「紀伊山地の霊場と参詣道」が世界遺産に登録決定したのは2004年7月だったというが、私は憶えていない。当時の私には、関心のない話だったからだろう。
しかし数年前に、熊野古道のすばらしさを外国人に紹介するボランティア活動をしている友人の話を聞いて、にわかに行ってみたいと思うようになった。
大阪市内でも、自宅近くの古道に「熊野街道」の標識が目立つようになったからでもある。

五月のある晴れた日、私ははじめて熊野古道をめざした。
些事に追われる日常を離れて、たまには風光明媚な自然に触れることも良いだろう、と考えて。
途中、紀伊御坊から田辺へは各駅停車を使ってみた。
この方面への出張はこれまで何度もあったが、特急しか乗ったことがなかったので、普通列車に乗ってみると、その地域の日常性を少しは味わうことができるだろうと思ったから。
紀伊田辺に下車するのも今回が初めてだった。
この時は、長雨の後だから車窓の新緑が快い。
やがて紀伊水道の穏やかな海も見えてきた。
列車の中は混んではいなかったが、下校時らしい学生服の若者が多かった。あとは高齢世代ばかり。ローカル線らしく皆がお互いに知り合いの相乗りなのだろう。車内は屈託のないおしゃべりで賑やか。たぶん学校生活の話題や世間話なのだろうと思うが、いかにものんびりした日常生活の風情をぼんやりと眺めた。
やがて通路反対側の女子高校生らしき人が座席に座ったままで、手鏡を出してアイラインを書き直し始めた。これは都会の交通機関でも良く見る光景なのだが、ここでも見るとは意外に思えた。
公私の区別がうるさく言われないご時世なのだろう。それで良いのかどうか、私にはよくわからない。自由と規律の境目があいまいというか、大人社会のマナー感覚が低下してきたことの反映かもしれない。
しかし、古臭い価値観や規律を押しつけても始まらないだろう。
だいたい、自らを省みることのない「政治屋」にかぎって、なぜか自分の不都合な所業を棚に上げて「道徳教育」などと宣う。行状が信用されていないから、なおさらに世間が混乱するだけだ。
この車両は、都会生活の長い私にとっては珍しいワン・マンカー列車だった。
運転手さんの背中側に両替機能の付いた運賃箱があって、切符や料金を支払ったあと、乗降ドアーはお客自身がドアー横のボタンを押して開閉する。
労働力不足や人件費の節約なのだろう。
こじんまりした紀伊田辺駅前から「熊野古道中辺路」まわりのローカルバスに乗車した。これももちろんワンマン・バス。
古来から聖域とされる熊野三山への入り口である「滝尻王子」まで、約40分。そこには「熊野古道館」という施設があるとパンフレットに掲載されていた。今日はとりあえずそこを見学して、後は田辺市内に戻って宿泊するとしよう。
田辺市総合観光ガイドブックの説明文によると
「・・・熊野とは、大化の改新以前に熊野国があった場所とほぼ一致します。重なり合う山々、鬱蒼と茂る樹林、その山を源にして流れ下る川はやがて広大な太平洋に注ぎます。・・・・熊野三山の歴史は古く、なかでも熊野本宮大社はその創建が崇神期(紀元2世紀ころ)にまでさかのぼるといわれます」(1ページ)
「・・・上古から『神のいます場所』とされた熊野が全国に知られるようになるのは、10世紀の宇多法皇の熊野御幸からです。平安時代には皇族や貴族が、中世になると武士や庶民にまで熊野信仰は広がってゆきました。」(同)
「・・・熊野三山へ通じるいにしえの参詣道を熊野古道と呼びます。平安時代に始まった上皇たちの熊野御幸によって知られるようになった熊野信仰は、時代が下るにつれ武士や庶民にまで広がり、一時は『蟻の熊野詣』と呼ばれるほど多くの人々が熊野を目指しました。
熊野古道にはいくつものルートがありました。京・大阪からのメインルート紀伊路、高野山と熊野を結ぶ小辺路、伊勢と熊野を結ぶ伊勢路です。紀伊路はさらに田辺で紀伊山地に分け入る道と海岸線を南下する道に別れ、後に前者を中辺路、後者を大辺路と呼ぶようになりました。
中辺路は、平安時代から鎌倉時代にかけて上皇たちが参詣を100回以上も繰り返した熊野への公式参詣道(御幸道)としてしられます。」(2ページ)
大阪市内の自宅すぐそばにある「熊野街道」はやはり、はるばるここまで繋がって「紀伊路」になっていたのだ。
素人の推測だが、もともと深山渓谷の自然に「神秘性」を感じる人々の素朴な山岳信仰心みたいなものが前提としてあって、そこに平安末期に貴族社会に広がった仏教観念、ことに浄土教の「末法思想」が、その現世逃避の願望の赴くところこの熊野巡礼と結び合ったものだろう、くらいに考えていた。
だから、額に汗して働く必要のない平安貴族から巡礼がこと始まったのではないだろうか。しかし自分の足だけで歩いた貴族などは少ないだろう。
素人なので荒っぽい断定はできないが、いずれ専門家の分析を学んでみたい。
「熊野古道館」の女性の受付の方に尋ねてみると、「滝尻王子」から次の「高原霧の里休憩所」まで古道を歩いて、近くの栗栖川バス停から田辺市内へ帰るのにはちょうど良いくらいの時間だという。
これを聞いて、予定にはなかったが、思い切って歩いてみた。
それは地元で生活する人々にとっては、なんでもない行程なのだろう。
初めての自分には、そこが良くわかっていなかった。
実際は岩石ばかりの険路なのだった、と思い知ったときにはすでに遅し。
私は運動靴にバック・パッカースタイルで、「古道館」で購入した杖代わりの「黒竹」を突きながら、約二時間余り急峻な岩場をまったく一人でひたすら登った。連休明けの平日午後だったからだろう。途中で引き返そうにも、登ってきた道を振り返って見下ろすと、かなりの崖道なので今更とても戻れなかった。
ともかく帰路の路線バス(確か最終だったように思う)に間に合うように急ぐしかないから、休む間もなく歩いた。
鬱蒼たる森林のなか、小鳥のさえずり以外なんの物音も聞こえない。
「熊野古道」といっても、標識が豊富なわけではない。岩場では行程が不明瞭なところもあったが、スマートフォンを見ると電話は通じるようなので、最低線のライフラインは確保されているようだ。
ふと「少しのことにも、先達はあらまほしき事なり」などという吉田兼好の教訓が頭に浮かんだものの、これこそは馬鹿らしい後の祭りというものだろう。

しかし、慌てることもない。もともと人間など「ひとり」なのだとも思った。
・・・・・とにもかくにも、やっとのことで「高原霧の里」にたどり着いた時には、汗だくで心身ともにクタクタだったが、そこで見た一望千里の大パノラマは予想外の絶景だった。
これは素晴らしい。
やはり、来てよかったと思いなおした。

この休憩所から徒歩30分ほど下った栗栖川バス停に着いてまもなく帰路のバスが来たことをみると、タイト・スケジュールだったのだと思う。
その夜、宿泊所の階段を上がり降りするときの脚の筋肉痛には閉口した。
宿主の話では「中辺路」行路で一番きつい行程を、いきなり歩いたことになるのだという。我ながら不覚だった。事前によく聞いておけばよかった。
気が付くと左足の親指と、右手親指に軽い擦過傷があった。
私は絆創膏を持参し忘れたうかつさに舌打ちした。
明日は、「朝一番のバスで一気に本宮にまで行ってしまおう」などと考えながら、はやめに寝た。
(追記)『Osaka Metro 2023年 Spring号』によると、大阪市内に現在ある『熊野古道標識』よりも西側に本来の熊野古道があったそうだ。九度山・真田ミュージアム名誉館長の北川央(ひろし)さんによると、「かつて上町台地のすぐ西側まで海が迫っていた。その海沿いの道が熊野古道だった」
