映画「ヒトラー最後の12日間」製作のもとになった、トラウデル・ユンゲの手記「私はヒトラーの秘書だった」(2004年1月 草思社 刊行)を読んだ。
それによると、1920年(大正9年)生まれのドイツ女性トラウデル・ユンゲは格別な政治意識があったわけでもなく、ナチス党員ですらなかった。むしろ首都ベルリンで仕事をしたいと望む、ごく平凡な若者だったといって差し支えないだろう。
そんな主人公が様々な偶然に導かれ、なんと1942年11月から第3帝国総統のアドルフ・ヒトラーお気に入りの秘書になってしまった。
そのために、第3帝国の滅亡とその独裁者の最後の現場証人として立ち会うこととなったのだ。数奇な運命といってよい。

著者はまえがきで、
「ヒトラーの魅力に屈することがどんなにたやすいことか、そして大量殺人者に仕えていたという自覚を持って生きてゆくことがどんなに苦しいことか」
と記しているように、世間知らずの若い娘がヒトラーの妖しい魅力に惹かれ、そのお気に入りの若い秘書として働いたことが、戦後になって彼女自身を苦しめることとなった。
確かに、人生には自らの意図とは異なったシナリオが働いたように実感する場合があるだろう。よく考えてみると私自身も、自分の意志だけが全てで生きてきたのではなかった。
運命とはまことに冷厳なものだと思うが、トラウデル・ユンゲは、その定めに精いっぱい誠実に向き合おうとした人であったことが良くわかった。
残念ながら、日本では彼女の独占インタビューのドキュメント映画「死角にて・・・・ヒトラーの秘書」(2002年作品)は公開されていないらしい。映画「ヒトラー最後の12日」では最初と最後にその短いカットが添えられている。
戦後から50年代までは彼女も、敗戦国ドイツ社会で一人の女性として生きるのに精一杯だったようだ。(ヒトラーの斡旋で結婚した夫は、総統の大本営から出征後まもなく戦死していた。)
若きユンゲ嬢が、忠誠を誓い奉仕したナチスの巨大な犯罪性に気づせられたのはむしろ戦後であった。
同書を発表するにあたり、助言を与えたジャーナリストのメリッサ・ミラーの「解説2 ある贖罪の年代記」によると、
「・・・・トラウデル・ユンゲは、60年代の半ば頃から現在にいたるまで彼女を苦しめている抑鬱状態について話す。最初は、漠然とした挫折感を抱いていた。・・・・・『私は間違った方向に進んでいったのです。いいえ、もっと悪いことには、決定的な瞬間に自分で決断を下さず、人生をただ雨に降られるままにしておいたのです』(同書338ページ)
「・・・・やっと60年代の半ば頃になって、自分の過去や日増しに強くなってくる罪悪感と真剣に取り組むようになった。・・・・」(同まえがき)ということだ。
そして、そのきっかけは
「・・・・・その頃、すでに私はフランツ・ヨゼフ通りのゾフィー・ショル記念銘版の前をよく通り過ぎていたに違いないのです。ただ気づかなかっただけです。ある日それに目を留めました。彼女が1943年に処刑されたときは、ヒトラーのもとでの私の生活がやっと始まったばかりだったのだということを思い浮かべて、私は深い衝撃を受けました。ゾフィー・ショルももとはドイツ女子青年連盟の女の子で、私より一歳下です。そして、彼女は、あれが犯罪国家なのだということがちゃんとわかっていたのです。私の言い訳はいっぺんに吹っ飛んでしましました。」(同339ページ)

同郷同年代のゾフィー・ショルは兄とともにミュンヘン大学でナチスへの抵抗運動のためのビラ配りをしたため、43年2月に国家反逆罪で処刑されていたのだった。いわゆる「白バラ抵抗運動」の主要メンバーだった。
「・・・・彼女は、自分の落ち込みを第3帝国時代の人畜無害な自分の役目とは対照的なナチスの残虐行為に結びつけて考えるようになる。そしてますます具体的になっていく罪悪感に苦しめられたのだ。『あなたはまだあんなに若かったのだから』という、これまでの都合の良いアリバイもにわかに崩れてしまう。」(同書338ページ)
60年代半ば当時、ユンゲは雑誌編集の仕事についていた。
「・・・・私は急に書けなくなりました。何でもない数行さえ書くことが難しくなりました。自分の職業もまっとうにできないのだという考えが病状をさらに悪化させました。そのとき私は逃げ出そうと思ったのです・・・・・」
深刻な自己嫌悪に苦しんだうえに、その後子宮がんも患った。
しかし彼女は意を決して
「・・・・・とてつもないパラドックスに聞こえるかもしれないが、トラウデル・ユンゲは国家社会主義からの徹底的な決別を実行した。決してそれに所属したとは感じていないが、にもかかわらず、彼女もそのシステムを支えた一員ではあるのだ。彼女は体面をもっともらしく取り繕うことなく、むしろ同胞に対して誠実であろうと努力してきた。苦しい自分との戦いの年月には一つの意味がある。彼女はそれによって成長したのだ。」(同340ページ 「解説2 ある贖罪の年代記」)
「・・・・今、私は二重の哀しみを抱いているのです。ナチスによって殺された何百万人の運命を思い、適切な瞬間に反論する自信と思慮に欠けたトラウデル・フンプス(結婚前の姓)という娘を思って・・・・・。」(同341ページ)
この苦渋に満ちた告白は、まっとうな人間の「良心の吐露」といえるのではないだろうか。普通なら多くの人が避けたがる生き方だと思う。
過酷な運命を凝視し、良心をもって正面から向き合う、とてもつらい精神闘争を開始したのだった。