本書の第4章「軍事と金の”巨大な闇”」の章で明かされた「もうひとつのロッキード」といわれる「ダグラス・グラマン事件」の結末は、サラリーマンにとって身につまされる。
対潜哨戒機の国産化計画が白紙化された1972年10月9日の国防会議では、早期警戒機もあわせて白紙化された。実はそこにからグラマン社のE2C(早期警戒機)導入の道が開けた。取材班は方向を変えてE2CからP3C(対潜哨戒機)をめぐる疑惑に迫れるのではないかと考えた。
79年1月 アメリカの証券取引委員会は、グラマン社が自社の早期警戒機の売込みのため、日本の政府高官(岸信介・福田赳夫・中曽根康弘・松野頼三)らに代理店の日商岩井(現・双日)を経由して、不正資金を渡したことを告発した。
これはロッキード事件の3年後で、東京地検特捜部が今度こそ「ロッキード事件の借りを返すといった気持ちで」取り組んだ事案だったという。このとき特捜部長になっていた吉永祐介氏は「事件を任せられるのは村田(副部長)しかいない」と主任検事に指名していた。
ところが、今回の取材でその村田氏は
「あれは惜しかった。もう少しで迫れそうだったのに。ほとんどの実態をつかんでいたのに、何が足りなかったかのか。やり直せるならやり直したい・・・・」(192ページ)
と悔しさを滲ます。
ダグラス・グラマン事件は、元首相の岸信介の名前が取り沙汰されたこともあり、ロッキード事件以来のスキャンダルとして世間に大きなインパクトを与えた。しかし、E2Cの売り込みをめぐる賄賂の追及は、いつしかF4E(戦闘機)への追及へとシフトしたのだった。
グラマン社の代理店は日商岩井。その当時の副社長・海部八郎が議院証言法違反容疑で逮捕された。
海部の直属の部下・島田三敬は長年、軍用機ビジネスに携わってきた人物。当時、日商岩井の常務取締役として、直接にE2Cの売り込みにあたっていた。
前後6回にわたり島田の取り調べを行ったのは、ロッキード事件で公判検事を努め、リクルート事件では主任検事を努めた宗像紀夫氏。今回の取材で「島田については話したくない」と頑なだった宗像氏も、吉永資料の存在を知って初めて内心を明かした。
実はこの島田供述「要旨」が、なぜかロッキード事件の吉永資料に一点だけ紛れていたのだった。後になってみれば、それが吉永の意図的な「遺言のように」取材班には感じられたという。
宗像氏自身こう証言する。
「ロッキード事件の控訴審を3年担当したんですが、・・・・すべての捜査資料に目を通しました。その結果、(ロッキード社)トライスターで田中角栄を逮捕したというのは、そうした切りとり方で”収めた”という感じを強く受けたのです。それは、決して間違っていたという意味ではありません。
事件というのは、いろいろなものが混ざり合っていることが多いんです。ロッキード事件の場合、この筋書き、この組み立て方が一番真実に合っているというところだったと思います。ただ、光を当てる角度によって事件の見え方が違ってくるというのもありますし、・・・・弁護士の中に、検察の切り取り方が違っているのでは、と指摘する人も多くいました。もちろん、証拠がそろっていれば軍用機でもできるんですが、それをやりたくても(検察は)出来なかった。
(筆者注 ロッキード社のビジネスの柱は民間機よりもむしろ軍用機だった。ロッキード事件では当初、軍用機P3Cの疑いが捜査の『本線』だった。)
ですから、ダグラス・グラマン事件の時は、軍用機だけの話ですから、言ってみればロッキード事件のやり残しと言いますか、いわば敵討ちですよ。軍用機をめぐる疑惑を追及するということで、みんな緊張していました」(203-4ページ)
と述懐している。
ここで「そうした切りとり方で”収めた”」とか、「この組み立て方が一番真実に合っているというところだった」という宗像氏の証言は、とても重大なことを言っているのだと思う。そして、汚職事件捜査の複雑怪奇な現場事情をよく言い当てているのではないだろうか。
つまり単純化して言い換えれば、検察が証拠に基づいて描いた、いわば犯罪「ストーリー」を巡る攻防戦が法廷闘争となることを示唆している。検察が法と証拠をもとに筋書きを組み立て、それに沿う被疑者からの供述を取って作成したストーリー。その真実性を争う舞台が裁判なのだと。その切り取り方の「合理性」が争点だから、筋書きに違和感を感じる人もかならずいて、未だに「田中角栄無罪説」が公然と議論されるのだろう。
一方、定見のないマスコミが一知半解レベルの芸能タレントなどをコメンテーターに登用してワイドショーを組む場合がある。「視聴率」を稼がなければならないからだろう。少々根拠があやふやでも、断言したほうが勝ちというような、荒っぽい議論が拡散する。マスコミのポピュリズムといっても良い。結果、また新種の「都市伝説」が人々の間に沈殿してゆく。素人目に見てもその傾向は最近著しい。一方向の報道であるだけに、あくどい印象操作が満載。言いっぱなしの責任はほとんど問われない。登壇者は知らず知らずに権力地場の虜になっていく。
こうなると、なおさら真実を見極めることが難しくなる。
ところでダグラス・グラマン事件では、キーマンであった島田に対する取り調べの大詰めで悲劇の「どんでん返し」が起きた。1979年1月31日堰を切ったように具体的な内幕を供述し始めた翌日、島田は遺書を残して自死したのだった(謀殺説もある)。その一部が紹介されているが、これは読むのが辛い。
もう「死語」に近いと思うが、高度経済成長を支えるサラリーマンの姿を「会社人間」「モーレツ社員」あるいは「企業戦士」「社畜」などと揶揄した言葉があった。
発表された遺書を読んだとき、これほどの悲劇はないと思った。
眼の前の仕事に脇目も振らず取り組んだ挙げ句の「企業戦士」の最後がこんな痛ましい末路となるとは。企業へ就職することにためらいすら覚えた。
これといって社会に大きな期待もない私は仕方なく平凡なサラリーマンになっていたが、就職が決まったとき、「やれやれ。これで飯の食いっぱぐれだけはなくなったなぁ。」ぐらいの感想しか持てなかった。
70年代後半、会社の将来と自分の人生を「不可分」と思うような生き方はあまり魅力がなかった。
アメリカ人学者の「ジャパン・アズ・ナンバーワン」などと歯の根の浮くような「よいしょ」に、まんざらでもなさそうな笑顔で応える某総理大臣の写真を見て、強い反感を持ったものだ。キャンパスの言論空間では、「敗戦の焦土から立ち上がり、世界に冠たるたる『経済大国』を築いた」などという筋書きそれ自体が欺瞞だという主張が多かった。たぶん、この総理大臣の時代認識と学生のそれの間には埋めようのない断絶があった。
見通しのない新左翼運動に同調はできなかったが、他方で「おとな社会」への幻滅感は広がっていたと思う。
ニュースを見ると、つましい生活の庶民感覚からは想像もつかないような札束が政界には飛び交っていた。「カネ、カネ、カネ」の風潮が蔓延しているように見えた。田中元首相がそうした反発や不満の格好の標的に見えた。
ところが、ダグラス・グラマン事件も結局、時効で政治家への追及はできずに、裏金の一部を当の日商岩井の幹部らが私的に横領したことを事件化しただけで終わったという。
島田氏の自死には多くの同情論もあったと思う。これまた未解決事件だった。
憎むべき政界の巨悪はやはり逃げおおせたのだ。
悪人が大手を振って跳梁跋扈できる政治とはなんという不条理だろうか。笑い話にもならないが「子どもの教育」にも悪いと思う。
「正義」が実現できないような社会は不幸に決まっている。21世紀入ってからの日本の「停滞」も、その一つの原因はここらあたりにありそうだ。
「彼は政治家だ」など言う場合、それはすなわち「あいつは悪人だ」というニュアンスに近いことが多い。
それは日本の戦後保守政治に、澱のように積もり積もった国民の「政治不信」があるからだろう。
ことに若い世代の政治への無関心、投票率が低い原因は、親の代から続く政治家(屋)への失望感も大きいのではないだろうかと思う。その一方で、なぜかむやみに「政治屋」になりたがる人もいて、目を覆いたくなるほど「戦後民主主義」は劣化している。まるで鳥獣戯画図の有様。
「百年河清を俟つ」などというとぼけた言葉が思い浮かぶのだが、やはりここで諦めてしまっては、ますます暗い未来しか日本にはないだろう。