典型的なフランス映画であり、歴史に残る傑作だと思う。
あかるい陽光に溢れた南イタリアの海、沿岸の景色はまるで風景絵画を見るように美しい。
日本では1960年公開のサスペンス映画だからもう半世紀以上も前の作品だが、当時24歳の美男アラン・ドロンの容姿がこの映画で一躍全世界を席巻したとのこと。
生い立ちの貧しい青年の、暗い野望が破綻する過程を描いているのだが、私にはずばり「悪」がテーマであるように思える。そして、いかにもフランス映画らしく、主役は妖しいまでに「美しい犯罪者」なのだ。人間性の深淵を掘り下げていると思う。
これは一筋縄には論じられないが、自分なりに解読を試みてみたい。
繰り返すまでもなく、アラン・ドロンの惚れ惚れとするような顔立ちの端正さ。しかしもう一重立ち入れば、その生い立ちの不遇さが役どころに反映されているのではないだろうか。それがテーマの完成度を高めたように思う。役柄と俳優の人生とは、暗々裏の相関関係にあるのだろう。
主役の魅力の虜になることで、我々は心理的に悪との「共犯関係」に立たされる。感情移入を巧みに誘う罠がこの作品には仕掛けられているのだ。
アラン・ドロン演ずるトム・リプリーは二人の同世代の青年を殺すのだが、殺された被害者に同情する観客は少ないだろう。この倒錯が通俗的な道徳観念を逆転するのだ。
二人とも大金持ちの放蕩息子にすぎない。額に汗して働く必要のない青年たちの退廃的な贅沢三昧。弱者を見下す横柄さ。たわむれに盲人をからかったり、慎ましく真面目に生きる人々や社会を冒涜する。一言で言って心根の悪い若造たち。
ときに、さり気なくすれ違うカトリック聖職者の敬虔な姿が、逆に彼らの罪深さを際立たせるのだろう。
友達でありながら見下げられ苛められる屈辱に耐えながら、トムはカネのためにフィリップ(モーリス・ロネ)の便利屋を務めている。二人の青年は旧友らしい。
フィリップは米国・サンフランシスコにある、造船会社の経営者グリーン・リーフの放蕩息子という設定。風光明媚なイタリアで遊びほうけて、なかなか帰国しない。いっぽうトムはフィリップの父の依頼で、彼を説得して帰国させるためにやってきて、そのお遊びに追従している。
フィリップがアメリカに帰国すれば報酬は5000ドル。父グリーン・リーフ氏は、出自は「卑しい」が気心の通じ合うトムを使ってドラ息子の帰国を説得させようとした。トムはいわば「目付役」、「使い走り」なのだ。
グリーン・リーフ氏は、その組み合わせが二人の青年の関係に深刻な歪みを背負わせていることには無頓着なのだろう。表向き屈託なさそうな様子でいながら、トムは羨望と屈辱を内面深く鬱積させていたのだ。それは深い「憎しみ」を発酵させる。
この時代の南イタリアの港町に旅行者の手荷物を運ぶ貧しい子供たちが登場する場面がある。トムの子供時代を暗示しているのかもしれない。しかし「才能ある」彼の心には、もっと暗い情念が宿っていた。物陰に潜み獲物を狙う野獣のように、貧しさを脱するチャンスを探っているのだ。
更に面白いことに道楽息子のフィリップと貧しいトムとは、不思議な持ちつ持たれつのバランス関係でもある。明示的ではないが、淀川長春はそこに同性愛の匂いを嗅ぎつけている。フランス映画は一筋縄ではいかない。
トムの説得にもかかわらずフィリップはイタリアでの放蕩をやめようもない。
やがてフィリップの許婚のマルジュも加わって営まれる三人のヨット生活では、若いがゆえに三つ巴の愛欲と我執が剥き出し、激しい葛藤劇を展開することとなる。これは確かに青春の一断面だろう。きれいごとではないのだ。
根底には、青年期に特有の熾烈な「生存競争」本能が蠢いているように思える。気まぐれで虚無的な青年と、暗い野望の炎を秘めた青年。トムは屈辱の中で反転攻勢のチャンスを覗う。
一皮剥いた「青春」の酷薄さがよく描かれている。
だからこそ、醜い葛藤とは裏腹に、物語の舞台はまるで印象派絵画のようなパノラマ。陽光眩しいの地中海沿岸と紺碧の空。おとぎ話のような色とりどりの愛らしい住居が並ぶ。そのなかで、ときにひやりとするほどの冷たい眼光を放つトムの美貌が、恐怖感を募らせる。
ストーリーの暗鬱さと風景美のコントラスト。
フィリップがトムの「殺意」を察した頃には、その姦計が効奏して許嫁のルジュもささいな口論から陸に上がってしまっていた。
船上は殺気立つ男ふたりの睨みあいの修羅場となっていた。
心理的な形勢逆転の緊張感が横溢する中、トムの獣のような殺意は、フィリップに恐怖心を呼び覚ました。トムの逆襲ゲームが始まったのだ。これに呼応するかのように海は一転して嵐となり、かねて練られた緻密なトムの殺人計画が発動された。
自然環境と人間の感情世界が照応する不思議さ。
自然は人が思うほどに美しいだけでは決してないのだ。
善も邪悪も同時にあって、しかも深い部分では地下茎のように複雑に絡み合っているのだろう。そこには善悪の性質を帯びて顕現してくる以前の、ある種のマグマが滞留しているのだろうと思う。
むろん、誰しも潔癖な「善」を理想とすべきだろうが、人間内奥の真相はそれほど簡単に割り切れない。
だからこそ、悪を無条件で容認してはならないが、人が人を裁くことには慎重であるべきだと思う。テレビの事件報道は事実をなぞっているだけだろう。
これまでさんざん出自の貧しさを鼻先に当てつけられ、いたぶられてきたのだから、見ている我々には鬱積した怨念を思い切り発散した「解放感」すら浮かぶ。思わずトムの殺意に「共感」してしまうのだ。かくて多くの観客はトムの隠蔽工作の成就を願っている自分を発見するだろう。
トムは殺したフィリップに巧妙に成り済まし、その財産と愛人をまんまと横取りしようと画策する。ときに露見を恐れてひやりとするような想定外のハプニングに観客も胆を冷やすのだ。
殺人犯を追う警察の執拗な身辺捜査が迫ってくるが、観ている誰しもが、トムとともに「逃走」したくなるだろう。
こうして私たちは、我知らず自らの中にある「悪」の発芽を自覚させられることになる。映画の秀逸さに舌を巻く。
それは、ありきたりな道徳観念では太刀打ちできない、心の深淵に潜む情念を擬似体験させられるからだろう。
続いてフィリップの遊び友達で、これまた資産家のどら息子であるフレディに偽装工作を見破られたトムは、かねて憎んでいたこの男もとっさに撲殺する。それをフィリップの犯罪に仕立てる。
フレディは資産家の息子で、ぶよぶよに太った大柄の青年だ。ここでも「被害者」はひたすら醜い。だから罪の意識は少しも起こらない。
ひとつの凶行を隠蔽するために、更にもうひとつの犯罪を重ねることになった。
すれ違う聖職者と、市場に並ぶ魚の不気味で醜悪な眼が、私たちを不安に陥れる。
私たちのなかにも、「悪」の可能性は確かに存在するという冷厳なリアリティーを、映画は雄弁に言挙げているかのようだ。フィリップ殺害後のヨットを接岸するところで、波止場にたむろする老人たちが「罰当たりめ」とつぶやく場面なども、計算しつくされたカットだ。
面白いことに原作のアメリカ小説では、トムは最初の殺害を犯した後、フィリップになりすまし、二人の人物を巧みに演じ分けて、その遺産を自分のものにしてしまうのだそうだ。つまり、映画とは全く逆の結末なのである。
おおげさに言えば、この時代のアメリカとフランスの文化的な落差がそこに垣間見えるのかもしれない。
暗い光をたたえた美しい瞳は、氷のように冷たい。
完全犯罪は成就するかにみえた。
ところが土壇場で思わぬどんでん返し。
それまで、参考人扱いのときにはにこやかだった刑事の表情が一転、悪漢を捕らえる形相に変貌し迫ってくる。
この場面は善悪と美醜が逆転する恐怖感を催す。
ストーリーは辛うじて「善悪のバランス」を維持したように見える。
しかし、観終わった印象としては、矛盾した物言いかもしれないが、犯罪が未完で終わったことには残念感すらある。そう仕組まれた作品なのだ。
なぜなら、「小悪」は断罪されても、「巨悪」はのうのうと生き延びる、この世の不条理さを私たちは経験的に知っているからでもある。美しいトムは断罪される。しかし醜悪な巨悪は大手を振って巷を徘徊しているではないか。
不幸な青春の蹉跌をアラン・ドロンが見事に演じた。
ニーノ・ロータの美しくも哀切なテーマ音楽は、いちど聞いたら深く魂に差し込んで離れない。
聞くたびに主人公の哀しみが蘇る。
あまりにも優美で平和な背景なので、尚更に青年たちの無残なまでの不幸が際立つのだ。
簡単に割り切れない人間の「悪」を深く考えさせられた。
2024.8.21 postscript
溝口 勝美、三宅 史明、他30人