親しい友人の誘いで桜を観てきた。
快晴の空、大阪城公園が一年でもっとも美しい季節だ。
公園内を歩いている人々には、よく見ると外国人観光客が多い。2割から3割くらいだろうか。この時期、大阪観光のスポットになっているらしい。
言語の発音からしてたぶん、東南アジアや中国系の外国人が多いように思う。韓国系の人にとっては大阪城は秀吉の朝鮮侵略のシンボルだからなのだろうか、意外に少ない。中にはスカーフをしたムスリムの女性もいる。最近、ビザの取得制限が緩和されたらしい。
茶褐色の石垣、深い青緑色のお堀、お城の黒い屋根瓦と白壁と優美な形状が、淡いピンクの桜花にはよく似合うよう。お堀の水が少し足りないが。
近くのホテルから写真を撮って見ると、日本画によくある絵はがきのような景色。
典型的な日本の春の穏やかな風情。
のどかな光景にしばし心和む。
20世紀初頭、尾崎行雄東京市長のときに寄贈したというワシントンのポトマック河畔の桜を見たことはないが、どんな感じだろう。
たまたま野鳥が花の蜜を求めて飛来し、目のまえの小枝に止まった。種類は知らないが、とても愛らしいしぐさに心なぐむ。こっちを警戒しているのがわかったが、「悪いことしないから、そのままでいてくれ」と念じてスマホのカメラを向けた。
うまい具合に撮れた。有難う!
・・・・ところで。
去年見たときにも心に浮かんだことだが、ふと、「あと何回この景色を見ることができるだろうか」と。少し大げさかもしれないけど・・・・・・。
そう言えば、最近はボーッとしているときなど、なにげない昔の場面が前後の脈絡もなく脳裏に蘇るようになったなと思う。
たぶん、50代の後半に入った頃から。
なにかしら人間の心の中にゼンマイみたいなものが予めイン・プットされていて、ライフタイムの後半期に入ったからだろうか。
ところで、「古今和歌集」の在原業平の詠んだ有名な歌
世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし
初めてこの歌を学んだ高校生のころは、「ほう、感受性の強い人なのだな」くらいにしか思わなかった。それは私が前半期にいたからだろう。
最近、知ったのだが、この歌には返歌があって、
散ればこそ いとど桜はめでたけれ 憂き世になにか ひさしかるべき
(詠み人知らず)と。
どのようなシチュエーションでこうした歌の応答があったのか知らないが、私はなるほどと妙に自得できたように思ったのだ。
昔も今も、私は詩歌にはまったくの門外漢。だから勝手な解釈だが・・・・・・・・・・・・・
業平は美しく儚い桜を観るたびに、無意識に「これが最後かもしれない」と惜しんだろうか。だからこそ心穏やかではない。
一方返歌のほうは「散るからこそ美しいのだ、この憂き世はすべては諸行無常なのだから」とクールに応えたのだと。
桜は毎年この時期に見事に咲いてくれるけど、いつまでも自分が愛でることができるという保証はない。業平の心が乱れるのは、暗暗裏に自らの「有限性」を感じていたからかもしれない。
これは9世紀のころの歌らしい。1,000年以上も前。
以下ももちろん、我流の解釈だけど・・・・・。
そもそも初期の仏教の世界観では、この世には独立した固定的な実在を認めていないよだ。すべての現象は「因」と「縁」の「和合」によって「仮」に生起するのであって、しかも同時に川の流れのように一瞬も留まることなく連続して変化していると観じているようだ。つまり「実体」はない。「瞬間」の実相は有無の概念では捉えきれない。それは空想上の断面図に過ぎないのだろう。
人間の認識行為を、かなり突き詰めて抽象化した見方だろうか。
しかしそうすると、実感とかなりかけ離れる。心に浮かぶフィーリングは虚妄に過ぎないのだろうか。すると、あの三島由紀夫の小説「豊饒の海」の最後のフレーズのようになにもないことになる。
「庭は夏の日ざかりの日を浴びてしんとしている。
昭和45年11月25日」
素人の感想ながら、見事な終わり方だなと思ったものだ。
現象の世界は、滝の暴流のような激しいダイナミズムそのものなのだけれど、人間の認識作用は静止画のように把握する。静止しているように思うのは錯覚せあって、つまりは何も実在しないというわけだ。あるいは人間が描く「妄想」だという。
一瞬たりとも同じ形で留まるものはこの世に何もない。すべては変化の渦中にある。だから、単純に「ある」とか「ない」とか断定できない。
ところで、人はどうしても目の前にある現象を「実体」と見て、なんとかそこに固執しようとしてしまう。つまり「静止画」に執着する傾向があるらしい。しかしあるとき、それは不可能と思い知らされ、そのために苦しみを感じるのだという。
この見方は結局、目の前にある「現象」に左右されない、強い主体性を確立するための、ある種の思考実験なのかもしれない。悲観に閉じこもるのではなくて、むしろ世界をクールに見下してゆくような、個の強化を促しているのだろうか。
もともと古代のインド人の発想には、とてもさめた世界認識があるようなのだけど、中国を経て日本に入ってくると、なぜかしら本来の「哲学性」が抜け落ちてしまう。そして詠嘆的、抒情的な情緒に変化する。
「すべては過ぎ去ってしまう」という感傷に憩いたがるように見える。
原始仏教が執拗に説いた「苦」を、日本人は「悲しみ」と解釈したかのようだ。哲学性よりは情緒なのかもしれない。
そうした心情に都合よくピタリとあてはまる桜の花が、平安人の詩歌に好んで詠まれたのだろうか。
ともすると、「無常」が情緒的な「無情」に転化してしまう。
12世紀の詩人・西行になるとこの感傷はもっと徹底している。
願わくは 花の下にて 春死なん そのきさらぎの 望月のころ
末法思想の反映なのか、とても悲観的な気分なのだ。それが「美意識」に昇華されるというのだろうか。
ところで、大阪城公園に向かう道筋に、細川ガラシャ婦人が自決したと伝えられる遺跡がある。近くには大きなカトリックの教会がある。
ガラシャ婦人の像が正面右に立っている。彼女の有名な辞世の句
「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」
桜だと特定はできないけど、ガラシャ婦人もやはり花の命に事寄せて自らの運命を詠んでいる。
明智光秀の娘であり、時代に翻弄された生涯だったようだ。そのうえに、夫婦仲の不和も原因のひとつかもしれないという。関ヶ原の合戦のときに自決した。
実は、私の大叔母(父方祖父の姉)も敬虔なカトリック信者さんだったらしく、たぶん、この教会に通っていたようだ。
私自身は生前にお会いしたことはないが、父や叔父の話の懐旧談を総合してみると、夫や子供に先立たれて孤独な後半生を送られたそうだ。ご主人は歌人で教育者(女学校の教頭)だった。
最終的には戦後宮崎の修道院に葬られていたのを教会のご厚意で発見してもらい、生前の父が母を連れてお骨を貰い受けに行ったことがある。
戦前のある時期、父がまだ大阪外語の学生だった頃、カトリックの尼僧の姿で上本町の広い筋を歩いている大叔母の姿を瞥見したことがあるらしい。
山科の障害者施設でボランティア活動をしていたという事実も、大叔母の死後に判明した。
それは、叔父夫婦が京都への旅先で、山科に珍しい植物の自生する施設があるというので訪れてみたところ、たまたまそこの主の老婆が大叔母の友人だったことからわかった。
そこにはかつて障害者施設があって、大阪から泊りがけで大叔母が障害者介護の活動に来ていたのだった。まったく偶然の発見で、不思議な出会いだった。
父も弟の叔父も、子供の頃に見た叔母の姿しか記憶にはない。
教会のガラシア婦人とはなんの関係もないことだが、私の中ではイメージの連関性がある。祖母によると「家庭的に薄倖な人だった」という。
ただし、今我々が見ている桜は江戸末期から明治の初め、東京の染井村の人々の努力で育成された種で、ほとんどがいわば「クローン」なのだそうだ。だから、同じDNAなので、一斉に咲き一斉に花を散らすのだという。
在原業平が惜しんだ桜は、吉野などで見られる山桜のことだったようだ。「義経千本桜」で有名だ。
実もふたもない話はやめておこう。
満開の桜にしばし憩う人々。帰り道の足元にタンポポが咲いていて、そこに蜂が止まっていた。
見逃さなくて良かった。
ふと、無常に左右されない強い主体性とはなんだろうか、と思った。
「諸行無常」と観ずる自らもまた有限性を免れないはずだが、釈尊は決して悲観してはいないように思える。
今わの際に、とても意味深い智慧の言葉を残している。以下はその釈尊のことば
「そこで、尊師は修行僧たちに告げた。—————-
さあ、修行僧たちよ。お前たちに告げよう、『もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成しなさい。』と。」
これが修行をつづけて来た覚者の最後のことばであったという。
意味深い言葉だと思う。
私たちは、本能的に目の前の事象に執着する。いかんともしがたい「変化」のダイナミズムを、なぜか「固定」したいと願う。しかしすべては「過ぎ去る」がゆえに、切なる願いは決してかなわず、これがために苦を感じるのだろう。
だから、解脱をなにか固定的静的な最終段階と見るのは幻想であり、「怠ることなく修行」する実践のただなかにしか真実の「悟り」はない、というのだろうか。
中村元訳「ブッダ最後の旅」(岩波文庫)より。
学生時代から何回も味わってきた、釈尊の遺言。