「ローッキード事件」(3)マスコミの立ち位置

「秘密解除ロッキード事件」2016年7月 奥山 俊宏著 岩波書店

秘密を解除された大量の公文書を前に、いわば道なき道をかき分けてこれだけの情報を拾い上げ、相互関連を照合しながら「ジグソーパズル」のように組み合わせて「ロッキード事件」の全貌を解明してゆく過程は、さぞかし労作業だったことだろう。

もちろん、本書の読み手としてひとつ留意しておかなくてはならないのは、この作業の結論は基本的に朝日新聞の社論、報道姿勢の筋からははずれていないということだろう。

最終章である第9章「考察」では、ロッキード疑惑が浮上した直後の1976(昭和51)年2月15日付け朝日新聞の社説を引用している。
「見落としてはならないことは、米国に日本政界の弱みを握られていて、果たして日本の国益が保てるのか、という懸念が国民の間に長く尾を引くことである。米国の真相秘匿で政治生命を永らえた政治家が、かりに政権の座についたとき、米国に対して大きな負い目を持ち、いわば首根っこを抑えられる恐れが出てくる」(「秘密解除 ロッキード事件」280ページ)

すでにこの時点での社説が著者の「論考」の基本的な道筋であって、そこに収束している。

「『米国の真相秘匿で政治生命を永らえた政治家が、かりに政権の座についたとき、米国に対して大きな負い目を持ち、いわば首根っこを抑えられるおそれが出てくる』との懸念は払拭されただろうか。払拭されていないし、断定もできない。
40年を経たロッーキード事件は今の私達にそうした疑問を突きつけている。」(288ページ)

この指摘は意味深いと思うが、朝日新聞のロッキード事件へのまなざしは変わらなかったということだろう。
確かに、私達の生きた日本の戦後社会が、あらゆる局面にわたって良きにつけ悪しきにつけ「アメリカ」の強い影響下にあり、その出発点を辿ると敗戦直後に始まった占領政策に多くの起源があると気づく。憲法もそうだ。
 日本の「戦後民主主義」とは、もっぱらアメリカをお手本とする政治体制だった。私のような戦後世代にとって、それは当然のことだった。しかし、今はそのアメリカじたいが根本的に揺れている。

昭和初期の愚かな指導者に率いられた日本が国策を過ち、その果てに米国を相手に勝算のない戦争に突入した結果に違いないと思う。アジア太平洋の人々にも甚大な被害をもたらしたうえ、日本史上未曾有の敗戦を喫し、これ以上ない屈辱のなかで「無条件降伏」に追い込まれた。
家族を失い、先祖以来の家産を消失した多くの国民の悲惨があった。そのうえに有史以来はじめての外国軍の「占領」を受けたのだ。

マッカーサー

日米にわたるロッキード事件の騒ぎを、より大きな戦後日米関係史から俯瞰して、まずアメリカの日本占領政策を振り返り、それが1948(昭和23)年を境として、リベラルな民主化政策から反共体制へ反転してゆく過程を次のように述べている

「戦後、占領下の日本に対して、米国は当初、武装を解除して戦力不保持を誓わせ、財閥を解体し、農地を開放し、労働組合をつくらせ、戦争協力者を公職から追放した。それが1948年暮れごろを境に『逆コース』に転換していく。再軍備を促し、朝鮮戦争に掃海部隊を参加させ、共産党員を職場から追放し、戦争協力者の公職追放を解除した。いずれも同じ米国がやったことだ。
それと同様に、ロッキード社やCIAの工作を暴こうとした米国と、疑惑に蓋をしようとした米国があった。議会の中にも、政府の中にもそれぞれが同居していた。
(※筆者注 おそらく、朝日新聞の社論は初期の占領政策をおおむね「是」と見なしているのだろう)
このように、アメリカは一枚岩ではないのだから、『虎の尾』を日本の保守政治家に踏まれることを快く思わず、作為・不作為によってその保守政治家に嫌がらせをしようという米当局者がいた可能性も十分にある。田中を徹底的に軽蔑したキッシンジャーもその一人だった可能性がある。『田中角栄はアメリカの虎の尾を踏んだ』との説の主要部分は誤りだが、それでも、それを荒唐無稽だとして切って捨てるほどの確信が私にあるわけではない。」(同286ページ)

ここではジャーナリスト田原総一朗の事件直後の記事・・・・中央公論76年7月号の「アメリカの虎の尾を踏んだ田中角栄」を指摘しているようだ。今回、米国で公文書を解析した結果、当時の米国の政治事情はもっと複雑であって、田原が言うほど単純化はできないと言っているのだろう。
「『田中角栄はアメリカの虎の尾を踏んだ』との説の主要部分は誤り」との指摘は、具体的に言うとこういうことだろう。「日中国交回復」や独自の「資源外交」を展開した田中元首相が、アメリカの政界財界から見ていわば「出過ぎたマネをした」ことへの「制裁」を受けた、と言われるような証拠は、今回の資料調査の中にはなかったということだ。

私自身も、これまではどちらかというと「アメリカの虎の尾を踏んだ田中角栄」という通説をなんとなく無批判に受け止入れてきた。電車内の中吊り広告のような、どぎつい表現ほうが耳目には入りやすく、その印象が定着しやすいからだ。

ただし、「アメリカが風邪をひくと日本が熱を出す」という例えの方はそう大きく外れてもいないようだ。
ロッキード疑惑発覚の経過については

「ロッキード事件は、1976年(昭和51年)2月4日、米議会上院で暴露された。多くの日本人の目にはそういうふうに映った。しかし、米公文書を追っていけば、別の物語を描くことができる。『1976年2月4日』ではなく、その前々年からアメリカ国内では企業献金の暴露をめぐって熾烈な闘いが繰り広げられていた。・・・・・ウォーターゲート事件の余波で、あらゆる不正の暴露に追い風が吹いていた。・・・」(同80ページ)
「ニクソンは、ワシントン・ポスト紙の若手記者による調査報道によって追い詰められ、田中は、立花隆の率いる月刊誌『文藝春秋』の取材チームによる調査報道で窮地に立たされた。」(同84ページ)

周知のようにウォーターゲート事件は、民主党本部へ夜陰に紛れて侵入し密かに盗聴機材を設置しようとした5人組犯の事件で1972(昭和47)年の出来事。その犯人たちの素性(CIAの関与が疑われた)や資金の出どころに不審をもったワシントン・ポスト紙の若い記者が取材調査する過程で、この事件の指揮命令系統がなんとニクソンの選挙陣営やホワイトハウスにまで到達すると判明して大騒ぎとなった。そして、この事実を大統領自身がもみ消そうとした刑事責任を問われ74(昭和49)年8月に辞任に追い込まれた。一方の田中首相も不正金脈を厳しく追求され同年11月に辞任した。

いわゆる「金脈事件」は、1974(昭和49)年10月9日に発売された雑誌『文藝春秋』11月号で田中角栄首相の政治資金に関する特集が組まれたことが決定打になったといわれる。
いずれもジャーナリズムにおける「調査報道」の金字塔だと評価されたとのこと。日米ともに権力者の不正を厳しく追求する世論の高まりがあった。今日からみてやはり輝かしい。
もてはやされた「スチューデント・パワー」やベトナム反戦気分もあって、リベラリズムが盛り上がっていたのだ。この風潮は、今日の世界を覆う閉鎖的な「一国主義」などとは反対のベクトルだったように思う。

こうした背景があって、米国では多国籍企業の不正を解明する流れを後押ししたのだろう。

「米議会上院の多国籍企業小委員会、いわゆるチャーチ小委員会は1972年春、親委員会の外交委員会の議決によって設置」(85ページ)
され、米国企業が海外でどのような政治的影響を及ぼしているかを調査する任務を与えられていた。75年からは「外国政府への政治献金」をテーマにした公聴会を開き、国際石油資本を手始めに航空機会社の不正な政治献金を暴いた。
そのなかで、米国の航空機メーカー・ノースロップ社がサウジアラビア政府に戦闘機を売り込むために同国の武器商人にカネを支払っていたことが明るみに出たことから、同じような行為をしていた同業他社の航空機メーカーにも飛び火し、やがて76年2月ロッキード社からの日本政府高官への航空機売り込みで賄賂が支払われていたという衝撃的な暴露に発展した。すでに金脈問題で批判を浴び前年に辞任していた元首相への痛烈な追い打ちとなる世論の怒りが一気に沸騰したのだった。
このロッキード社を追い詰めてゆく過程での、小委員会の公聴会をめぐる米国内の各権力部門と日本の司法当局、検察の駆け引きを丁寧に追っている。

また国内に眼を転じると、当時の三木首相について、いかにも朝日新聞らしく米国での評判を引用するという手法で、以下のように好意的な解説を引用している。

「米政府の分析によれば、三木の首相就任は自民党内対立の産物だった。従来の首相たちとは異なり、三木は、経済界とも官僚とも強いつながりがなく、改革者であり、一匹おおかみであり、異端の首相だった。にもかかわらず、有力な二人の首相候補、すなわち副総理の福田赳夫と蔵相の大平正芳が互いに牽制しあい、その結果として、三木はその隙間に権力の源を維持してきた。三木は『クリーン』で『進歩的』なイメージがあり、一般の人々やメディアでの人気は上々だった。」(148ページ)

本書ではなぜか一貫して三木武夫は「善玉」扱いと言って良い。
「『金権政治』への批判の渦の中で退陣した田中角栄に代わって、三木武夫は1974年12月9日、首相に就任した。75年7月10日付けの米政府資料によれば、三木は第二次世界大戦前の1937年から国会議員を努め、芯の強い党人派の政治家だった。・・・・三木は、日本で国家主義が強まりつつあった1930年代に、あえて米国に留学して南カリフォリニア大学で学び、30年台後半には、若手国会議員として、そうすることが危険であるにもかかわらず日米関係の向上を唱えた。戦後は外相や通産相を努め、米政府に広く強く好ましい人脈をつくってきた。表でも裏でも、三木は米国との関係が日本にとって最重要であると述べてきた。」(同146-147ページ)

しかし、三木首相はたんに田中辞任後の暫定的な「権力の管理人」であることに満足するような政治家ではなかった。むしろ、この事件を奇貨として自らの権力基盤を強化しようと目論んだようだ。それは、ことと次第によっては従来の自民党政治から踏み出す意思を示し(同第5章)、そのために党内の他の指導者らとの対立を深めていったということらしい。

三木は盛り上がった真相究明の世論を受けて国会では「ロッキード疑惑の解明」をたび重ねて公約し、米国に情報の提供を執拗に求めていた。ところが、その三木首相の思惑とは裏腹に、当時の党幹事長であった中曽根康弘は事件の発覚直後こっそりと「MOMIKESHI」を米政府に依頼していた(同第4章「中曽根幹事長から米政府首脳へのメッセージ」)というのだから、日本国内の政治事情もこれまた決して一枚岩ではなかったといえる。(もちろん、中曽根はこれを否定している 同144ページ)
しかも同内閣の稲葉法相は選挙区で田中角栄と激しいライバル関係にあって、この政権では法相の「指揮権発動」など期待できなかったのだという。
この手法は重宝で、例えば造船疑獄の佐藤栄作(のちに首相)のように「指揮権発動」で命拾いしたという。

これまでに知られていることのうえに、新たに発掘された重要な情報を加えて考察できる今日、改めて事件の全体を眺めてみると、私たちがなんとなく受け止めていた、「アメリカの虎の尾を踏んだ」などという粗っぽい「通説」などがいかに薄っぺらな認識でしかなかったかを思い知るのだ。

考えてみると、私達その日暮らしの有権者には直接国政にタッチするような機会は選挙以外にほとんどない。せいぜいマスコミ報道くらいしか権力者の言動に触れる機会もない。

テレビや新聞を見たり、週刊誌その他の出版物を手にするときも、どうしてもセンセーショナルな見出しや絵柄ばかりに眼が奪われ記憶に残る。記者の方もデスクの編集方針にかなうものでなくては記事にならないだろうし、たくさんの資料映像のなかで実際にオン・エアされる部分はごく一部だろうから、そこに編集者の意図が反映されないはずはないだろう。

こうして私たちは、バイアスのかかった情報頼みでその日その日の出来事を「刷り込まれて」生きてきたのだといっても過言ではない。
だからその送り手であるマスコミ自身が、改めて過去の出来事を再発掘・検討してゆく検証作業を視聴者、読者に提供することはとても重要だと思う。

また私たち自身も報道に接する前提として、まずはそれぞれのマスコミの立ち位置や傾向性をしっかり織り込んでおく必要がある。視聴者や読者に対して真摯な姿勢かどうかはもちろん問われるが、そもそも完全中立な報道などというものはあり得ないと思う。資料を読み込む場合も、それぞれの立ち位置からの読み筋というものがあるだろう。
「事実」と「真実」の見極めはとても難しい。

その点で、本書はロッキード事件についての朝日新聞の報道姿勢を補強しているように思える。

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