。ゾルゲは偽装「ナチス党員」としても、同盟国日本へのさり気ない配慮を散りばめながら、巧みに論をすすめる。
2.26事件に決起した青年将校の壮途は無残な失敗に帰した。
彼らは腐敗した政党や財閥、更に「君側の奸」(と主観的にみなした)を排除して天皇親政の国家社会主義を標榜したのだが、こともあろうに当の天皇自身の断固たる意思で「逆賊」とみなされたのだ。
それは「天皇の最終的な警告と命令だった!」(34ページ)
これが「下士官兵に告ぐ」という戒厳司令部の通達になった。

彼らの悲劇をゾルゲは
「・・・・・若い兵士の多くはこの蜂起が何を意味するか全く知らなかった。彼らはただ直属上官の命令に従っただけである。異常な冬の寒気、不眠と食糧不足の三日三晩ののち、彼らが天皇のために尽くしたのではなく、むしろ天皇から逆賊と呼ばれていることを知った。政府軍がその陣地に突入する寸前に彼らは道義的に崩壊した・・・・・・」(34ページ)
と伝えている。
かつて愛国青年らしい意気に燃え、第一次大戦に18歳でドイツ軍兵士として参戦した自らの挫折を思い起こしていたのかもしれない。
結局、いちばん利を得たのは軍首脳で、青年将校の処刑を尻目に、まんまと所期の目的である政治介入を深めた。経済や文化が行き詰まると、発展途上国では不幸な武断政治が台頭する場合が多い。日本も例外ではない。
そして、いつの時代も、どのようなイデオロギーの場合でも、しばしば青年の純粋な「激情」を老獪な「おとな」の政治が利用する。
「・・・・・広田新政府の構成、特にそのプログラムはもはや、彼の作品ではなく、陸軍が今までほとんどなかったほど強力に新内閣に対してその意思をおしつけた。・・・・・叛乱後こそ陸軍は著しく優勢に立つに至った・・・・・その政府に対する政治上の役割は断然強化された・・・・・」(43ページ)
敗戦後の東京裁判で、唯一文官でありながらA級戦犯として絞首刑に処せられた広田弘毅の運命を暗示するような事態を、この時点で正確に分析して見せた。
また、5・15事件━━海軍の青年将校を中心とするテロであったといわれている━━とは異なって2.26事件では「・・・・・驚くべきことに、日本海軍はすべてこれら重大な動揺や論争から超然としていた。・・・・・海軍の毅然たる態度と団結こそは叛乱の拡大を阻止する重要な寄与をしたものである。・・・・・」(44ページ)
という指摘も、逆に言えば、その後の戦争指導での陸海軍のみっともない相克を暗示していると思える。
ゾルゲの分析には勿論、尾崎の情報や見識も反映されていただろうが、やはりわずかな年月で、これだけの観察眼を養っていたことは高く評価してよいと思う。しかも、ソ連のスパイでありながら表向きはドイツの雑誌特派員としての寄稿文なのだった。
ことばの壁さえなかったら、これだけの観察眼を同時代の日本人一般と共有できただろうと残念に思う。ゾルゲの冷静な分析力は、今日から見ても高い水準を達成していると思った。