高橋和巳「邪宗門」(11)          インテリの態度

邪宗門「ひものと救霊会」に期待をかけたインテリの弁明を、自分なりに読み解いてみよう。
ひとつは、「ひのもと新聞」編集主幹の中村鉄夫の公判での陳述。

1.帝国大学教授(勅任官)の奢り

「私のひのもと救零会における位置は、顧問的なものでありました。・・・ヨーロッパ的観念から言えば、天皇制というものが、この日本社会の上部構造の最先端にあると目されるものなのでありますが、残念ながらそれはローマ教皇の地位と権威には相当せず、天皇制を支える神道理念は、先端まで行ったところで、ふわっと、農村の自然崇拝とその日々の感情生活へと解体されるのであります。・・・そのことに気づいた時、私には二つの道がありました。あくまで学究の徒として、歴史的に不等質に進化する各地域の文化の特質、つまりは日本的特殊構造をより精緻に究明することであり、今ひとつは、単に解釈する学問してではなく、この現世を改変する学問の立場から、その奇妙な日本社会の性質を、改変のための条件として認め、そこから行動をはじめるということであります。私は長い逡巡の末に、後者を選びました。上部構造の頂点と、下部構造の底辺とが癒着している、その癒着部分に身を置き、知識人の思念と、民衆とりわけ農民の活力を総動員してゆさゆさと身をゆすれば、もしうまくいけば一挙に理想社会へと踏みこみうるかもしれない。それが私の基本的な志向であり姿勢でありました・・・・・」

つまり中村は「もしうまくいけば一挙に理想社会へと踏みこみうるかもしれない」と、「ひのもと」の新興宗教運動に期待したのだった。なぜかというと、学者の良心として当時の日本社会の深刻な閉塞状況を憂えたからだろう。

「勅任官」(旧制帝国大学教授は天皇による勅任官だった)という権威ある地位を捨てて「ひのもと救霊界」に参画したこと、それ自体が学問的良心に従った選択なのだという。そして機関紙の編集主幹におさまったのだった。
それは、仁二郎にとっては教団機関紙に「権威」を付与する願ってもない好機だったのだろう。

しかし、「現世を改変する学問の立場」が、いきなり「民衆とりわけ農民の活力を総動員してゆさゆさと身をゆする」運動に参画して、「もしうまくいけば一挙に理想社会へと踏みこみうるかもしれない」などという期待に、どれほどの実現性があるのだろうか。深刻な社会矛盾に行き詰まっていた昭和初期の日本に、そういう生き方が実際にあり得たのだろうか。
そこには、何か不自然な飛躍があるのではないだろうかと、私は疑った。

そもそも、特定の信仰団体の機関紙編集主幹の役割を、信仰を共有しない人(=中村)になぜ務まるのだろうか、という素朴な疑問を排除できない。
中村が「ひのもと」に期待するのは自由だが、それはどこまでも社会学者の学問上の帰結なのだろう。だが、そこから宗教団体「ひのもと」へと、一足飛びに跳躍できるものだろうか。中村鉄雄自身に、とりたてて信仰の動機があるのならまだしも。
むしろ非信徒の立場で、アウトサイダーとして「ひのもと」を支援する程度が、精一杯ではないだろうか。

いずれにせよ中村は自分の信念のおもむくところ、いかにも権威ある地位をかなぐり棄てた。その陳述には、まるで上から降臨したような厳かな響きすら感じる。教団指導者である行徳仁二郎の意図とは、異なった動機があるのだという。
「・・・・ひのもと救霊界はたしかに様々の矛盾が内在しており、教団の最高責任者たる行徳仁二郎氏にも、私とは違った考え、違った処世のあることは当然でありますが、私自身はみずからの学問の帰結として、いやその道程として歩みきたった道は撤回しえません。・・・・」

まるで、宗教教義など問題外といわんばかりの高踏的態度に見える。自らの「学問」に対する矜持のあまり、信仰の内実にはあまり頓着していないようなのだ。

しかし「社会学」の帰結と、多くの信者を抱える教団という、なまの現実存在の間には大きな溝があるのではないだろうか。信者の生活に深く根をおろした教団組織にあって、その枢要な部分を担うには、当然ながら学問的思弁だけでは及ばない次元があるはずだ。なぜこんな論理飛躍ができるのだろうか。

所詮は小説(フィクション)なのだから、「架空の物語」として読めばそれで済む話ではないか、という声も聞こえてきそうだが、フィクションにしても不自然さは免れない。

この後に続く中村の陳述を読むとその違和感はさらに増す。

「・・・・・私は単なる反抗精神のようなものでこうしているいるのではなく、自分の境遇が不満で上位の者を指弾しようとしているのでもない。私の能力は、今もそのつもりがあれば大学の講座にもどることもあながち不可能ではない、と自負する。にもかかわらず、私が国家に直属する機関からあえて離脱したのは、国家そのものが今、虚構のものとなり果てているからだ。・・・・・私はアナーキストでもなければ共産党員でもない。しかしながら私に良心の存在するかぎり、現在の国家の機関に奉職することはできぬ。」

虚構の国家に奉職するわけにはいかぬ、と歌舞伎まがいの大見得を切るのは格好いいが、いかにも古めかしい封建的「権威」を暗黙の前提にした、剥き出しのエリート意識が鼻につく。これでは、教団にあってもやっかいな「お飾り」になりかねない。
この「私の良心」がクセものだと私は思う。これでは、「教団」が中村(個人)の観念のなかに閉じている。

しかし、現実の教団には何よりも信仰の対象や教義があり、それを多様な動機で信じ実践する、生身の信徒が存在する。それは中村にとっては第二義的な意味でしかないのだろうか。
「顧問」的な立場なのだから教団機関紙の編集主幹の役割にはなんら抵触しない、などということは実際的だろうか。
あったとしても、ほとんど限定的な「お飾り」になりかねないだろう。
要するに「信心」は社会学ではない。

不審に思ったので調べてみると、小説のモデルとなった実際の大本教では、帝国大学教授の、ある著名な英文学者が実際に入信して機関紙の編集主幹を担ったのだった。
これなら、信仰を共有しているから首肯できる。この違いを作者は自覚していただろうか。

「・・・・ひのもと救霊界はたしかに様々の矛盾が内在しており、教団の最高責任者たる行徳仁二郎氏にも、私とは違った考え、違った処世のあることは当然でありますが、私自身はみずからの学問の帰結として、いやその道程として歩みきたった道は撤回しえません。活動を力で禁じられるならば蟄居もしましょう。しかし、私の精神そのものは、より正確、より秀れた認識が眼前にたち現れることのない限り、変ええないものと思っていただきたい」
と高らかに宣言したとき、同じ法廷でこれを聞いていた被告人席の教主行徳仁二郎が、感極まって突然ぱちぱちと拍手をした。ために裁判長に「静粛に!」とたしなめられるという場面を高橋は描いた。
ここでの教主仁二郎は、さしずめ学者先生の独演に「お囃子」をしているようなものだ。いかにも卑小な新興宗教のリーダー像だと思う。

これでは少々鼻持ちならぬインテリ礼賛になりかねないのではないだろうか。
要するに作者の意図は、インテリによる華々しい「国体批判」の絵柄を物語に採り入れただけなのだろうか。確かに「革命幻想」に陶酔する学生運動家には受ける。

もちろん私自身も、いわゆる「国家神道」などは、出来の悪い「虚構」だと思う。持って回った言辞を弄するまでもなく、父が遺した言葉を引用すれば「馬鹿な戦争」を正当化したツールに過ぎないのだから。

2.学生運動家の甘え

こうしたインテリの新興宗教に対する態度のもうひとつの典型は、富山県の地主の倅という、もと非合法共産党員の入会理由にも見られる。その山辺潤一となのる青年が教主夫人に入会を求めて面談する場面を引用しよう。

「・・・・弘前高校の時代から、私はある研究会を通じて、一つの思想、一つの世界観を信奉するようになりました。人間が作りだした金銭が人間を支配し、人間が作りだした機械が人間に重労働を強い、自分で汗をながして大地を耕した者が自分の作った米を食えず、稗で飢えをしのぐ、この社会がどうすればよくなるかを、その思想は教えてくれました。・・・・」
私も高校生の頃からよく聞いた理屈だが、「資本主義経済は労働者を疎外する」ということなのだろう。

「・・・・私はその行為が大変革につらなっており、大正義の実践に資しているものと信じました。・・・・・しかし大学の二回生の時に検挙され、・・・・・私はその大論理が、自分の日常の倫理とほとんど結びついていなかったことを悟らせられました。・・・・・無理に無理を重ねて、かきたてていた自己英雄視と自己陶酔が醒めたとき、私には歴史を鳥瞰する論理の知識はあっても、日々の感情をささえるなんの支えもないことを知りました。・・・・・未決監に隔離され、白い壁にしか語りかけるものがなくなった時、そういう自分のすべてが見えすいてしまいました。そして私には、語の全き意味での宗教が必要なのだと気づいたのです。」
あれこれ無力な能書きを気取らないと、信仰を正当化できいないのだ。

「私は裏切り者だ。・・・・・私は今ここでひのもと救霊界の教義への忠誠を誓おうとは思わない。私の目にすら、教義には幼稚すぎる欠陥がいくらも見える。ただ、私は、<生活>を持ちたいのです。・・・・弾圧にあいながら、日常のくずれることなく、おたがい同士がにこにこと微笑しあっている、ここの生活の中に私も入れてほしいんだ。曲がりなりにも唯物論を学んできた私にとって、いま教徒の人たちといっしょに神に礼拝してみろと言われれば、私の顔からは脂汗が流れるだろう。自意識過剰の意識がみじめに軋み音をたてるだろうことも解っている。しかし、私の周辺、郷里の家にも、大学の演習室にも、非合法な会合にもなかった、あなたがたの微笑の秘密を私にも分けてほしいんだ。」
面白いことに「教徒の人たちといっしょに神に礼拝してみろと言われれば、私の顔からは脂汗が流れる」くせに「微笑の秘密を私にも分けてほしい」とねだる。
なぜ、「微笑」を徹底して疑わないのだろうか。いかがわしい教祖に騙されているだけかもしれない、と。

この山辺潤一郎の話は昭和戦前期の転向共産党員というよりは、この、当時小説「邪宗門」を愛読していた新左翼の学生運動家たちの姿を描いたもののように見える。
ここでもインテリっぽい衒いからか「語の全き意味での宗教が必要なのだと気づいた」などと持って回った言い方をしているのだが、それはようするに「私の周辺、郷里の家にも、大学の演習室にも、非合法な会合にもなかった、あなたがたの微笑の秘密を私にも分けてほしい」という、あっけにとられるほど単純な<生活欲求>に帰結している。

つまり、この地主の倅でありながら・・・・むしろそうであるからこそ、と言うべきか・・・・搾取される貧者の側に心を寄せた「良心的」な青年が、いっときのめり込んだ「思想」には「歴史を鳥瞰する論理の知識」はあっても、血の通ったなまの生活実感はなかった、という。
その「主義」に短絡的に飛び込んで、かきたてていた自己陶酔が行き着くところ、あっけなく検挙されてたちまちのうちに「醒め」、その結果「裏切り者」に転落したのだという。

つまり今更神仏に手を合わせることなどとてもできない、と言っておきながら信仰団体に入会を求める、惨めな自己矛盾を告白しているのだ。「あなたがたの微笑の秘密を私にも分けてほしい」というのは、身勝手な甘えと言われても仕方ないだろう。
果たして、その程度の運動だったのだろうか。心外に思う人もあるだろう。

学生運動のデモ

この態度は中村鉄夫が旧制帝国大学の勅任教授でありながら、自分の学問的帰結に則って、信仰はしないが教団運動に参画した「良心」と一脈通底するのではないだろうか。山辺が期待した「唯物論」も中村の御大層な「社会学」も、一種の「権威」もしくは「流行」に過ぎなかったのかもしれないと自省すべきだ。
「前衛」を名乗る身勝手なヒロイズムには、大衆を一方的に見下す先入観が潜んでいるかもしれない。
いすれも教団信徒の側からすれば「手前勝手」な理屈だと思う。
そんな「歴史を鳥瞰する論理の知識」それ自体の有効性にも、大きな疑問を呈しておきたい。

いっぽう、教団サイドの立場にたてば、信仰を必要としている人には「無限抱擁」で門戸を広げるべきではあっても、無信論者に対しては、おのずから加入制限があるべきだろうが、トップダウンで許可してしまう。平時ならまだしも、官憲の厳しい監視下にある時節の判断にしては不用意さを免れないだろう。
革命をしくじった「左翼転向者」が、教団の保護を求めて逃げ込むという筋書きは、物語としては面白いのだろうが。

やはり、この作品には教団の主たる構成実体ともいうべき「無名の信徒」の存在が希薄だと思う。そして読者を意識するあまり、色違いの接着テープで個々のテーマを無理やり貼り合わせた、張りぼてまがいの不統一感が否めない。

それとも、私の読み誤りだろうか。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA