អង្គរវត្ត,アンコール王朝の興亡(1)  水利システムの構築

 どうしてこんなに偉大な文明がこの地に築かれたのか知りたくていろいろ渉猟してみた。素人なりに手に取れる範囲で、最も参考になったのは

講談社現代新書  「アンコール・ワット 大伽藍と文明の謎」石澤良昭著 1996年3月」

著者は生涯をこの文明の保存・研究に捧げた方らしい。
NHKの教養講座で聞いた著者とカンボジアとの出会いもまた興味深いものがあった。

それは別途紹介するとして、本書の第9章「水利都市としてのアンコール都城」を読んで、ひとつの文明の盛衰が素人目にもおぼろげながら見えてくるように感じられた。要点を引用してみよう。

・・・・『村の地主』が水利網の管理責任者
「アンコール朝の経済的繁栄を支えたのは、緻密に計算された水利灌漑網だということがわかっている。その水利システムは『バライ』という貯水池を中心に隅々にまで張りめぐらされた水路網のおかげであって、田地を恒常的に灌漑化することができたからにほかならない。・・・・開発事業として諸王が何代にもわたり推進してきたことが判明している。」
「アンコール朝の諸王の治世では、長期にわたる強力な統治はある意味で経済的繁栄をもたらした。」
「アンコール時代の農業経済は、ヤショバルマン1世(10世紀初め 著者注)が率先して『東バライ』を造営したことが以後の大きな推進力となったが、アンコール地域そのものが、もとから肥沃ではなく、常に水がなければ耕作ができなかったことも事実である。その水の確保のために大小のバライが必要であった。」(同書174-5ページ)

私はこのあとに続く指摘に注目すべきだと思う。
「これらのバライの開削と管理・維持は王の高官・補佐官以外の人たちによって司られてていたはずである。こうした組織者もしくは指導者のことが、ジャヤバルマン7世(1118年~ 著者注)治下の二つの碑刻文資料に載っている。それは『村の地主(グラーマドビット)』たちではないかと推定される。しかしながら、この人物がどんな人で、どんな役割を果たしていたかは、碑文の性向から判明しない。

 直接この碑文に当たったわけではないから。ここから先は想像するしかないが、碑文の「性向」という著者の表現からして、つまり、こうした歴史文書には諸王の業績として表に刻まれた讃嘆文などの背景に、今では氏名も残らない「現場責任者」たちが確かにいたのだという洞察が伺われる。

 これは、あらゆる文明史を学ぶ上でとても大事な視点だと思えた。諸王のさまざまな「実績」とされる成果はその王自身の能力もさることながら、さらに王朝をささえた同時代の無名の人々の存在をも象徴的に含意したといえるのだろう。これはたぶん日本の古墳遺跡などにも通じるのだろうと思う。〇〇天皇陵などという名称もまたそうしたものと受け止められるべきなのだろう。誤解を恐れずに簡略化すれば、名称はいわば「代表名」に近い。

アンコールワット 大伽藍と文明の謎 本_

「それにもかかわらず、これらの『村の地主』が碑文の文意からなんらかの高い地位や肩書きをもっていたようであり、経済活動を推進するになかで、ある役割を担っていたのではないかと推測できる。そして事実、その資料によれば、多くの水処理施設を整備し管理したのは王族以外の人たちであったことが暗示されており、碑文もこの非王家たちの仕事を称えている。」(同175ページ)

著者の推理は進む。
「王というものは、たいてい碑文のなかでは、決まり文句で『大地の卓越した所有者』として掲げられている。しかし、そうした大土地の所有者ということはお題目であり、精神面での大枠を提示していたにすぎない。・・・・しばしば土地所有者がその土地を寺院の神々に奉納するときに、王がその仲介者となったり、また王にこうした寄進の許可を求めたりしていることがある。・・・・それが定められた本当の法律上の義務であったというよりは、ある種の儀礼的な挨拶であったと思われ、実情はこれと異なるのではないかと思われる。」

 「これらの碑文の考察から、王およびその臣下の高官たちが水利網の管理や指導をしていたとは思われない。また実務面からいえば、そう簡単にできるものではない。水利網の維持・管理には長年の経験に基づき、水量の増減による水門の調節などの判断に秀でており、また村人たちを指揮して迅速に水路を確保できる人物でなければならなかった。いくら仕事だといっても、現実の耕作に携わらない王族たちにとっては臨場感がわいてこないものである。そこに住んでいて、地勢を熟知し、その時々で微妙な川底さらえや逃げ水の場つくりなども行わなければならなかった。旱魃もあり、洪水もあり、自然はそれほど甘くないのである。」(同176-7ページ)

まことに的確な指摘だと思う。現地での実証的な研究の蓄積が感じられる。
 いわゆる「歴史書」では、表に出ている人々だけの「事績の羅列」であることがいかに多いか。アンコール文明の碑刻文もまた、そこに記された王の事績にはそれを下支えした多数の無名の人々の貢献が土台にあったと考えるべきなのだろう。

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