The Third Man(3) 「映画」と原作「小説」の違い

ハヤカワepi文庫の「第三の男」を読んでみた。

ハヤカワ文庫
ハヤカワepi文庫「第三の男」

もともと映画化を意図した小説なので、作品として発表する予定はなかったらしいから、最終完成品の映画とはさまざまな違いがある。
小説では、「語り手」はキャロウエイ少佐。

映画は英国で発表する場合とアメリカで発表する場合を考えて、人物の国籍なども脚本では変更された。シナリオを読むと、細かい食い違いも多い。

しかし、原作を読むことによって、映像だけでは見落としがちな、この時期のウイーンの複雑な事情がよくわかる。そのうえに登場人物の輪郭がより鮮明に理解できるように思った。

Alexander Korda
Alexander Korda

中欧の旧都ウイーンを舞台に選んだのはハンガリー出身のプロデューサー、アレクサンダー・コルダのアイデアだった。ユダヤ系のハンガリー出身で、英米の映画界に多大な貢献を残した人らしい。
古き良きウイーンへの郷愁が感じられる。

激しい空爆と、45年のソ連軍とドイツ軍の市街戦で廃墟と化したウイーン。映画では暗く寒い、荒涼たる冬景色をバックにその落剥振りがうかがえる。

基礎的な生活物資の欠乏に苦しんだこの当時のウイーン市民の困窮ぶりもわかるし、外国の軍隊に分割統治された抑圧感も伝わってくる。
一般民衆の家庭だけでなくて、カフェや劇場も暖房設備が不足していた。

たとえばアンナ・シュミットが住むアパートの管理人の老婆がソ連の軍事警察に家宅捜査されたとき、布団を体に巻いて出てくるシーン。厳冬なのに暖房が不足しているからだろう。
聞き取りにくいドイツ語でくどくど苦情を言い立てる老婆に、アンナがマーチンスに頼んでタバコを与えておとなしくさせる。戦勝国アメリカ製のタバコが、人々にとって貴重な物資であったことがわかる。日本の惨めな敗戦後のイメージにダブる。
よく観ると、映画のなにげない場面でしばしばタバコが効果的な小道具として登場する。
タイヤや貴金属、腕時計なども闇市場で取引されたようだ。特にソ連軍は腕時計を欲しがったという。貧しい農民出身者が多かったのだろうか。
誇り高いウイーン人には、まるで東方の蛮族に蹂躙されたような境遇だったのだろう。

それでもマーチンスが訪れる居酒屋や喫茶店、アンナが登壇する劇場がちゃんと営業しているのが意外に思える。電力不足で薄暗い。
時代背景はまったく違うが、私はあの阪神大震災の直後のことをふと思い出した。

震災から数日後のことだった。
雨が降るかもしれないということで、朝から災地にブルー・シートなどの支援物資を大阪からトラックで運ぶことになった。
半分崩れかけた阪神高速道路の高架下を、恐る恐る走った。いつ上から道路が崩れ落ちてくるかもしれないという恐怖感があった。

そうしてやっとのおもいでたどり着いた被災地からの帰路。
国道2号線が大渋滞で少しも動きそうにないので、左折して六甲山を超え、有馬経由で大阪府の豊中市に迂回したときにはもう夕闇だった。

豊中市街地に入って驚いたのはパチンコ店やカラオケ店が堂々と営業していて、そのネオン・サインが煌々と耀いていたことだ。先ほどまで見て来た、まるで空襲の後のような神戸市内の悲惨な風景との余りに大きな落差が心に強く残った。震災はかなり局地的な被害だったのだ。
と同時に、人間のたくましさを見る思いもした。

敗戦当時の日本やイタリアと同じで、オーストリアもまた誰もが生き抜くことで精一杯だっただろう。人々の心は荒み、治安状態も悪い。様々な政治的背景を持つ民族が国境を越えて入り混じり、互いに疑心暗鬼で生きていたことだろう。

とくに戦後の「東西陣営の境界線引き」を有利にしようとしたスターリンの思惑で、ソ連軍が東欧諸国を共産化したため、多数の難民がウイーンに逃げ込んでいたようだ。ウイーン市民の実に1割が周辺国の難民であったというから、その混乱振りがしのばれる。
島国で育った私たちには、こうした大陸国家の事情には疎い。

現在のEUを揺るがす中東難民にも、我々がうかがい知れない多くの悲劇がきっと数多く発生していることだろう。
誰も戦争や内乱など望んでいないのに。

ホリーとアンナ
ホリーとアンナ

小説ではアンナ・シュミットはハンガリー人で、父親がナチス(あるいは協力者)であった疑いをもたれている。もしも不法滞在を摘発され、ソ連軍によって強制送還されれば、どのような恐ろしい扱いを受けるかしれない。映画での彼女の暗く不幸な面立ちには、こうした事情が反映しているのだろう。
詳しい説明はないが、アメリカからやってきたマーチンスには想像もつかないような重い背景を孤独なアンナは背負っているのだろう。それゆえに、愛人ハリーへの思いがいっそう一途になったのだと察することもできる。

文字で読むと、それぞれの役者の立場や性格の違いがより鮮明になる。映像と較べながら読み込んでみた。
映画では悪役のハリー・ライム役はオーソン・ウエルズ。ホリー・マーチンス役のジェームズ・コットン、英軍人キャロウエイを演じたトレヴァ・ハワードらの演技巧者。今時の、作られたミーハー人気だけでテレビや映画に露出しているような「大根役者」とは格段の差があると思う。
古い映画を鑑賞する楽しみは、正当な舞台訓練を受けたほんものの俳優の演技を堪能できることでもある。

たとえば男の友情と「正義」の狭間で揺れる、マーチンスの性格はいかにも陽気で単純なアメリカ人らしいし、治安を取り締まるキャロウエイの感情を抑制した冷静な語りも、英国人らしい思慮深さが際立つ。

キャロウエイ
キャロウエイ

国土が戦災を免れたアメリカからやってきたばかりのホリーには、西欧の痛手の深刻さが飲み込めていない。ウイーンで生きる人々の置かれた、切実な事情をつかみかねているのだろう。
だからアンナが犯罪者ハリーを、そのありのままの姿で愛していることが理解できない。ホリーには「正義」をかざせばアンナが心変わりするかもしれないという期待、いかにもアメリカ人らしい素朴な未練があるのだ。

しかしアンナを本当に理解できていないから、しばしば好意もすれ違う。
そのため警察に協力するのか、さっさと帰国するのか何度も気持ちが揺らぐ。これは小説を読んでより鮮明にわかった。

ハリーは英米仏の占領区では「犯罪者」だから、ソ連地区に逃げ込んで潜んでいる。
移動手段は地下水道だ。ソ連当局に「サービス」をしている間は命の保障もある。

もともとアンナの偽造証明書は愛人ハリーの手配で与えられたものだったが、なんとそのハリーがソ連地区で生き延びるために、彼女をソ連軍当局に「売る」というような裏切りも平然とやってのけた。
それぞれの占領軍の統治スタイルの違いが、こんな「裂け目」を生んだ。

愛人すらも平然と捨てるハリーをなじる親友のホリー。しかし、ハリーはまったく悪びれる様子もない。ハリーは言う

「・・・・ Nobody thinks in terms of human beings.  Governments don’t, so why should we?  They talk about the people and the proletariat.  I talk about the suckers and the mugs.It’s the same thing.  They have their five year plans, and so have I.・・・・」

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居直るハリー

「・・・・この頃じゃな、誰も人間のことなんて考えてないぜ。政府からしてそうなんだからな、おれたちだってそうだろ?やつらは民衆だの、プロレタリアートだの言いやがるが、おれはアホと呼ぶんだ。同じことだ。政府は五ヵ年計画だそうだが、おれも五ヵ年計画さ・・・・」

良心の呵責を否定するハリーの悪辣さに、旧友のホリーは圧倒され気味でもある。もはや学生時代の茶目っ気でいたずら者のハリーではなかった。廃墟のウイーンで正真正銘の大悪人に変身してしまったかのように見える。

この有名な大観覧車(19世紀末の年代物で、今も残っているそうだ)のゴンドラの中での、緊張感に満ちた二人の会話は慎重に読み解く必要がある。この会話の脚本も何回か変更されており、ハリー役のオーソン・ウエルズが付け加えたという、以下の有名なセリフは小説にはない。

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ホリーにだけは「悪の哲学」を語る

それはハリーの「悪の哲学」で、この映画の重要なメッセージのひとつだと思う。ハリーは仲間の闇商人たちとは、こんな本質的な話はしていないだろう。実は、二人が20年来の親友であったからこそのセリフだ。
別れ際、思い出したように振り返ってハリーは言う。凄い言葉だ。

「 Remember what the fellow said.  In Italy, for thirty years under the Borgias they had warfare, terror, murder, bloodshed, but they produced Michelangelo, Leonardo da Vinci and the Renaissance.  In Switzerland they hadbrotherly love.  They had five hundred years of democracy and peace, and what did that produce?  The cuckoo clock.  So long. Holly.

「・・・・誰かが言ってたのを思い出したよ。イタリアではボルジア家の30年の圧政(戦争、恐怖、殺人、流血)はミケランジェロ、レオナルド・ダ・ヴィンチのルネッサンスを生んだが、スイスの500年のデモクラシーと平和は何を生んだ? 鳩時計だけさ。あばよ、ホリー。」

こう述べて、ホリーの取りつく島もなく、あっという間にハリーは立ち去った。この「間」の取り方の見事さ。思わず唸ってしまった。

一筋縄ではいかない「本音」を、ドスンとホリーに突き付けた。

外国人のハリーがウイーンで闇商売を続けるためには、ホリーのような同郷人で信頼できる仲間が必要だ。そのためにアメリカからの旅費も支給して、わざわざ呼んだのだった。

このセリフは原作にも脚本にもないオーソン・ウエルズの発案だったが、のちにスイス当局から歴史事実の誤りを指摘するとして修正申し入れがあったようだ。
ただ、コトは史的な事実関係の真偽よりも、人間が犯す「悪の本質」を問うことなのだろう。

水増しした闇物資のペニシリンで、罪のない多くの子供たちが重篤な病に陥り、死者も出した。ハリー自身も犯罪だと認めている。
しかし、「国家の正義」が大量の殺人を正当化して、勲章まで与える「欺瞞」を恬として恥じないのに、今更ホリーの小さな「悪行」をあげつらうことに、どれだけの正当性があるのか、という居直りだ。
見てみろ、欺瞞国家どもが勝手に起した戦争で、美しいウイーンは滅びたのだ。

もちろんハリーの手前勝手な自己正当化だが、オーソン・ウエルズのいじけた悪役振りがチャーミングに見えるくらいに見事なシーンだ。
しかしその言い分は簡単に否定できない、ある種の「真実」を衝いている。だから、この映画は高く評価されたのだろう。
この論理をどう克服すべきか。映画はそれをしも問うている。ハリーの悪事は決して肯定できない。かといって国家が翳す正義など信用してはならない
今の日本も、同じ轍を踏む危険性は充分にある。私には決して賞味期限切れの映画だとは思えないが、どうだろうか。憲政史上「最長政権」だそうだが、ついでに「腐敗堕落」という修飾語でも付けたいくらいだ。

このように、小説をもとにした脚本は議論を重ねて何回も書き直された。
そして最大の違いはやはり結末。

映画ではハリーの葬儀のあと、冬枯れの中央墓地の一本道を歩き去るアンナとホリー・マーチンスのすれ違いが、アントン・カラスつま弾くテーマ・ミュージックとともに物語の悲劇性をいやがうえにも引き立てていた。

ところがグレアム・グリーンの原作小説ではまったく正反対で、ホリーとアンナはやがて無言のまま腕を組んでハッピー・エンドで幕を閉じるのだ。
そうなると、映画を観たあとでは、やはり違和感が残る。いっぺんで陳腐に堕する。

現実的に考えれば、政治難民で逃げ場のないアンナはやはりホリー・マーチンスや英軍に頼るしか、生き延びるすべはないはずだ。
しかし映画の結末はまったく逆になった。
これはキャロル・リード監督のアイデアだった。それが成功の秘訣だ。そして、その悲劇性を高めるためにアントン・カラスのテーマ・ミュージックが創作された。

グレアム・グリーンによると
「・・・キャロル・リードと私の間に生じた、ごく少数の重要な論点の一つは、結末に関するものだったが、結果は彼の見事な勝利であった。私は、この種の娯楽物には不幸な結末は重すぎる、と考えていた。・・・・私は正直に告白するが、彼の説には半信半疑だった。女が墓場から歩いて行く長丁場を、観客はじっと坐ったままで見ているだろうか。・・・・私はリードの巧妙な演出を十分考慮に入れていなかったし、この段階では、リードがツイッター奏者アントン・カラス氏という、みごとな掘り出し物をしようとは、二人とも予想すべくもなかった。・・・・」(ハヤカワepi文庫10-11ページ)
つまりグリーンはもっと軽いタッチのサスペンスものを想定していたのだった。それにたいして監督リードは、まったく別次元の演出を考案していたのだ。

キャロル・リード
キャロル・リード監督

かくして、呑気に待ち受けるホリーに一瞥も与えず昂然と立ち去るアンナの姿は、映画史上に残る永遠の名場面となった。
美しいアンナの愛の気高さが、尽きせぬ余韻を私たちに与えるのだ。

絶望の淵にありながら、なおかつ魂の高貴さを奏でるチターの音色が万人の心を打つ。
私は、この映画から「戦争と革命の20世紀」を生きた人々の心を、ありありと学んだように思う。
同時に「パックス・アメリカーナ」がなぜ失敗したのか、そのヒントを得たように思った。

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