Les Εnfants dυ Ρaradis 天井桟敷の人々   文化の勝利

フランス映画史上の最高傑作として名高い。

ナチス支配下で制作され、パリ解放直後に初上映されたという稀有な作品。改めてフランス映画文化の水準の高さを痛感させられる。

監督はマルセル・カルネ。脚本は著名な詩人のジャック・プレヴェール(「枯葉」の作者)で、文学的な名台詞に溢れている。

耳に快い響きのフランス語。
まったく理解できない自分を、とても残念に思う。

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バチスト(左)とギャランス(右)

プレヴェールは「皆でアイデアを出しながら脚本を作った」と述懐している。また、ユダヤ人で美術監督のトロネール(ファシズム政権下のハンガリーからの亡命者)の証言によれば「私たちは親友同士で、仕事もいつも一緒でした。・・・・お互いに助け合い、刺激し合って、仕事を続けました・・・素晴らしい時代だったと思います。」(山田宏一 わがフランス映画誌1990年)と証言している。

映画製作に集まった人々の熱い情熱と強い友情に支えられ、カルネとプレヴェールの組合せは、1930年代後半から合計7本の名作品を世に出した。「天井桟敷の人々」はその頂点といわれる。
いちどさらっと見ただけで、作品の奥深さをすべて把握することは難しい。

もともとのアイデアは、主役のバチストを演じるジャン・ルイ・バロー自身が提案したという。
本作の舞台は19世紀中葉のパリ。日本では「天保の改革」あたりの時代。

「犯罪大通り」というあだ名の大通りを再現した。そのセットの規模は400メートルに及ぶという大作だ。通りに面して芝居小屋、見世物小屋が立ち並んで賑わった。民衆が蜂起して始まったフランス革命から半世紀後のパリ。どこの芝居小屋でも犯罪ものが大流行だったので、このあだ名がついたのだという。

ちょうど江戸時代の浅草や道頓堀みたいなものだろうか。洋の東西を問わず庶民文化の姿は似ているものだな、という感懐がわく。民族や伝統の違いを強調するよりも、人間としての共通性に着目するべきだろう。

犯罪大通り

一番観覧料が安い「天井桟敷」は、劇場の舞台から最も遠い天井近く。一目ひいきの演技を観ようと、鈴なりの人だかり。
芝居が成功するかどうかの鍵を握るのは、案外、この騒がしい庶民観客の反応次第だ。僅かだが、金を払った以上は容赦ない評価を下す。むき出しの歓声を獲得できるかどうか。こうした「ポピュリズム」は罪がない。

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1500人のエキストラが当時の身なりに扮した。歴史的な街並みを再現して小道具をそろえるだけでも、莫大な費用と周到な準備が必要だった筈だ。

「偽りの愛」と「真実の愛」

豊かな個性、強い魅力を持つ登場人物が、生き生きと織りなす色彩豊かな愛憎劇。一言で言って、この物語の主旋律は「偽りの愛」と「真実の愛」のコントラストにあると思う。しかしそれはあくまで表層だ。

よく観ると、なかなか奥深く多層的に入り組んでいる。全体として、とても重厚華麗なつくり。観るたびに新しい発見をするだろう。ともかく一筋縄ではいかない。
また、映画自体がナチス支配の監視下をかい潜った強者でもある。

その中で主演女優アルレッティが演じる不思議な魅力の女性ギャランスにまず着目したい。この女優は1898年生まれだから、映画に登場したときはすでに40代の前半。
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映画ではギャランスを巡って、4人の男が交錯する。いずれもアクの強い人物。
犯罪者で詩人のラスネール。舞台俳優フレデリック・ルメートル。パントマイムの青年で、通称バチスト。そして富豪のモントレー伯爵。

ラスネール、ルメートル、バチストは実在の人物をモデルにしているが、男たちの複雑なからみの中心点に立つギャランスは創作された女性らしい。女優アルレッティの魅力を引き出せるように考案、演出したものとだという。

すでに年増といって良い年齢の女性。作品中で明かされるが15歳で母親と死別した身の上。その母親も捨て子だったという。ギャランスは、険しい世間を女ひとりで生きるために様々な生業を経たらしい雰囲気が伺われる。
バチストと出会う頃には「犯罪大通り」の、いかがわしい見世物小屋のストリッパーであった。
裸体を売るような呼び込みで、その実は湯船に肩から上だけしか露出せずに終わるいかさま。思わず笑える。先払いなので入場料は戻らないしかけ。「騙されたほうが悪い」というような世知辛さ。

(私の子供のころ、岐阜市内のある神社の境内では縁日のときに「見世物小屋」があった。怖いもの見たさで見たことがある。人権文化が進んだ今日では、とても考えられないことだ。よく似ているなと思いだした。)

ものに動じない身のこなし。能面のように薄い眉で、感情表現が淡い。謎めいた微笑みには、不気味なほどの冷静さが漂う。しかし、その表情に油断はない。心と表情を使い分けているかのようだ。
妖しい美貌の持ち主だが、憂き世の荒波の中で鍛え上げた孤独な落ち着きを湛えている。

かたやそのギャランスに恋い焦がれてしまう、もうひとりの主人公バチスト。(役はジャン・ルイ・バロー)
以下は映画のあらすじ。

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バチストの出で立ち

映画では30歳前後の青年という設定だろう。
バチストは「犯罪大通り」の芝居小屋「フュナンビュル座」で、親子で役者稼業をしていた。
幼少から父親の虐待に近い調教で、パントマイム役者に仕立て上げられたのだ。
黒のナイト・キャップ、長く白い上着に哀愁漂う眼のピエロ、この出で立ちで無言劇を完成したという実在の人物。
これまた、不思議な魅力に溢れている。

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呼び込み舞台上で静止するバチスト

それはある日・・・・・劇場前の呼び込み舞台でのことだった。
ふとしたことから、窃盗の嫌疑をかけられたギャランスをバチストは目撃者として自らの演技で救う。フランス映画らしい見事な「文化力」だと思う。「理詰め」でよりもはるかに雄弁で説得性があるからすごい。
着衣も顔も、全身が白無垢。柔らかく繊細、巧みな動作。
即興劇は、その場に集まった聴衆の喝采を浴びた。

バチストは見事なパントマイムでギャランスを救う
バチストは見事なパントマイムでギャランスを救う

助けてもらったギャランスが、胸につけていた一輪の花をお礼に投げ与えた。
このセンスがしゃれている。

これをきっかけに、バチストはギャランスの妖艶な美しさの虜になる。

その夜、たまたま酒場に現れたギャランスを再び目撃。
見ると、危険な悪党ラスネールの女なのだった。しかし、バチストの眼差しにはギャランスしか見えていない。いったんはラスネールの子分に店から追い出さたやに見えたが、見事に跳ね返す。意外にやわではないのだ。

パリの街の灯を見下ろす高台(モンマルトルか)にデートしたところで、バチストの性急な求愛。百戦錬磨のギャランスからすれば、それは余りに純情で一途だった。
「まるで子供みたいよ。そんな愛し方は夢の中よ・・・恋なんて簡単よ。」ギャランスの名文句に酔ってしまう。
こういなされて、うぶなバチストは同じ宿に泊まってもそれ以上に進めない。人間の「格の差」というのだろうか。むしろ、たまたま同宿した俳優ルメートルに横取りされてしまう。

やがてバチストの紹介で、身寄りのないギャランスもフュナンビュル座の無言劇で働くようになる。同じころ、一座にはルメートルも所属して仕事を始めた。

このルメートルはバチストとは好対照に、実生活でも粋な台詞を連発する練達の舞台俳優。生活態度もいちいち演技じみていて、人生と舞台との境界線が曖昧な男。つまり性格は奔放で憎めないが、人生もでたらめ。とても愉快なキャラクターだ。

ギャランスはバチストと出会った夜にも拘わらず、その晩からルメートルと同棲してしまっていた。

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憧れの女神ギャランス(右)に恋い焦がれるバチスト(左)

フュナンビュル座の「演劇」は、現実世界との「入れ子」になっていて、バチストはいつもかなわぬ夢を追い求める、悲しきピエロを演じている。
劇中劇でも憧れの女神(ギャランス)を遊び人のバイオリニスト(ルメートル)に横取りされてしまう。ファンタジーがリアルを入れ子にしているような、興味深い演劇手法だ。
ひとつひとつの場面がまるで絵画のキャンバスのように見える。

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ナタリー(左)とバチスト(右)

一方、座長の若い娘ナタリー(マリア・カザレス)はバチストに激しい思いを寄せていた。
ところが、ひたすらギャランスを想う恋心にとりつかれてしまったバチストは、ナタリーの愛に相応しい対応ができないでいる。ギャランスはさっさとルメートルの女になっているから、なおさら焦心に苦しむ。
年配の女性の魅力に嵌った青年の病なのだろう。母親の愛を知らずに育ったからだろうか。

妖艶なギャランスがこのまま一座に留まれば、バチストはますます苛立ち、愛憎の葛藤を嵩じるだけだ。
座長の娘であるナタリーの手前もあり、いずれは去らねばならない運命だった。

そこにギャランスの舞台を見初めたモントレー伯爵が登場、財力と権力を誇示しながら彼女に言い寄る。
しかし、ギャランスは伯爵に「偽りの愛」しかないことを見抜いて、即座に拒否する。
「馬鹿にしないで」

ところがある日、悪友ラスネールとの共犯の嫌疑を警官から受け、これを逃れるために結局は伯爵の庇護に身を寄せた。
こうして彼女はフュナンビュル座を去り、伯爵とともに遠国へ去ってしまう。

以上が第一部「犯罪大通り」。
いよいよ第2部は「白い男」。

ルメートルはやがて無言劇に飽き足らず、セリフのある舞台に鞍替えする。
そこでも、脚本家のシナリオを舞台で勝手に書き換えて即興で演じてしまうような自信家なのだが、これがかえって観客に大いに受ける。恥をかかされた脚本家の決闘を受けることになるが、彼にしては珍しく時間を守って決闘場に登場。ところが二日酔いでふらふら。これが笑わせる。
前日ルメートルを恐喝に来たはずのラスネールと、逆に意気投合して、一晩痛飲してしまったからだ。なんとも愉快な展開だ。やることが憎めない。

借金を断られたらルメートルを殺すつもりだった初対面のラスネール。ところが会ってみたその場で「どうせあぶく銭」だからと、持ち金を半分あっさりと分けてしまうルメートル。金にこだわらない潔さ。
かなりの悪党らしいが、ラスネールがたんなる泥棒ではなくて、むしろなかなかの脚本家でもあると知ったとたんに、意気投合してしまうのだ。話は一筋縄ではない。

今ではバチストはフュナンビュル座でパントマイムが大成功して、座長の娘ナタリーと夫婦になり一子を設けている。ナタリーはバチストを強く愛し満足していた。子供さえも父親にちなんで「バチスト」と名付けている。

そこにルメートルが久しぶりにやって来た。ある情報を伝えるために・・・・。

ここで、回転劇のように運命は巡る。

古着屋
ナタリーにささやく「古着屋」

面白いのは、このストーリーの狂言回し役として要所要所に登場する「古着屋」。彼は同時に「情報屋」であったり「占い師」「預言者」であったり、あるいは登場人物の心理を言い当てもする。いかにも舞台作品らしい。

ギャランスは物語の展開の中でラスネールの愛人であったり、ルメートルと同棲したり、モントレー伯爵の女になったり、といった次第で次々と男を遍歴するが、心ではバチストとの「真実の愛」を忘れない。
むしろ、バチストの純粋な愛情を自らの支えにして、孤独を生き抜いてきたのだった。

今は伯爵の女として、上流階級の貴婦人であるギャランス。しかしパリに帰ってくると、お忍びでフュナンビュル座の特別席(個室)に来る。バチストのパントマイムを観劇するためだった。
このあたり、一見平凡な夫婦にもありそうな「真相」を衝いていて、興味深い。多くは表面に露呈しないだけだから「平穏」であるに過ぎない。
お金や身分と、「こころ」は別次元なのだ。ギャランスは、厳しい人生の現実をそう割り切って生きてきたのだろう。

伯爵との間は「偽りの愛情」に過ぎないが、それを隠しも否定もしない自然流にギャランスは到達していた。
猶更にモントレーは嫉妬深くギャランスにまとわりつく。イギリスに滞在した時も、ギャランスと笑顔を交わしたというだけで一人の青年を決闘で殺してしまうほどだ。それでも伯爵はギャランスの「こころ」を得られない。

久しぶりにフュナンビュル座を覗いたルメートルが偶然、彼女に出会ったのはそんな時。よりを戻そうとするが、ギャランスは今もバチストが好きなのだという。自信家のルメートルは初めて「嫉妬」の感情を味わった。
そこでルメートルは舞台が引けた後、バチストにギャランスが来ていることを耳打ちしたのだった。

雷に打たれたような衝撃がバチストに走った。

もはや忘れようとしてきた過去。だが、バチストは一気にギャランスへの恋心が蘇ってしまった。そのため動揺して演技に身が入らない。ナタリーは夫の「急変」に気づいた。夫婦の「平穏」が、かくももろく崩れるところに「運命」の深淵が覗くのだろう。人の「こころ」は一筋縄ではいかない。

運命の露悪家「古着屋」もギャランスの存在をナタリーに知らせたのだった。
ナタリーは幼い息子を使いに遣り、「バチスト一家の平和を壊さないでほしい」と伝言させる。
ところが面白いことに、この男の子は(母親からバチストと呼ばれていて)美しいギャランスを見て「大人になったら、あなたと結婚する」と言うのだ。底知れない「運命」の怖さを象徴しているかのようだ。

一方、父親のバチストは心の平静を失い、仕事を放りだしてギャランスと初めて出会った宿に籠り、今様に言う「引きこもり」になってしまう。

ところでルメートルも今やパリを代表する名優として一世を風靡していたが、それまでは、どうしてもシェークスピアの「オセロ」の心を演じることができていなかった。

だが、かつて同棲したギャランスが今もバチストに寄せる思いを知って、初めて「嫉妬」に身を焦がすオセロを演じることができるようになったのだ。
見境なく女性に声をかけるプレイボーイで浪費家のルメートルだが、バチストへの嫉妬心を自らの「芸」の肥やしにできるという人物でもあった。この芸術的才能こそ優れた演劇俳優の資質なのだろう。
ラスネールもギャランスが伯爵の虜でありながら、少しも伯爵に心を許してはいないことを知っていた。だからこそギャランスを求めている。

大団円はルメートル演ずる「オセロ」劇の大成功のあと。
華やかな俳優や観客たちの交歓の場面。

まず、それぞれルメートルの演技を観に来たギャランスとバチスト。
幕が引けた帰るさで、出会いがしらに「運命の再開」を果たした。6年ぶりだったが、互いに引き合う心は強まることはあれ、少しも色褪せてはいない。

ギャランスは言う
「あなたのことを忘れたことはないわ。夢にまで見たわ。おかげで齢もとらず、馬鹿にもならず、堕落もしなかったのよ。空虚で孤独な生活だったけど、悲しんではいけない、幸せなのだと思っていたわ。私を本当に愛してくれた人もいたのだからと・・・・」
(この映画の中で、もっともすばらしい「殺し文句」だと思う。)

初対面の日がたちまち蘇った。

バチストは前後の見境を失い、全てを投げ打ってでも添い遂げたい。灼熱砂漠で水に飢える旅人が、緑のオアシスに出会ったような、魂の渇き。

一方シェークスピアの「オセロ」を下層階級の演劇と卑しむモントレー伯爵は、劇の成功に沸くルメートルにわざわざ皮肉を述べにやって来た。オセロに自分の似姿を嗅ぎ取った・・・・・つまりあてこすりを感じたからだ。

ところがそこにはルメートルの友人ラスネールがいて、逆に満座の中でモントレー伯爵に大恥をかかせてしまう。伯爵を揶揄したあげく、バルコニーで抱擁するバチストとギャランスの決定的な瞬間を、伯爵もろともその場で皆に暴露したのだ。
それは伯爵こそが偽りの夫婦を演じる俗物で、「嫉妬心の塊」であることを、衆目の中で見せしめにするためだった。ラスネールもギャランスを恋していたが、地位と権力でギャランスを奪い、囲っている伯爵を許せなかったからだ。

お高くとまった偽善こそ「犯罪者ラスネール」にとって本当の悪だった。

もともと日陰育ちだからだろうか、子供のころから犯罪を重ねて来たラスネール。娑婆と監獄を平然と出入りしてきた。その激しい情念が懐中刃の切っ先と化し、伯爵に向かった。こうして「天敵」の伯爵を、ラスネールは浴場で刺殺してしまう。

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バチストを問い詰めるナタリー

この間にバチストとギャランスは思い出の宿屋で初めて一晩を共にするが、そこにナタリーが子供を連れて飛び込んできた。

抱擁する二人を見たナタリーは、妻としてバチストを問い詰める。
ただうろたえるだけで、ろくな返事もできないでいるバチストを後目にギャランスは、去り際を心得て再びその場を離れてゆく。

それでもバチストは妻子を振り切って、必死になってギャランスの後を追う。
時あたかも、「犯罪大通り」街はカーニバルの喧騒で人々が溢れかえっている。
踊りに沸く人々にもまれ、阻まれて前に進めないバチスト。

そこに例の「古着屋」が登場。
「祭りは終わった。もう家に帰れよ」と嘲るように、バチストに言葉を投げる。
子ども扱いされたバチスタは怒るが、まさに後の祭り。
人々の渦の中に溺れてゆく・・・。

一方、踊り狂う民衆でひしめく「犯罪大通り」の中を馬車に乗って去るギャランス。その表情はやはり能面のような静けさで、まんじりともせずに正面を見据えている・・・・。実に感慨深い去り際だった・・・・・。

ざっと流れだけ追ってみたが、この程度の貧弱なストーリー紹介ではとても表現しきれない重厚な作品だ。imagesT26JR393

すでに中年のギャランスと無垢の青年バチストの年齢差。バチストには母親の存在がないことにも気づく。幼い時から父親の過酷な調教の中で演技を仕込まれたバチストには、成長過程で「母性」が欠如していたことにも一因があるのかもしれない。

世の辛酸を舐めてきたギャランスにとってバチストの思慕は余りに純情一途。でも、そこには「心の真実」がある。だから、「おとなの愛」で受け止めている。ギャランスにとっても「心の真実」だからだ。
しかし、それはこの世ではつかの間の逢瀬でしかない儚さであることを、彼女は知り尽くしている。

白装束はバチストの純粋さを象徴するかのようだ。
無垢で一途な情熱が、百戦錬磨のギャランスの心をストレートに射止めたのだ。ギャランスの固く冷えた心を溶かし、その中に「真実の愛」を宿らせたのだろう。

一方、ギャランス自身の生い立ちにも、両親の存在は希薄だ。

ふたりは、いずれも生い立ちに重大な家族的「欠損」を抱えている。彼らの人生は、この時代の「犯罪大通り」に生きる多様な境遇の庶民の典型だったのかもしれない。
皆、心のどこかに深い「欠乏感」や「飢餓感」を湛えているのだろう。それが観る側のたましいに共振するのだろう。

ともあれ、こうしてギャランスとバチストはこの世でたった一夜だけ結ばれ、再び別れるのだった。
「真実の愛」とは不条理にも、束の間にしか成就しないものなのだろうか。

ナチス支配の監視下で、この映画は3年近い日時を費やして制作された。
なんとスタッフのうち美術監督と音楽担当はユダヤ人だった。発覚すれば関係者を含めてすぐに粛清され、映画製作も中止になったことだろう。
つまり、命がけの厳しい緊張感の中だからこそ逆に、こんな歴史的名画を作り上げられたのではないだろうか。制作の背景を知れば、映画を立体的に理解できると思う。

特に感心した場面をひとつ。
ギャランスに一目ぼれして、楽屋裏にこれみよがしの大層な花を届け、地位と財力・・・・つまりは俗世の「権力」を精一杯アピールして言い寄るモントレー伯爵を、「馬鹿にするな」とばかりに峻拒するギャランスの自尊心だ。
見ようによっては、当時のフランスとナチス・ドイツの立ち位置を寓意しているとも考えうる。
時節柄これはひやりとするほどに危険だ。気づかなかったほうが「負け」だと思う。してみると、そこに「文化力」の差があるのではないだろうか。

私には、ギャランスの気概に託した製作者たちの熱いメッセージが、ここに潜んでいると思える。すなわち、

「身」は従えられても「心」は奪われない、という人間の矜持。
つまりは、ストーリーの裏に「魂の自由と尊厳」を謳い上げたのだ。
弛緩した時代の「恋愛ごっこ」ではない。

今日もなお、世界中に「圧政」下に苦しむ人々がいる。
80年近い昔のフランスの映画製作者たちの英雄的な気概は、私たちに限りない勇気と希望を伝えてくれる。

命の危険をも顧みず、こんなに素晴らしい芸術作品を残してくれたことそれ自体が、偉大な「レジスタンス」だった。

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