「あのころ」、ユダヤ人のシュナイダー家と「ぼく」の家族は同じアパートに住んでいた。「ぼく」とフリードリヒが同い歳で仲良しだったこともあって、両家は親しく暮らしていた。
しかし、ぼくたちのような平凡な庶民の平和は長くは続かなかった。
第一次大戦での敗戦による過重な賠償金負担にあえぐなか、追い打ちをかけるような世界不況の嵐を受けて世情は大きく様変わりしてきた。ドイツ社会は険しい雲行きとなった。追い詰められた人々の不満と不安を吸収したナチス党が黒雲のように台頭したのだった。
特に33年にヒトラーが首相になってからは、目に見えて世相が険しくなった。
本書は巻末の年表を見るとでナチスの登場から第二次世界大戦終了まで、ユダヤ人排斥のプロセスが手際よく理解できる。
1935年にはユダヤ人とドイツ人との結婚が禁じられ、45歳未満のドイツ人がユダヤ人の家事労働者として使用されてはならないなどとする(ニュールンベルク)法ができた。同年、ユダヤ人の公務員が全員解雇された。あからさまな人種差別が公然と法制化された。
今日の常識では考えられないような、恐るべき人権の剥奪が合法的に強行されたものだ。しかも史上最も民主主義的といわれる「ワイマール体制」のもとで起きたのだった。大衆の熱狂的な支持があったからこそだ。重大な歴史的教訓だと思う。
こんなとき、家族の生活のためにナチ党員になった「ぼく」の父親は、党の集会で得た情報からしてユダヤ人迫害がさらに強まると予想し、フリードリヒの父・シュナイダー氏に、思い切ってドイツから脱出たほうがい良い、と忠告(1936年)してみた。
「・・・父は申しわけないといった顔つきで、視線を床に落とした。そして、ほとんどささやくように、シュナイダーさんにいった『わたしは、党にはいったんです。』」
しかし、シュナイダーさんはそれを責めなかった。「・・・・『わたしには、よく理解できることです』」(「あのころはフリードリヒがいた」117ページ)
父は、ナチ党に入ったおかげで就職先を見つけることができたのだ。
「『わかってくださるでしょう、シュナイダーさん。わたしは長いあいだ失業していたんですから。それが、ヒトラーが政権について以来、職ができたんです。しかも、思っていたよりずっといい職がね。助かっているんです、うちは。・・・・わたしがNSDAP(国家社会主義ドイツ労働党=ナチス)の党員になったのは、そうすればわたしたち家族のためになると思ったからなんです。』・・・・」(同118ページ)
家族を食べさせていくためには、生活権を握っている権力者には抗えない。「寄らば大樹の陰」はどの国でも同じだ。
・・・・・・・いくら政権に不正の匂いがあっても、「〇〇〇ミクス(かなりいかがわしい金融偏重政策だと思う)」のお蔭で株価が釣り上げられている間は、政権の支持率が落ちないという現象によく似ていないだろうか。実のある経済政策だろうか。庶民の生活は少しも改善しなかった。
話を本書にもどそう。
「ぼく」の父は、シュナイダーさんになんと「国外逃亡」を勧めたのだった。それに対し氏はこうこたえる。
「率直に話してくださってありがとう。なかなかそうはできないものですよ。・・・・わたしはドイツ人です。家内もドイツ人、息子もドイツ人、親戚もみな、ドイツ人です。外国へいって、どうなるでしょう ?・・・・・われわれに対する偏見というのは、もう二千年もの昔からあるんです。・・・・この偏見は、中世なら、ユダヤ人にとっての命の危険を意味していましたよ。しかし、人間は、その間に、少しは理性的になったでしょうからね。」(120-122ページ)
被害者であるシュナイダー氏にはまったく責任のないことだが、後世の史実からすると、その見通しはまことに甘かったのだった。ナチスの狂暴さを見誤っていた。まさか、その後600万ものユダヤ人が大虐殺されるとは、このとき、大方の当事者ですら予測できなかったのだろう。
むしろ、ドイツ人で生活のためにナチ党に入った「ぼく」の父のほうが事態の深刻さを予感していた。この頃には、「ぼく」の家の経済状態も好転していて、子どもたちの小学校入学式のとき(31年)とは逆転していた。ナチ党に加入して職にありついたお陰で、はじめて「ぼく」の家族は休暇旅行までできるようになったという。
逆に、公務員を解雇されたユダヤ人のシュナイダーさんは、生活もだんだん追い詰められてゆく。
「ぼく」の父にとっては、ドイツ人がユダヤ人一家と仲良くしていることじたいが、大いに世間体をはばかられることだった。場合によってはナチ党員としての信用を失いかねない。かといって、このまま知らぬ顔をしていることはできなかったのだろう。
「・・・父はぐっと眉を寄せた。『シュナイダーさん、あなたの話を聞いていると、あなたたちが恐れなくちゃならない相手は、ほんのひとにぎりの、いきりたったユダヤ人嫌いのグループだと思っておられるようですね。相手は、国家なんですよ !』
父は煙草を指のあいだでぐるぐるまわし、せかせかと吸った。」(同123ページ)
しかし、このときのシュナイダーさんは国家がむき出しの暴力装置に化ける、恐ろしい魔物だとまでは見抜けていなかったようだ。
「『あなたが考えられるようなことは、起こりえませんよ、この二十世紀の世の中では、起こりえません!』(124ページ)
シュナイダーさんには苦難を試練と受け止める確固たる信仰もあった。それに、退職させられたとはいえ、れっきとした公務員だった。ユダヤ人ではあってもドイツ国民として、国家というものに希望的観測を持っていたのだろう。
ハンナ・アーレントが指摘したユダヤ人のナチ協力者たちも、ナチズムが政権に就いた当初は、それが前代未聞の残虐な牙を自分たちに向けてくるとまでは見抜けていなかったのかもしれない。昔からある、ユダヤ人差別・迫害の延長線上で考えていたということなのだろう。ナチスの凶悪さはまさに「想定外」だった。
その後の歴史が証明するように、ヨーロッパ中のユダヤ人は、ともかくナチスの支配圏から逃げ出す以外に生き延びる方法はなかった。シュナイダーさんは「この二十世紀の世の中」にそんなことが起きるとは思っていなかったのだ。それは21世紀の今も「起こりうる」と考えるべきなのだろう。
やがて、ユダヤ人排斥の暴動が発生、子供の「ぼく」もわけもわからず加担して、奇妙な破壊衝動に興奮する。この暗い衝動は深いところでヒトラーの魔性と通じているという見方もある。
罪もないフリードリヒのお母さんは、自宅を破壊された精神的ショックがきっかけで死んでしまう。
こうしてユダヤ人迫害は日ごとに激化してゆくなか、39年にはナチス・ドイツがポーランドを侵略し第二次世界大戦が勃発。その後のユダヤ人の言語に絶する悲劇は本サイト映画「戦場のピアニスト」にも詳しい。
本書「あのころフリードリヒがいた」の後半を読み続けることは、日本人としても辛い。日本もナチス・ドイツの同盟国だったのだ。日本人は忘れても世界は記憶している。戦場での加害の歴史、ナチとの「共犯関係」は史実として残った。歴史は誤魔化せない。
それまでの家族同士の心温まる付き合いや、フリードリヒの淡い初恋(ユダヤ人であるために、それすら諦めた17歳の少年の思い)がよく描けているだけに、彼らの悲劇に胸が塞ぐ。
すべてのドイツ人がユダヤ人を憎んだわけではない。しかし、いったんナチズムの支配を許すと、どんなに良心のある人でもほとんど無力に近かった。全体主義権力がいかに圧倒的であったかがよくわかる。
日常生活の多忙さにかまけて、政治家や官僚たちのインチキを見逃してはならないと思った。権力が悪魔化してしまうと、もはや普通の人々では手に負えない。黙ってその支配に屈するしかなくなる。だから、そうなる前の監視と異議申し立てが必要なのだ。
この点については、岩波新書「子供の宇宙」で心理学者の故河合隼雄氏が以下の通り指摘しているとおりだと思う。
「・・・・児童文学には多くの子供の死が描かれているが、そのなかで、できるだけ多くの人に銘記していただきたいと思う、少年の死がある。これほど最後まで読み通すのが辛い児童文学はあまりないであろう。しかし、われわれは読まねばならないし、読んだことは忘れてはならないのだ。リヒターの『あのころフリードリヒがいた』がその本である。これは、素晴らしいとか名作とか、形容詞をつけられるような本ではなく、ただただ、できるだけ多くの人に読んでほしいと願いたい本なのである。」(岩波新書「子供の宇宙」1987年 175ページ)
戦中派の良心の声だと思う。
戦後生まれとして、この言葉をしかと受け止めたい。
1961年に発表されたこの作品は、ドイツ人作家ハンス・ペーター・リヒターが36歳のとき創作した児童小説。同氏は「ぼく」やフリードリヒと同じく1925年生まれだから、子供時代の体験や見聞をもとに創作したのだろう。子供の眼に映った周りの大人たちの様子が鮮やかに描き出されている。
やがて、ユダヤ教のラビを自宅に匿ったためにフリードリヒの父シュナイダーさんは逮捕されてしまう。
天涯孤独となったフリードリヒ少年。
ユダヤ人であるがために住処を終われ、防空壕にも入れてもらえない。連合軍の空襲が終わって「ぼく」が防空壕から外に出てみると、物陰に蹲って死んでいた。あまりに酷い。
第二次大戦下のナチス・ドイツで「普通の人々」がユダヤ人を「迫害する側」にまわった有様が、その年代史に沿って淡々と描かれている。
想像を絶する迫害に苦しんだ多くの人々の悲惨、そこに加担してしまった無名の庶民たちのあからさまな史実を伝える傑作だが、これは決して20世紀だけの話では済まないと思う。わたしたちの21世紀にも、同じ種類の事態が世界中で起きている。そしてその悲惨は今後も繰り返され得るのだということを、強く銘記しなくてはならないと思う。
故・河合隼雄先生の警告を強く心に刻んでおきたい。
「・・・作者のリヒターは、このような現実を直視し、感情に溺れず節度をもって現実を記述していく。そして、フリードリヒ少年の死の事実をはっきりとわれわれの目のあたりに提示して、物語を終えている。この少年の死の意味は、このことを知った読者のひとりひとりの今後の生き方のなかにこそ見出されることであろう。」
(「こどもの宇宙」178ページ)
こういう作品が児童文学にあることが素晴らしい。
今のうちに、自分のできる範囲で、平和と民主主義、自由と人権を護持拡張する行動が必要だ。