映画「第三の男」(2)        ニヒリズムの旋律

私はこのサイトで映画カサブランカを評して、「皆で寄ってたかって作ったところに成功の秘訣がひとつあったのではないか」と記したが、その印象は「第三の男」にもあてはまる。映画は「総合芸術」などと評されるが、素人なりに想像すると原作、脚本、美術、撮影技術、演出、そして俳優の演技力といった要素が有機的に組み合わさって、完成に至る芸術なのだろうと思う。

日本では、敗戦後7年の1952年に公開されたという。

まず、原作者の英小説家グレアム・グリーンはこう述べている

Graham Greene
Graham Greene

「『第三の男』は読んでもらうためにではなく、見てもらうために書いたものだ。・・・・私は、私の主人公(売れない西部劇作家ホリー・マーチンス)と同様に、ハリーのことがまだ明確になっていなかった。だから、ディナーのときにアレクサンダー・コルダから、キャロル・リードのためにシナリオ━━われわれの『落ちた偶像』に続くものだ━━を書いてくれと頼まれたとき、私の提供できるものは」(ハヤカワepi文庫「第三の男」8ページ)まだほとんどなかった。
コルダはイギリスのプロデューサー、キャロル・リードはこの映画の監督。「落ちた偶像」もグリーンが脚本を書いたのだろう。

「・・・・コルダは四大国の占領下にあるウイーンにまつわる映画が撮りたかった・・・・ウイーンはアメリカ、ソ連、フランス、イギリスが統治する区域に分割されていて、中心部はその四大国が一ヶ月交替で治安し・・・・・こうした複雑な状況をコルダは映画に加味したかった・・・・」(ハヤカワepi文庫「第三の男」8ページ)

川本三郎氏の解説ではアレキサンダー・コルダについて
「・・・・コルダという名前からわかるようにハンガリー出身でオーストラリア・ハンガリー帝国の時代を知っていた。それだけにウイーンに対する思いが強く、第2次大戦が終わったあと、戦争に敗れ、荒廃したウイーンを舞台に映画を作ることを思い立った。」
(同197-8ページ)とある。

ストーリーそれ自体は、ペニシリンの横流しという闇商売に手を染めた男ハリーと愛人、その愛人に恋をした男ホリー(ハリーとホリーは古い親友)の三角関係、という単純な筋立てなのだが、それを第2次大戦直後の、複雑な占領体制下にあった古都ウイーンを舞台にして組み立てた。

グレアム・グリーンも一筋縄ではいかない小説家のようだ。インテリジェンスの専門家でもある。ウイーンに飛んで構想を練った。現地で諜報部員からのブリーフィングも受けている。

「・・・・残りあと二日となった日に、私はイギリスの情報組織の若い将校と昼食を共にする幸運に恵まれた━━戦時中、SIS(イギリス秘密情報部)と関係をもったことが、ここで実を結んだのだ。・・・・・下水道の中は四大国の管理下になく、その入り口はウイーンのいたるところにあって、広告塔に見せかけている。なぜだかよくわからないが、ソ連はそれを閉鎖することに反対していて、各国の情報部員は何の制限もなく自由に行き来できるという。主下水道は潮の干満のある巨大な川のようで、甘い匂いがした。昼食のときにその情報部の若い将校は、私にペニシリンの闇取引のことを話してくれた。そして今、下水道をまわりながら、物語の全体像が形をなしてきた。・・・・・」(同14ページ)

占領下のウイーンの特殊事情がよくわかる。
つまりは大戦の爪痕と冷戦という政治事情が、ウイーンの社会生活のあらゆる局面に暗い影を落としていたのだ。これは本サイトのテーマ━━私たちの生まれ育った戦後世界を考える際のひとつの素材にもなる。ある種、「西欧の没落」気分を反映しているのかもしれない。

当時、敗戦国オーストリアの首都ウイーンを四大国の占領軍が共同統治していた。その特殊な状況が話を構造化したのだ。
こうした場の設定が名作の秘訣でもあった。

若い頃に見たときには、私はこの時代のオーストリアの首都ウイーンが置かれた政治的な事情に疎かったので、「戦災で荒廃していたのだなぁ」というくらいの、表面的な印象しか頭に浮かばなかった。この作品の彫りの深さが解らないままだったのだと思う。

映画「カサブランカ」が、ナチズムを逃れてハリウッドにやってきたユダヤ系映画人たちの政治意識を反映していたように、「第三の男」にはかつて神聖ローマ帝国の首都として放った栄光のウイーン・・・・ヨーロッパの中心的な文化都市・・・・・への郷愁を秘めた人々の心があったことがわからなかったのだ。映画自体はイギリスの作品だが、おそらく欧米の観客にとっては、廃墟のウイーンに「西欧の没落」を眺める思いがあったのだろう。あたかも「羅城門」の荒廃が「世の末」を象徴したように。
だからこそアントン・カラスがつま弾く、上品でいて悲しみに満ちたチターの音律が尚更心に沁みてくるのだ。

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映画では空爆によって破壊された廃墟の痕が、斜めのアングルから効果的に切り撮られている。都市のインフラが未回復なために、照明設備が不足している事情がモノトーンの陰影に反映されている。
だからこそ、暗い街頭の中に主人公ハリー(オーソン・ウエルズ)が、あの陰のある含み笑いを浮べて突如登場する名シーンも、こうした時代背景を織り込んだ、とてもよくできた演出なのだと思う。

大戦の惨禍なしにハリー・ライムの人物像は語れない。

ハリー・ライム
ハリー・ライム

冒頭に出てくる闇屋の姿を通して敗戦後のオーストリア、ひいてはヨーロッパ全体の深刻な経済マヒを描いた。
そして、外国軍隊による分割占領地区という環境が、統制品としての「ペニシリン」の闇商売を生む温床になったのだ。

ペニシリンは世界初の抗生物質で、イギリスで発見されてアメリカで大量生産されたというが、それがちょうど第2次大戦期に傷病兵を治療するのに使用された。貴重な軍需統制品だったようだ。民間に開放されたのはやっと戦後からだそうだから、ハリーのような闇商人たちにとっては「濡れ手に粟」の商材だったのだろう。
そして統制品の出もとは軍や政府機関だったからこそ、治安責任者の英軍キャロウエイ大佐(映画では少佐)は、軍の威信をかけてハリーを摘発しなければならなかった。

キャロウエイ
キャロウエイ少佐

しかもハリーたちは手に入れたペニシリンを「水増し」して横流しをしたので、何も知らないで服用した人々(そのなかには子供も含まれる)には深刻な障害や死をもたらす被害を起こしていた。

仕事にあぶれた旧友のホリー・マーチンス(ジョセフ・コットン)に「金になる仕事」(内容は説明していない)を紹介するからと、はるばるアメリカから呼び寄せた。悪辣なハリーは年間3万ポンド(もちろん税なし)の荒稼ぎをしていたのだ。売れない西部劇作家ホリーは、年収わずか(税込み)1000ポンド。
ハリーが、いかにもアメリカ人らしいお人よしのマーチンスを呼び寄せたもうひとつの理由は、彼にとって外国のウイーンでは「誰も信じられない」からでもあった。

そして実は、ハリーは人間だけではなくて政治も(それが資本主義国であれ共産主義国であれ)まったく信用していなかった。なぜなら、もっともらしい大義名分をたてて戦争という大量殺人を正当化したのは、ほかならぬ国家権力であったからだ。

だから、統制品の密売という悪に手を染めたハリーにはハリーなりの言い分があった。自分を犯罪者と決め付けて追う権力のほうが、はるかに罪深い「巨悪」だと主張しているように見える。
一種の居直りなのだ。そのすねた風情をオーソン・ウエルズが好演した。

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ハリーは主張する

英軍当局は必死でハリーを追った。
しかしハリーは網目のような地下水道を使って、まるでドブネズミのように縦横に出没する。英米の占領区域を巧みに逃れてソ連の支配地域に身を潜めた。ウイーンが四分割だったことを逆手にとって、こんな裏技ができた。アウトローの真骨頂といえる。
この立派な地下水道設備は、かつてウイーンがインフラ先進都市であったことの遺産なのだろう。

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地下水道を逃げるハリー

主役のハリー・ライムとホリー・マーチンスは20年来の親友でアメリカ人という設定。ハリーの愛人アンナ(アリダ・ヴァリ)はチェコ人(小説ではハンガリー人)という設定だ。彼女には当時の国際情勢が投影されている。

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アンナに心寄せるホリー・マーチンス

アンナ・シュミットが小説ではハンガリー人、映画ではチェコ人として描かれたことについて川本氏は

「・・・1948年という年は、東西冷戦が緊張を増した年で、二月にチェコで『2月革命』が起き共産党が権力を掌握、六月にはソ連がベルリン封鎖(翌49年に東西ドイツに分裂)。・・・・・・ウイーンは東西の境に位置していたために戦後の荒廃に加え、新たにはじまった冷戦の緊張を強く受けるようになった。いかがわしい人間が暗躍するサスペンス劇にとっては絶好の舞台になったといえる。・・・・チェコ、ハンガリー、ポーランド、東ドイツなどから多数の難民が入り込み、1948年にはその数が60万人(オーストリアの人口の約10パーセント)にも達した。ハリー・ライムの恋人アンナ・シュミットがハンガリー人という設定になっているのはそうした状況を踏まえている。彼女は正規のパスポートを持たない難民だから、いつソ連によって逮捕されるかわからないという不安にさらされている。・・・・・」

彼女の表情にほとんど笑みのない理由がよくわかる。

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アンナ・シュミット

ホリーがドイツ語をまったく理解できないのに、彼女はドイツ語に加えて英語も不自由ではないのは、その素性が劇場のたんなる端役女優ではなくて、きちんとした教養を身につけた階級の出自であることを推測させる。

つまり、チェコやハンガリーの共産革命のときに逃げてきたブルジョワ出身の「難民」だったらしいことを暗示しているのだ。

ハリーは愛人のために精巧な偽造パスポートを与えていた。これが発覚(ハリーが、ソ連占領下に逃げ込むための取引材料として当局に「密告」した可能性が高い)したので強制的な帰国処分を受けた。
面白いことにソ連軍当局はハリーの闇商売にはまったく関心がなくて、アンナの強制送還のほうが重要な「任務」なのだ。共産圏の政治支配、人身統制のほうが、自由主義陣営が取り組む犯罪政策よりも優先事項だったからだろう。
ここはそれぞれの体制の思惑の違いが見て取れる。

アンナを愛してしまったホリー・マーチンスは、キャロウエイ大佐と取引してアンナを救う代わりにハリーをおびき寄せる囮役をするのだが、それを見破られてアンナから(男の)「裏切り」を強くなじられ、拒絶されるのだった。アンナは自分の身分をソ連軍に密告さえしたハリーへの愛を貫く。この映画のキモだと思う。

アンナはハリーの正体を知っていたのだろうか。
否、彼女もまた、この不条理な世界でたった一度だけハリーが見せてくれた、かりそめの愛を、虚妄と知りつつ永遠にしたかっただけかもしれない。
つくづく不幸な影を背負う女なのだ。

この作品は、専門家の間ではフィルム・ノワール(仏語で「暗い映画」)の代表作だと評価されているが、私は「この世」のリアリティーをよく表現していると思う。

確かに彼ハリーは犯罪者だ。弁解の余地もない。

しかし私達は、ハリーなど比べものにならないくらいの「巨悪」が、のうのうと生き延びている、この世の「不条理」を経験的に知っている。奴らは暖衣飽食を満喫したうえで、畳の上で安らかに死んでいるではないか。
本当の悪党は法の網を巧みにくぐり抜け、安全地帯に生息してるのだ。ハリーのように、汚辱にまみれた薄暗い地下道を、傷ついたドブネズミのように逃げ回る必要などない。
そもそも悪党は権力を敵に回すようなドジは踏まないのだ。
むしろ、権力の走狗であったりするのが悲しい人間界の実相ではないだろうか。

こう考えると、実は弱者の一人に過ぎないハリーのようなアウトローは、最後には必ず潰されるのがこの世の掟なのだ。

だからこそ、その世界を斜めに構えたハリーの無残な死は、見る者のむなぐらにニヒリズムの刃を突き付けるのだと思う。
ただひとりの友人ホリーの「介錯」で死ねたことだけが、せめてもの慰めだったのだ。

その寂しげな別れの表情が心に刺さる。名演だと思う。
こうした悲しみの風情を目撃することは、そうたびたびあることではないだろう。

ホリーに介錯を委ねた

アントン・カラスの奏でるメロディーは、その悲しみを見事につま弾いて聞く者の魂を震わせた。

確かに歴史に残る名作だと思う。

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