スペイン映画「汚れなき悪戯」

1955年スペイン映画

キリスト教にはまったく無知な自分にとって、カトリックの信仰に接する良い機会を与えられた映画だった。
また、すぐれたモノクロ映画の特徴だと思うが、画面の陰影効果が素晴らしい。これがカラーだと、かえってイメージが分散して、映像効果が弱くなってしまうのかもしれない。
少年の無垢なあどけなさ、物悲しげで美しいテーマ音楽も心に沁みる。

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ストーリーは、ある僧院のお祭りにまつわる由来話。
カトリックの宗教施設の催事由来を、子供たちに物語るという形になっている。

極東の異教徒に過ぎない自分でも、純真無垢な信仰こそが神の救いに預かるのだ、という強いメッセージは伝わってくる。心揺さぶられる名映画だ。

よく見ると、信仰心の薄い世俗的な登場人物が要所要所に配置されている。だから人によっては「説教くさい」と受け取るむきもあろうと思うが、「信仰の有無」がはっきりとしたコントラストに描かれている。宗教映画と評される所以だろう。

それを批判しようと思えば、それこそ目くそ鼻くそで、なんとでも言えるのだろう。
でも、これだけ文明が発達して、物質的に豊かにはなったが、むしろ心の貧しさばかりが目立つ。そして人間の本質的問題は少しも 解決していない。だから、21世紀の今、古くて新しいテーマ、「神さまと人間」を考えるために、謙虚な気持ちで観たい。

修道院の門前に、生まれたばかりの捨て子として置き去りにされた主人公マルセリーノは、12人の修道士たちの温かい愛情に育まれ6歳になった。この世界ではやはり、「使徒」は[「12人」なのかもしれない。
背景には「貧困」があるのだろうか。そこは描くまでもないことなのかもしれない。

ある日、マルセリーノはふとした出会いから母親の存在に開眼する。それはまったくアカの他人なのだが、マヌエルという同い年の息子を持つ若く美しい女性だった。

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母親はマヌエルを捜しているのだが、その途中でたまたまマルセリーノに出会った。

彼女はマルセリーノの父母を尋ねる。マルセリーノは孤児として修道院で育てられているので、母親はおらず、父親の代わりが12人いると応えている。
いくら修道士たちがマルセリーノを大切に育ててくれていても、母親の身代わりではないことをちゃんと自覚しているのだ。

ひと時の出会いのあと、彼女はマルセリーノと別れるのだが、そのあと、この若い母親がマヌエルを捜し出す場面はないし、マルセリーノとマヌエルもまったく出会うことはない。
しかし、この一瞬の出会いが幼いマルセリーノの行動に劇的な変化を起こすのだ。

マルセリーノは無意識のうちに、会ったこともないマヌエルを自らの心に内在化して孤独な対話・・・独り言・・・・を始める。
村から離れた丘の上の修道院で育ったマルセリーノには、家族も友達もいなかった。

修道士たちは、それでなくても悪戯盛りのマルセリーノに新たな奇癖が加わり、当惑する。
遊びながらぶつぶつと独白をはじめたマルセリーノを見て、修道院の院長は、不自然な発育環境にあるマルリーノの孤独感が原因であることを見抜いている。

いっぽう、世俗的で信仰心のない村長はマルセりーノの悪戯を口実にしてまで修道院の明け渡しを迫る。
修道院にとっても、マルセリーノの悪戯がやっかいな課題になりつつあった。

やがてマルセリーノの奇癖は発展して、修道院の2階にある十字架のイエス・キリスト像との対話を密かに始めるのだ。

なぜか、物置の奥に「秘仏」のように置かれているキリスト像。

マルセリーノはパンと葡萄酒を食堂から盗んできて、痩せこけたキリスト像にこっそり捧げるようになった。
これは端倪すべからざる宗教行為だと思う。

「パンと葡萄酒」をキリスト像に捧げるという、すぐれてキリスト者らしい行為だが、見つかれば「盗み」としてお咎めを受ける。修道僧たちには内緒にしているのだ。

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そもそも、2階に勝手に入ることを禁じられていたからでもある。

母親を求め始めた時からマルセリーノの行動は、次第に内面化している。修道士たちはその意味を測りかねて密かに監視する。まだマルセリーノを幼い子供に過ぎないと思っているからだ。

そして「奇跡」は起きる。この映画の最も感動的な場面のひとつ。

パンを捧げるマルセリーノにキリスト像が応えるのだ。
それまで無言であった彫像のキリストが、マルセリーノの捧げたパンに手を差し出して受け取る瞬間。
ここからは信仰の世界だ。
そして、実はこのあとを見ようとはしない態度こそが「現代文明」の特徴なのだと思う。

その手には十字架に張り付けられた釘穴が、確かに刻印されている。まことに主キリストの御手なのだ。マルセリーノの信心が、主キリストにつながった荘厳な瞬間を感動的に描いている。
いわゆる神仏に縁の薄い私ですら感動の瞬間だった。

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かくして誰も知らない修道院の2階で、マルセリーノはキリスト像との孤独な対話を重ねてゆくことになるのだ。
そして「私が誰かわかるか?」というキリスト像からの問いに対して、幼いながら、マルセリーノはそれが「主キリスト」であるとはっきり応えている。
ここでおそらく、マルセリーノの信仰心はすでに「完成」しているのではないかと思える。
純粋な信仰こそが神意に届くのだ。

だからこそ、主は彼の切なる願いを聞くのだろう。

無論、彼の願いは天にいる母に会うこと。母性への強い思慕が動機なのだろう。しかも彼はキリストの母親・・・・マリアに会いたいと望む。

かくて純粋無垢の願いは叶えられた。

それはマルセリーノがこの世から天に・・・・神の国へ召される、ということ。

異変に気付いた修道士たちは2階に駆け上がり、そこで図らずもマルセリーノが主イエスによって召される「奇跡」に立ち会うことになる。

戸口からキリスト像とマルセリーノの姿をかいま見る修道士たち。
この場面は非常に荘厳な宗教的イメージを喚起する。

まるで中世の宗教画を見るような、とても感動的なシーンだ。
マルセリーノは望み通り主イエス・キリストに抱かれて死ぬ。

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幼い 薄倖の孤児が、母のいる神の国へ召されるという物語。

その受け止め方は、人によってそれぞれ異なると思う。
マルセリーノがあまりにかわいそうだ、神は残酷だという反発もあるだろう。

確かに哀しい話なのだが、神を信じる人々にとっては、同時にまた、神に召される感動が深く心に刻まれるのだろうと思う。孤児マルセリーノの切なる願いが叶うのだから、それが彼にとって最も幸せな決着・・・神の恩寵を与えられたのだと。

哀切に満ちたテーマ音楽がとても効果的だと思う。後味の悲しさが募る。

更に想像をたくましくすれば、マルセリーノは実は神の「使い」だったのかもしれない。たんなる孤児ではなかったと、修道僧たちはやっと気づいたのだ。

こうした受け止め方は、信仰者にとっては決して「幻想」ではないのだろうと思う。篤信の人はそれをしも、「真理」なのだと主張されるのだろう。

合理主義があらゆるレベルで人間社会を貫徹している今、かえって現世は激しい苦悩と葛藤に満ちている。戦争や自然災害の恐怖、人生や社会の不条理に翻弄される人間界。

環境負荷を考慮しない欲望本位の経済成長が人類の生存をすら脅かしているではないか。
弱肉強食を旨とする上部構造の歪みが、陰湿な「いじめ」や「虐待」を増幅しているように見える。

だから「彼岸」とか「神の世界」に思いを致すのは、人間のやみがたい切実な欲求なのだろう。
そう感じない人はむしろ「獣性」に支配され身を任せているだけなのだと。

議論の分かれるところだろうが、物語は人間の根源的な宗教的欲求を示唆していると思う。

そうでなければ、このように心揺さぶられる感動は説明がつかない。

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その意味で、この映画は非常に優れていると思う。

ただしそれが1950年代のスペイン、つまりフランコ将軍独裁のファシズム
体制下の作品であることも見逃せない観点だと思う。

この映画の宗教的な価値はとても高いのだろうと思うけど、同時に、ファシスト政権や保守的なカトリック教会にとっても、体制を維持するためにはとても好都合でもあった、という批判も無視できない。

“スペイン映画「汚れなき悪戯」” への2件の返信

  1. ありがとうございます。

    子供時代に観た本映画の断片的記憶があり
    題名も判らず検索をして辿り着きました。
    感謝でございます。

    ラストのシーンは一生忘れ得ないほどの衝撃的感動でございました。

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