「ローマの休日」登場の背景(2)・・・・永遠の青春映画

本編のテーマにとって格好の論考、吉村秀夫著「ローマの休日」(副題ワイラーとヘプバーン 朝日新聞社1991年刊)には、次のように詳説されている。

「アメリカ民主主義は、今も昔も世論ないしは世論調査で動くという性格を持っている。そのなかで非転向を表明することや、ましてや反撃は、この時期においては不屈の意志と思想性が必要であったろう。世論が急転回し、朝鮮戦争がはじまる中でますます抵抗は困難であった。いずれの国いずれの時代でも戦争は大方の人間をナショナリストにしてしまう。・・・・そんな狂気の時代にリベラルとしての節を守るのは、なまじっかの覚悟では不可能である。・・・・・」

ここはとても大切な指摘だと思う。
吉村氏も述べているように、日本の昭和初期から敗戦に至る過程では、マッカーシズムとは比較にならないほどの禍々しい狂気にほとんどの日本人が嵌ったことを忘れてはならないだろう。
それほどに「ナショナリズム」という社会現象には強い毒性が含まれているということだと思う。
この間の事情を知るためには、手塚治虫の長編マンガ「アドルフに告ぐ」なども格好の作品。

二つの大戦の戦勝国(今では多少の疑義も指摘されている)として、史上かつてない繁栄を享受した自由の国アメリカほどの民主主義先進国にあっても、40年代末から50年代まで吹き荒れた険しい政治的文化的反動は、我々に大きな教訓を与えてくれる。
民主主義制度が広範な大衆に依拠する以上、志の低い粗悪な政治家が、巧みな大衆迎合、扇動で登場する「ポピュリズム」の危険性はこれからも絶えないだろう。日本も同じだと思う。

視聴率や部数に左右されやすいマスコミ(=商業ジャーナリズム)もまた、これを助長する傾向がある。
大勢の赴くところ、気骨のある人々の足場はたやすく弱まる。

こうした現象が互いに増幅作用して一種異様な社会的興奮状態が昂じ少数派に不当なレッテル(「非国民」という蔑称)を貼り、ヒステリックに排除しようとする圧力が高まった。
今日のいわゆるヘイト・スピーチも同類なのだろう。

結局、正常化できる復元能力がその社会にどれだけあるかが、民主主義の強靭さをはかるバロメーターだろうと思う。
アメリカと違って戦前の日本は、民主主義がとても脆弱だったのだろう。
今はどうだろうか。

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ウイリアム・ワイラー

<「ローマの休日」製作の背景>

そんなときワイラーはグレゴリー・ペック(すでに俳優として名声を得ていたので、本来はこの映画の主役格だったらしい)を起用し地下活動中のダルトン・トランボのシナリオと知りながら、あえてその脚本を採用し、ハリウッドを避けてローマでこの映画を監督したのだった。

外地で製作したことには当時の世界経済事情もあった。
この時代、第2次大戦後の戦後復興を後押しするために、マーシャル・プランの一環としてヨーロッパや日本ではドルが凍結されていた。外貨流出を防ぐためだった。

「パラマウントが海外で凍結させているドルを資金にして映画製作するのを、パラマウントのプデューサーでもあるワイラーが一役買って演出を引き受けた。ドルを海外で使うことを基本とする・・・・」ためだったのである。(吉村秀夫著 「ローマの休日」173項)

内容からすると、戦前から本格的な芸術作品や社会派と呼ばれる問題作を手掛けてきたワイーラー監督の作品群の中で、この「ローマの休日」は異色の作品と言えるようだ。
評者によっては、それこそ「ワイラーの休日」とも呼べるような「脱線」だと見なすむきもあったという。
重苦しいハリウッドを避け、外地ローマでいわば「息抜き」としてお姫様のおとぎ話を映画化しただけ、というような冷めた見方が評者の中にはあったらしい。
むしろ、「政治的」な色合いを「脱色」したのではないだろうか。

吉村氏はワイラーの全作品の意味や手法を綿密に検討した結果、以下の様に解釈する。

「人間不信と裏切りの時代に人間信頼を貫く作品を作りたいと考えた。・・・・ワイラーの曲がり角が『ローマの休日』であったことから結果論として推測すれば、不信から信頼への転換は自覚的決意に支えられていたと考えるのが妥当である。トランボの原案(脚本)を読んだ段階で・・・・友情や人間的真実をうたいあげる作品がつくれると計算した・・・・」(179項)
「メルヘンに託して人間の真実と美しさを描き出している」(同193項)
「かくしてオードリー・ヘプバーンという稀有の女性を得、聴聞会でリベラルとして名前をあげられたこともあるグレゴリー・ぺックや、これまた『リベラルな人柄でも有名な』エディ・アルバート(ブラドレー記者の相棒役)の出演協力も得て『ローマの休日』は作られることになる」『ローマの休日』は、人間信頼の物語である・・・・」(同180項)

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若き日のオードリー・へプバーン

そうだったのか。
吉村氏の指摘を読んで、初めて私なりに合点がいった。

歴史の残る傑作の秘密が解けたような気がした。

<ローマの休日>

背景を念頭に、ストーリーをもう一度概括してみよう。

若いアン王女には、耐えがたいほど窮屈な公的な儀礼にがんじがらめのヨーロッパ訪問。
息苦しい宮殿を夜逃げした王女は、飛び込んだローマ庶民の世界で一日一昼夜のアバンチュールを楽しむ。

そこで偶然出会った、親切で紳士的なアメリカ人青年。デートの舞台はローマの旧跡めぐり、という異国情緒溢れる観光気分。

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スペイン広場「ローマの休日」

吉村氏の指摘で初めて分かったのだが、この典型的なお人よし、好感度の高いアメリカ人青年(グレゴリー・ぺック演じるブラドレー記者)像には、フランス圏からはるばるハリウッドにやって来たワイラー監督が託した「アメリカ人の理想像」が投影されていた。
グレゴリー・ぺック自身もまたリベラル派の俳優だった。

ユダヤ人の母を持つ若きワイラー青年自身もまた、新大陸アメリカに理想を抱いてやってきたのだった。

ブラドレー記者は身分を偽り、内心は王女と知りつつ、アン王女と手をつないで市内見学をエスコートする。これは一世一代の大スクープになると踏んだからだ。これで特別ボーナスを手に入れて、さっさとニューヨーク本社に帰ろう。
もう、こうるさい支局長にがみがみ言われる駐在員生活ともおさらばだ。

王女を取り巻くローマの庶民は皆、底抜けに明るくてとても親切な人々ばかりに描かれている。
ブラドレーの相棒のアービン(カメラマン役)も、これまた磊落なアメリカ人好青年。スクープ写真で金儲けできる、という下心でジョーに協力している。
アンにゆたかな髪を思いきって短髪にすることを所望される美容士さんも、屈託のない美しいアンに思わず好意を寄せ、その場でデートを申し込む。沿道の花屋さんから露天商など、皆が心温かく善良で好意的なのだ。

スクーターの交通違反を取り締まるローマ警察のゆるさ加減も含めて、すべてが「王女様」の冒険を心温かく見守ることになる。
まるで世界は彼女を中心に回っているかのようだ。

皆がアンの「冒険」をサポートしている。
皆がアン王女の味方になってしまう至福感。
いかにも若い女性のナルシズムをくすぐる。

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初めてのオートバイ「ローマの休日」

しかし、束の間の冒険が落ち着いてみると、王女の不在を心配し、帰りを待つ国民の声が耳に入った。彼女は我に返る。

実は内心で、アンはこの冒険が所詮「かりそめ」であることを自覚していた。たまさか出会った二人。互いに恋心を抱くなりゆきになったが、アンは「世俗世界」では生きられない自分を嫌でも認めざるを得ない。
だからこそ、一時のエスケープを楽しんだのだった。
二人の切ない会話には、アンの「諦念」すら滲む。若くて清純な王女様であるだけに痛々しい。

かくて彼女は初めて、この世に生まれた自らの「運命」にやっと正面から向き合うこととなる。「次期国家元首」たる、本来軌道に戻るのだ。
このとき、わずか一昨日に宮殿を逐電した「子供のアン」では、もはやなくなっていた。見事な変身を遂げたのだった。まるで幼虫が華麗な大アゲハ蝶に羽化したように・・・・。

翌日、ローマを旅立つ直前、宿舎の王宮での各国合同記者会見。

彼女を好きになってしまい、スクープを断念したブラドレーも、男の友情を守る相棒のアービンも、報道関係者として会見の最前列に並んでいる。

はじめは、記者たちの質問に王女らしく型どおりの返事をしていたアン。
しかし、その場にジョーを発見して心が揺れる。

ために、はしなくもアンのホンネが飛び出てしまう。
一番楽しかった思い出を尋ねられたアンは、思わず告白してしまった。

Each in its own way…….Rome! By all means, Rome.
I will cherish my visit here in memory as long as I live.
(どこもそれぞれに。。。。やっぱりローマよ! 何と言っても。この思い出を私は生涯忘れません。)

詩的な、とても美しいセリフだ。
想定外の発言に会場はどよめき、侍従は慌てる。
そう述べてアンはブラドレーに顔を向けた。

秘密を共有しているブラドレーは、質疑に託してアン王女とのことを絶対口外しない、という含意のメッセージを送る。

May I say (speaking from my own press service) we believe that Your Highness’s faith will not be unjustified.
(当社を代表しまして申し上げます。妃殿下の信念は決して裏切られないでしょう。)

見詰め合う二人。

やがてアンは階段を下り、記者たちに「握手」をサービス。侍従にとっては驚きの想定外の行動だった。
実は、ブラドレーとの「永遠の別れ」をしたかったのだった。

相棒のカメラマンは思い出の写真をこっそり贈呈。二人はスクープというカネ儲けよりも、人間の愛と信頼を優先したのだった・・・・・。

何回見てもため息の出るような、感動的な永遠の別れの場面だ。
それはアン王女自身の「青春」とのお別れのセレモニーでもあった、と言えるのかも知れない。

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永遠の別れ

マッカーシズムの聴聞会でずたずたに引き裂かれたハリウッド映画人に、もう一度「人間信頼」を恢復したいとの切実なメッセージを巧みに寓意したとも読み取れる。

これまでに考察した当時のハリウッドの状況からして、案外、真相に近いのかもしれない。また、そう考えると感動もより深まる。

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髪を切ったアン

また、物語は「女の子」が「責任を担う大人」に変身するイニシエーションでもある。
もはや我がままを言ってヒステリー気味だった少女アンではなくて、この世に生まれ合わせた自らの「運命」を、「使命」に代えて積極的に担う大人の女性。
その触媒には、ブラドレーとの淡い恋愛感情も含めた「冒険」があった。
まさに、アンの心理的な変身・脱皮を劇的に描いた「通過儀礼」としてのおとぎ話だったのだ。

ストーリーはアン王女の「変身過程」を、綿密かつシンメトリックに構成している。今思いつくままに記しても、憧れ、逃亡、冒険、希望、恐怖、恋愛、感傷、断念、受容といった青春期の心理過程が、かくも瑞々しくきっちりと描きこまれていることに感心する。

ここに、暗い赤狩りマッカーシー時代を耐えて生きたハリウッド映画人たちの、起死回生のターニング・ポイントを託したのかもしれない。吉村氏はそれを、何よりもワイーラー監督自身の創作意図として分析している。

<オードリーの登場>

こうした次第だからこそ、ハリウッドではまったく無名で「手垢のついていない」オードリーを採用したのかもしれない。

当初アン王女役の候補は、エリザベス・テイラーであった。

このころのオードリーのオーディション映像を観た。
没落したとはいえ、彼女の家族文化にはオランダ貴族を継ぐ気風があったのだろう。バレエで鍛えた痩身、優雅で可憐な身のこなし。その上、若々しい清純さ、周囲がぱっと光り輝く「華」がある。
俗にいう「オーラ」があった。

大陸出身のワイラー監督が描きたかった「ヨーロッパ最古の歴史を持つ家系の王女」のイメージに、相応しい女性であった。
しかも10代に、家庭の事情や戦争で苦労した経験があって、しっかりした芯のある女性だった。「ミーハー」ではない。
おそらく、母親からの躾の影響もあるのではないだろうか。

いずれにせよ、この映画には「永遠の青春物語」たる、深いゆえんがあったのだった。

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左からエディ・アルバート、ヘプバーン、グレゴリー・ぺック

一見すると、とても明るくて屈託のない「おとぎ話」のように見えるものの、実は「人間への信頼」の回復を切実に望むハリウッド人の強い思いが込められていた。それは、アメリカに希望を託した人々の理想主義の表れ、と見ることもできそうだ。
これこそ名作たるゆえんだろう。

だからこそ、「永遠の青春物語」として残ったのではないだろうか。
時代や世代を超えて、これからも生き残る名映画だと思う。

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