新田開発の意図・・・・・河内平野の近世史4

今、私は大阪府の河内平野に隣接する上町台地東端(大阪市内)に住んでいる
西方は、はるかに生駒山地を一望できる。

上町台地から河内平野、生駒山地を望む

江戸時代、広大な河内平野の畑地には綿作が広がり、初夏には綿花が一斉に咲き誇ったことだろう。

中河内の鴻池新田は当初、移住者120戸、男女あわせて750人(村抱百姓)、そのほか近在の農民の入作者(入作百姓)360戸だった。(「江戸時代の上方商人」 作道洋太郎 教育社歴史新書 1978年)

「鴻池もこの事業に失敗すれば、その後における鴻池の発展はみられなかったであろう」(同書)というほど、家運を掛けた新規事業参入だったのだという。
この新田の開発には、はじめは大坂京橋の土木業者と河内の庄屋の名義で開発資本が投じられた。その直後に落札が行われ、大坂東町奉行与力・万年長十郎の役宅で鴻池善右衛門宗利に譲渡されたという。
新田開発は、複雑な権利関係の回路を経て最終的に鴻池に落着した。他の新田の場合も、同じように複雑な経過が見られる。

しかし、これは初めから鴻池に渡すための内々の出来レースだったのかもしれない。
天下有数の富豪、鴻池が最初からいきなり新田開発に参入することを憚ったのかもしれない。だとすると、その慎重さは今日もよく見かける、いかにも談合社会の日本らしい、ホンネと建前の使い分けや根回しだろうか。
そもそも万年長十郎自身が、江戸表と中甚兵衛の間に立って大和川付け替えを推進した役人(堤奉行)だった。はじめから、鴻池の有り余る財力を新田経営に利用する算段だったかもしれない。

大坂町奉行、ひいては公儀の立場からは、米作作況の良し悪しに関係なく、年貢を安定的に取り立てることができるからだ。
案外、それが「大和川付け替え」に方針転換した主たる目的だったのかもしれない。次第に苦しくなってきた幕府の台所事情が動機にあったように思える。全国的に幕府・諸藩が新田開発を奨励した時期でもある。
面白いことに、新田請負者には商人や庄屋に交じって東本願寺なども名前を連ねている。今日、お寺が多角経営で駐車場や幼稚園、介護施設などに投資する姿に似ている。「地獄の沙汰もカネ次第」などという怨嗟の声も、江戸時代に始まったのだろうか。

鴻池新田は旧新開池を中心に開発したものだが、湖沼はかつての大和川が運んできた砂地で、水田には向いていなかったが水はけは良かった。そのため7割が畑作で、そこでは綿作が奨励された。

綿の花
綿の花

しかし、鴻池家自身が実綿や綿製品の取引を行ったという記録はないという。研究者によると、農民が栽培した綿は在郷の仲買い人が買いいれたらしい。河内平野の中には戦国時代からの伝統ある寺内町(久宝寺、八尾、平野郷、富田林など)があって、そこでは酒造や木材取引とともに綿取引の流通拠点がすでに成立していたのだという。これに加え大坂市内にも幕府の許認可を得た木綿取引業者がいて、直接間接に河内木綿の流通に関与したらしい。鴻池が敢て参入して波風を立てるよりは、「棲み分け」を選んだのだろうか。

中河内地方に位置する八尾市民俗資料館の説明によると
「・・・・・八尾市や久宝寺などの在郷町や、周辺の村々に木綿を扱う商人たちが増え、仕入や販売の競争がはげしくなりました。宝暦5年(1755)には、八尾の木綿商人の仲間と、高安山麓の木綿商人仲間が、商売の仕方についての取り決めをしています。(宝暦5年正月「山の根きくみ定書」西岡文書、八尾市資料編)」とある。

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高安の里の木綿買(『河内名所図会』より。彩色は八尾市民俗資料館)
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八尾市民俗資料館ホームページから

上図は在郷の木綿取引や綿織りの様子であり、下図は大坂の木綿問屋。
北河内は、幕府から特権的な許可を得た大阪の仲買商人やその下請け人が木綿を扱う場合が多かったらしい。中河内以南は在郷の仲買商人たちが取引の主役であったようだ。それぞれ「組」という仲買いグループを形成していた。
この在郷木綿商人たちは幕府の直接統制下ではないので、比較的自由度が高く、江戸時代後期に入ると、近江方面にまでたくましく販路を広げていたことが記録から伺われる。
いずれにせよ、中河内北側に位置する鴻池新田の農民も、自家で紡いで消費する以外の余剰実綿を、こうした仲買商人に売って換金したのだろう。すでにかなり商品経済が発達していたようだ。河内木綿は庶民の衣料だった。

では、そもそも鴻池屋が家運を賭けてまで新田開発に乗り出した理由は、何だったのだろうか。

歴史的にみると、17世紀後半からこの時期、最盛期を迎えていた大坂商人たちは、それまで築き上げた空前の財力を維持し継承する守成、安定期へ入ろうとしていた頃のようだ。

織豊政権の末期以降、権力から特権を付与されて上方経済の興隆と大坂の町作りに貢献してきた商人たち・・・・角倉了以、淀屋常安などの初期の特権的豪商が活躍した時代を受けて、17世紀には鴻池、三井、住友のような新興勢力が台頭した。
しかしこの時代はまだ、強固な封建的幕藩体制の支配力が生きていて、富豪といえども当局のお墨付を得てこその商売だった。
公共の福祉に抵触しない限り、経済活動の自由が保障されている今日とはだいぶ事情が異なる。

一方、幕藩体制の経済構造は、年貢米という現物収納が基礎なので、新しい商業・流通経済の発展や高度化する貨幣経済のメカニズムに追い付かず、次第に財政事情を圧迫してきていたようだ。
平和の到来した江戸初期は農業生産力が高まり、商人が生産物の取引を仲介して、米をはじめ商品経済と物流の仕組みが高度化し貨幣流通が発展した。
特に大坂は江戸に先んじて日本有数の商業の拠点となった。この時代の通貨には金、銀、銭があり、当時、日本の銀産出量は世界一だったという。

複雑なことに大坂の通貨は銀、江戸はおもに金で取引されたようだ。一方では手形による取引も発展したから、これらの交換のために「両替商」が登場し経済活動の重要なプレーヤーに成長した。彼らはやがて両替の手数料収入だけでなく、集まった資金で信用貸しや預金業務も担った。
この経験が、今日の金融業につながる基礎となった。

我ながら不明の至りとはこのことだが、日本の金融業はやっと明治になって、その初歩から西欧に教えてもらって発達したのだろう、くらいにしか思っていなかった。

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こうして幕府諸藩の財政の窮乏化とは裏腹に、酒造、物流、コメなど農産物取引、両替のような近代的な経済活動を発展させた商人の財力と金融ノウ・ハウは社会を左右する影響力を持つに至った。やがて、豪商による「大名貸し」などという、いわば大名宛ローンみたいな「借財」に依存しないと苦しい財政を賄えない藩が続出する事態となった。

18世紀中葉の濃尾三川の治水事業のときも、薩摩藩はすでに66万両もの借金があったが、そのうえに更に工事費を捻出するため、大坂商人に借財をせざるを得なかった。
こうした有様は否応なしに支配階級たる武士には、深刻な体制危機と映ったことだろう。

従って、武家政権からみて、特権的な立場を得て大きく台頭した商人たちには、かえって強い警戒心も高まったのだろう。ましてや厳しい身分制社会の秩序感覚からして、下に見ていたはずの商人風情の財力に藩政まで左右されかねない状況は、由々しい事態と思われたに違いない。

その象徴的な出来事が「淀屋5代目辰五郎」の事件(宝永2年1705)だったのだと思われる。ちょうと大和川付け替えと新田開発の時期だ。

秀吉、家康以来のいわば特権的門閥商人である淀屋の全財産没収と追放(闕所という)という処置は、こうした時代の変化を象徴する大事件だったようだ。

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現在の「淀屋橋」。かつて、豪商・淀屋によって架けられた橋と言われ、橋名はそれにちなんで付けらた。この付近に、かつての淀屋の広大な家屋敷があった


その理由は、商人の分際で奢侈な生活が身分に過ぎた振る舞いとして、当局からのお咎めを受けたというのだが、むしろこれを口実に巨額にのぼった幕府への調達金や大名貸しをチャラ(棄捐令に近い)にする意図が、暗々裏にあったのではないかと推測されている。

徳川恩顧の淀屋辰五郎ほどの大富豪でも、一朝事あればかくもたやすく幕府に潰される事件は他の商人たちにも他人事とは思えなかったのではないだろうか。

「『淀屋の闕所』から鴻池、住友、三井などの新興町人が学んだ教訓は、『拡大』よりも『安定』ということであり、『攻めの経営』から『守りの経営』に転換し、『経営の多角化』よりも『一業専心』の徹底をはかるということであった。享保期において、鴻池・住友・三井では、いずれも『家訓』を制定し、家業の永続や資産の維持をはかる体制を強化したのも、新しい時代に対応しようとする企業家精神の現れであった。」
(「江戸時代の上方商人」 作道洋太郎 教育社歴史新書 1978年)と分析している。

淀屋の碑
淀屋の屋敷跡

新興商人たちは、権力との緊張感のある微妙な綱引きを経験しながら、自ら築いた地位と財産を、どう保守して子孫に後継するかに腐心し始めたのだろうと思う。

寛文10年(1670年)幕府から公認された「大坂10人両替商」としての特権的な地位は、幕府の意向のもと経済を統制するために付与された立場でもあった。
両替商たちは共同して出資して、米価の安定など、いわば今日の中央銀行的な役割を仰せつかった。しかし、それは絶えず「御上」の鼻息を伺う御役目だし、経済に疎い幕閣の都合でいつなんどき風向きが変わるかもしれない。
「大名貸し」も、「貸し倒れ」という大きなリスクを孕んでいる。事と次第によっては借金の理不尽な踏み倒しもあり得る。なにしろ相手は身分が上なのだ。封建制社会の身分差別の桎梏は、今日の民主的な平等感覚とは程遠いものがあったことだろう。

さらに江戸、京都、大坂という3大都市経済圏も元禄期を過ぎると、ほぼ経済の飽和期に入ったのだろう。あとはパイの奪い合いという、激しい競争原理が働くから、安閑としていては、いつ没落の憂き目を見るかもしれない。実際、歴史の激流にもまれて、消えてしまった豪商もあったようだ。

鴻池屋が18世紀初頭、新田開発という新規事業に巨費を投じた背景にも、ひとつは子孫末代までの事業体の存続を企図したのではないだろうか。
それは商業資本を、土地と農民の労働力に投資することだった。

我ながら素人作業だが、今少し経営という観点からも見てみたい。

(続く)

“新田開発の意図・・・・・河内平野の近世史4” への2件の返信

  1. 楽しく読ませていただきました。
    子供の頃、鴻池新田に住んでおりました。
    現在、和歌山で中学校社会科の教員をしております。
    河内の地誌をゆっくり読みたいです。
    テスト問題を作る傍ら、問題用の画像検索でここがヒットしまして、しばし休憩させていただきました。
    では失礼いたします。

    1. 善右衛門様

       コメント有難うございます。びっくりしました。
      私のような素人のブログを社会科の先生に読んでいただくとは思いませんでした。
      先日、田舎の中学同窓会で社会科の恩師にお会いしたばかりなので、不思議な御縁
      を感じました。
      有難うございます。

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