「遠野物語」から(2)・・・平地人を戦慄せしめよ

「遠野物語」は、読者のイマジネーションを喚起する話に溢れている。

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遠野物語初版本

日本民俗学の創始にあたる記念碑的作品だとか、「学問」になる以前の文学的佳品と位置付けるべきだとか、評価は高い。
1910年の発刊当初はわずか350部の自費出版だったが、余り注目されなかったようだ。栁田自身も100年あまり後の今日、これだけ大きな評価を受けようとは想像していなかっただろう。
日本が西欧を追いかけ近代化にひた走るなかで、この作品はある種の「懐古趣味」のような受け止められ方だったのかもしれない。

その中で、特に私が印象深く読んだ「第99話」について、自分なりに吟味してみたい。本文は短い擬古文で以下の通り

「土淵村の助役北川清という人の家は字火石《ひいし》にあり。
代々の山臥《やまぶし》にて祖父は正福院といい、学者にて著作多く、村のために尽したる人なり。

清の弟に福二という人は海岸の田の浜へ婿《むこ》に行きたるが、先年の大海嘯《おおつなみ》に遭いて妻と子とを失い、生き残りたる二人の子とともに元《もと》の屋敷の地に小屋を掛けて一年ばかりありき。

夏の初めの月夜に便所に起き出でしが、遠く離れたるところにありて行く道も浪《なみ》の打つ渚《なぎさ》なり。霧の布《し》きたる夜なりしが、その霧の中より男女二人の者の近よるを見れば、女は正《まさ》しく亡くなりしわが妻なり。

思わずその跡をつけて、遥々《はるばる》と船越《ふなこし》村の方へ行く崎の洞《ほこら》あるところまで追い行き、名を呼びたるに、振り返りてにこと笑いたり。

男はとみればこれも同じ里の者にて海嘯の難に死せし者なり。自分が婿に入りし以前に互いに深く心を通わせたりと聞きし男なり。
今はこの人と夫婦になりてありというに、子供は可愛《かわい》くはないのかといえば、女は少しく顔の色を変えて泣きたり。

死したる人と物いうとは思われずして、悲しく情なくなりたれば足元《あしもと》を見てありし間に、男女は再び足早にそこを立ち退《の》きて、小浦《おうら》へ行く道の山陰《やまかげ》を廻《めぐ》り見えずなりたり。追いかけて見たりしがふと死したる者なりしと心づき、夜明けまで道中《みちなか》に立ちて考え、朝になりて帰りたり。

その後久しく煩《わずら》いたりといえり。」

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とある。一読して心に悲しいイメージが湧く話だ。

この物語は明治29年(1896年)の三陸大津波での被災者の話なのだが、今回の東日本大震災後の大津波で思い出されて話題になった。

三陸地方は近代に入って明治、昭和、そしてこのたびと3回もの大津波に襲われ多数の死者を出した。

この物語の主人公・福二は実在の人物で、その玄孫が実在しているという。彼の母は福二の孫にあたる人であった。そして実は、その母がまた気の毒にも今回の津波で亡くなったのだが、いまだ遺体も発見されていないのだそうだ。
テレビや新聞で紹介された。

明治三陸大津波 絵像
明治三陸大津波

思えば不思議なことだが、母は生前、玄孫にあたる息子さんに、これは家の先祖の話だから「遠野物語」第99話を読むように、と薦めていたという。福二のことは本家以外では、あまり大っぴらには語られてこなかったという。
今回、玄孫の方が取材に応じられ、新聞やテレビで紹介されたので、我々にとっても猶更に「遠野物語」が印象深く身近に感じられたのだった。

この話に触発されて、私自身も東京にいた頃、学生時代の友人F君が語ってくれた不思議な体験を思い出した。

F君は男の双子で次男だった。長男は生来、身体虚弱で、喘息持ちだった。
そして学生時代のあるとき、とうとうその兄は喘息の発作で死んでしまった。
生まれたときから一緒で、一番身近な兄を失ったF君は、見た目にも大いに気落ちしていた。今、彼にできることは亡き兄の冥福を真剣に祈ることだけだった。

そんなある日、彼が兄を偲んで自宅の仏壇に手を合わせ、強く祈っていた時のこと、突然に不思議な鈴の音が耳に入った。

驚いたことに、それは亡き兄が普段所持していたカギのキーホルダーに着けていた鈴の音であった。たまたま自宅にはF君以外には誰もいなかった。
遠くへ行ってしまった兄を思って悲歎に暮れていたF君だったが、このとき「兄は近くにいるのだ」とつよく感じたという。

別に姿などが見えたわけではない。
しかし、それは確かに聞き慣れた兄のキーホルダーの鈴の音だったという。

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F君は変なオカルト趣味で、私にこの話を打ち明けてくれたのではない。
彼はきまじめな性格で、都内の理系大学に通うごく普通の大学生であった。今は世帯を持ち、コンピューター関連の仕事をしていると聞いている。

この時は兄を失った直後の悲しみ、その喪失感との格闘の最中で起きたことを、ありのままに語ってくれたのだったと思う。話しに遊びはなかった。

この体験を真剣な表情で話してくれた時、お互いにまだ20代前半だったからもう40年近い昔だが、このたびの「遠野物語第99話」を読んで、私はありありと思いだした。

たぶん、以下の通りのような合理的な解釈を施すことが現代人の一般的な態度なのだろう。たとえば
曰く「喪の途上にあったF君は兄の鈴の音が聞こえたかのように『錯覚』することでもって、兄との永遠の別れを受け入れたのだろう。つまりその『鈴の音』は兄の死を受け入れるための『F君自身の無意識にある』一種の心的作用なのだ」
という具合。

そして、そんな場合によく使われる物言いに「ある心的事実」などという都合の良い言葉がある。
どこまでも「幻聴」であると言い募りたいのだろう。「合理主義」という刷り込みが、そういう物言いに貶めるのだろう。

確かにこのことがあって、二度と会えない遠くへ行ってしまった兄が、実は「自分とともにある」と感じられ、そのことによって、その後の人生を前向きに生きるためのきっかけとなったのかもしれない。つまり「喪」の効果を果したことは考えられると思う。

しかし、私はこうした説明だけでは、何かしら「不自然さ」「不充分さ」を感じる。実感との狭間で、何か大事なものがすっぽり抜け落ちているような感じがありはしないだろうか。あるいは、無意識に本質とか真相を回避しようとした作為すら感じる。

いわゆる「超常現象」をむやみに宣揚する気は毛頭ないけれど、科学的に説明がつかない現象をみると、なんとか「合理的解釈」の枠内に閉じ込めようとする態度に、現代人の「知的保身」の匂いを嗅ぐ思いがする、と言ってしまっては我見に過ぎるだろうか。
「臨死体験」なども、ハナから「脳内幻想」と決めつけたがる「科学」信仰は根強い。不可解な事実に対しては、もっと謙虚になる必要があるのではないだろうか。合理主義とは異なったレベルの態度で接することもできるのではではないだろうか。もちろん、いたずらに情緒に傾くロマン主義者を気取る意図もないが。

F君の場合、ずばり「本当に」亡き兄の鈴が鳴ったのだ、と捉えてはなぜいけないのだろうか。F君から真剣な告白話を直接聞いた自分としては、そう考えた方が実感に沿うし、それこそ「理にかなっている」と思える。
我々の思考様式が、「ない」とか「ある」とかという、いわば「言葉の罠」に陥っているのではないだろうか。ひょっとして、偏見や予断で世界認識に勝手な「制限」を設けているのかもしれない、と疑ってみてはどうだろうか。人間の認識力とその範囲を無制限に是認して、閉じた思考に籠もるのはむしろ危ういのではないだろうか。正確に模写しようとすればするほど「真相」から遠ざかってしまうパラドックスも有り得るのではないだろうか。

そして、「遠野物語第99話」でも主人公・福二の体験に、栁田國男は分別くさい説明など敢えて付け加えてはいない。読み手のイマジネーションを直に刺激して、深い余韻の残る擬古文にした。
そのほうが「事態の本質」を、読者がもれなく領解できるようになるのだと思う。

前文で栁田は言う
「この話はすべて遠野《とおの》の人佐々木鏡石君より聞きたり。・・・・・自分もまた一字一句をも加減《かげん》せず感じたるままを書きたり。・・・・・願わくはこれを語りて平地人を戦慄せしめよ。」と。

ここには、当時33歳で明治政府のれっきとした官吏の立場にもあった著者が、それにもかかわらず敢えて主張した意図があるように思う。
それがひょっとすると「柳田民俗学」の出発点の一つなのかもしれない。

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柳田國男

(2017年2月末 追記)
ここで、柳田のまねなど到底できないが、ありのままに以下個人的な体験を記す。

昨年10月末、亡母の3回忌法要を関西でした折のこと。
私には妹が二人いて、いずれも東京で世帯を持って生活している.。私は大阪で生活しているから、三人が揃うのは法事くらいだ。
私達3兄妹は、久しぶりに気分転換もかねて法要後に神戸有馬、奈良飛鳥を旅した。

それは、最終日の飛鳥での石舞台見学のときのことだった。

石舞台

順番を待っていると、私達より先に入っていた、女子学生の一団が明るく若々しい声をたてながら石室から出てきた。案内人の説明によると、どこかの修学旅行だということだ。若い女学生ばかりで、とてもにぎやかだ。しかもなんとなく品があるので、どこかの「お嬢様学校」かななどと想像しながら眺めていた。

そのときたぶん、私も上の妹も内心ふと思いついたのだが、はじめは言葉にしなかった。上の妹が「どちらの学校?」と訊くと
先頭あたりの女子学生が「私達『雙葉』なんです!」と、嬉しそうに答えてくれた。当然のことのように、まったく屈託のない応えかただった。

これには3人とも、心からびっくり仰天した。
なぜなら、「雙葉」は戦前からの博多のミッション系女学校で、亡母の母校だった。

博多の女学校の後輩たちと、まさか遠い奈良の飛鳥の、それも古代人のお墓の前で「3回忌」に出会うなんて、とても不思議な思いに捕らわれてしまった。直線距離にして600kmは離れている。

そもそも私達3人とも「雙葉」の女学生に会ったのは、これが実は生まれて初めてなのだ。二人の妹たちは、行ったこともないだろう。
私は、一度だけ母の同窓を訪ねて同行したことがある。戦前、母が学んだという木造校舎が残っていて、とても懐かしそうだった。

母は結婚後のほとんどを東京と岐阜で生活した。だから私達三人は折に触れて『雙葉』を懐かしむ母の思い出をよく聞かされたものだ。戦中派世代で苦労した母が、人生で一番楽しかっただろう女学生時代の頃の話を・・・・・・。

私には、今眼の前にいる、のびのびと軽快な声をあげる女学生たちが、なにか深い部分で亡母とつながっているように思えてならなかった。

この出来事が、当事者の私にはたんなる偶然とは思えないのだが、いかがだろうか。

(3に続く)