「あのころはフリードリヒがいた」(1)ナチス・ドイツのユダヤ人迫害

ヒトラーやナチス・ドイツのユダヤ人迫害、ハンナ・アーレントが生涯追求した全体主義の悪などについて思い巡らすうちに、ドイツ児童文学の傑作に出合った。

「あのころはフリードリヒがいた」
ハンス・ペーター・リヒター(作) 上田真而子(訳) 岩波少年文庫 

日本語初版は1977年刊行。原本は1961年。
内容は、1925年にドイツで生まれた主人公「ぼく」が、同じアパートのすぐ上階に住んでいた同い年のフリードリヒ・シュナイダーというユダヤ系の少年と過ごした日々の記憶を綴った児童小説。
1925年生まれといえば、大正14年だから、私の母と同じだ。著者は、日本で言えば戦中派世代に相当するだろう。

日本では昭和初期にあたる世界大恐慌後、ドイツではナチスが台頭し、ユダヤ人排斥運動が激化していった時代になる。
ドイツ人の「ぼく」と、ユダヤ系ドイツ人のフリードリヒは同じ歳の無邪気な子供たちだった。お互いに一人っ子だったので、まるで兄弟のように仲良く暮していた。そして同級生として同じ学校に通った。

フリードリヒのお父さんは郵便局に務める公務員で生活は安定していたが、「ぼく」の父親(ドイツ人)は長期の失業者だった。
小学校の入学式の帰り道、ふた家族はお祝いに子供たちを遊園地で遊ばせることになったが、「ぼく」の家はまったくお金がないので、体裁をつくろうのに両親が四苦八苦していることを子供の素直な眼で綴っている。親の狼狽は、自分たちだけが我慢するのであればまだしも、最愛の子供に肩身の狭い思いをさせるつらさがあるからだ。当時のドイツは第一次大戦の敗戦国として、べらぼうな賠償金の支払いにも苦しんでいたと伝えられる。私も教科書で、値の下がった札束をリヤカーで運ぶドイツ人の写真を見た記憶のあるハイパー・インフレの時代。

このときのユダヤ人一家シュナイダー家の生活の安定ぶりと、「ぼく」の家の貧しさはまことに対照的だった。この頃のドイツには、空前の経済不況に苦しんでいた人々が多数いたことがよくわかる。

そのため、お母さんのほうの祖父に生活費を送ってもらっているので、シュナイダー家は祖父にも肩身が狭い。お祖父さんはお硬い国鉄職員のようだ。当時のドイツでは国家事業である郵便局や国鉄に勤めていることが、ひとつの社会的ステータスだったのだろう。
その祖父がたまにやって来ると、家族は緊張する。このあたりの描写も「家父長制度」を彷彿させる場面だが、この祖父には古いユダヤ人差別観があって、孫がユダヤ人の子供と仲良しであることが納得できなない。

『・・・・ユダヤ人の家族だと?』
『ええ、いい人たちですよ』父はいった。
祖父は、くちびるを固く結び、しばらく押し黙っていた。・・・・」

祖父は職場のユダヤ人上司のことを思い出しながら、感情的な反感を口にした。それはユダヤ人の宗教的な属性に対する非難だった。
「・・・・祖父はぼくたちをじっと見つめてから、いった。『われわれはキリスト教徒だ。われわれの主を十字架にかけたのは、ユダヤ人なんだぞ。』
すると、父がことばをはさんだ。
『といっても、シュナイダーさんたちじゃありませんよ ! 』
母は顔色が変わった。
祖父が、さっといすから立ち上がり、げんこを机に押し付けて身を支え、舌を鳴らしてはげしい声でいいわたした。
『この子が、そのユダヤ人の子とつきあうのを、おれは承知せんぞ !』(「あのころはフリードリヒがいた」32-3ページ)
と言った具合で、ナチス台頭以前から根強いユダヤ人への差別がドイツ人社会にあったことを描いている。しかも宗教感情が根っこにあるから深い。これは1930年の出来事としている。

この書の特徴は詳細な注と年表が巻末に添えられていること。
著者のハンス・ペーター・リヒターはやはり1925年ドイツ・ケルン生まれの社会心理学者らしいが、自身の直接経験や身近な具体的見聞を素材として描いた。年表を参照しながら読み進めると、ナチス時代のユダヤ人迫害の史実を立体的に理解することができる。
だから児童向けとはいうが、ドイツの事情に疎い私のような日本人にとって、この時代のドイツを知るにはとても有益だと思う。

やがてフリードリヒは「ぼく」に連れられてドイツ少年団の集会にもぐり込んだり、逆に「ぼく」がフリードリヒにユダヤ教徒の儀式に連れていってもらったりもする。そして、いつの間にか彼がへブライ語で唱えるユダヤ教徒の立派な宗教儀礼を身に着けていたことを発見して感心する。民族差別などを刷り込まれていない、素直な子供の眼がよく描かれている。

ドイツ少年団

しかし反ユダヤ主義の濁流は容赦ない。
1933年にはアドルフ・ヒトラーがドイツ首相に就任。両家族の交流は次第に悪しき趨勢に巻き込まれ翻弄されてゆく。
まずフリードリヒの父シュナイダーさんは、ユダヤ人だというだけの理由で郵便局をクビになってしまった。

1934年、ふたりが通っていた小学校の担任教師のノイドルフ先生は授業が終わったあと生徒たちに、特別の話があるから残るようにいう。
先生はユダヤ人差別がいかに根拠の曖昧なものであるかを説き、愚かしい偏見にとらわれることのないようにと生徒たちに諭した。
まずユダヤ人の歴史、とくに苦難の迫害の経緯を子どもたちにわかりやすく教えた。更にユダヤ教のことに触れてゆく

「・・・・トーラーには、ユダヤ人の運命が予言されている。つまり、もしかれらが神の掟を犯したならば、迫害を受け、逃げねばならない、というのだ。しかしかれらは、救世主がかれらを約束の地カナンへつれもどし、そこに彼らを民とする救世主の国を創ってくれる、という希望をも同時にもっている。
かれらはイエスが本当の救世主であることを信じず、それまでに何人か現れたようないかさま師の一人だと思った。だから、イエスを十字架にかけた。そのことについて、ユダヤ人を、今日にいたるまで、許せないでいる人が大勢いる。その人たちは、ユダヤ人についていいふらされた愚にもつかないことがらを信じきっている。ユダヤ人をまた迫害し、苦しめることができるようになるのを、ひたすら待っている人さえいる。
ユダヤ人を好まない人は大勢いる。ユダヤ人はなんとなくなじめなくて、気味が悪いという。なにもかも、悪いことはみな、かれらのせいだと信じこむ。それは、ただ、ユダヤ人をよく知らないからなんだ !』
ぼくたちは熱心に聞き入っていた。」(同106-7ページ)

さらに、苦難のなかで鍛えられてきたユダヤ人の逞しい生き方を紹介して

「・・・・『しかし、こういうひどいユダヤ人嫌いでさえ認めなければならない点が、ひとつある。ユダヤ人は、有能だということだ !
有能な民族だからこそ、二千年にわたる迫害にも耐え抜いてきたのだ。・・・・・
ユダヤ人を軽べつするのを、もしきみたちがきょうにでもあすにでも見聞きしたら、次のことをよく考えてほしい。ユダヤ人は人間だ。われわれとまったく同じ人間なんだ !』」(同107-8ページ)

その日に、同級生のフリードリヒがユダヤ人学校へ強制転校させられる。

「・・・・『きみたちのうちの一人が、この学校からでてゆくことになった。フリードリッヒ・シュナイダーくんは、もうこの学校にこられなくなった。ユダヤ教徒だから、ユダヤ人学校に転校しなければならなくなったのだ。
フリードリヒがユダヤ人学校にかわらなければならないのは、処罰じゃない。ただの変更だ。きみたちがそれをよく理解して、たとえフリードリヒがもうぼくたちの一員でなくなっても、いつまでもフリードリヒの友だちでいてくれるように、ぼくは切にに望んでいる。ぼく自身、これからもずっとフリードリヒの友だちだ。たぶん、フリードリヒには良いともだちが必要になるだろう・・・・」(同)

この先生のお話は非常に良心的だし、完全に正しい。信念ある教師の大切さがよくわかる。ナチスの台頭を前にして、まだ多くの良識ある教師がいたのだろうと思われる。
しかし、その直後の先生の終了挨拶の描写には驚かされる。

「・・・・ノイドルフ先生は急ぎ足で教壇にもどった。そして生徒の方にふりかえって、右腕をピンと伸ばして眼の高さまであげ、あいさつした。『ハイル・ヒトラー !』
ぼくたちは一斉に立ち上がり、同じ方法で答礼した」(同109ページ)

すでに学校の授業はナチ式の敬礼で始まり、終わっていたのだった。

よく、国旗や国歌を教育現場で強制することが問題になる。
私は教育行政などにはまったく門外漢だが、一般人の感覚として、「政治家の思惑が教育現場を歪める」ことを見過ごしてはならないと痛感した。

昭和初期の日本に、ノイドルフ先生のような気骨のある教師はどれだけいたのだろう。子どもたちを戦争遂行のための「戦士」に仕立てるための、軍国主義教育一色だったのだろうか。
私の両親は年老いても「教育勅語」をそっくり暗唱できた。無垢な心に黒々と刻印された「皇国思想」の入れ墨みたいなものだ。すでに故人だが、懐かしそうに唱える姿を思い出す。
私は両親の経験を聞いて、あらゆる「刷り込み」を警戒するようになった。

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